しんとした廊下を歩きながら、虎徹は首筋から肩にかけての筋肉を、片手でゆっくりと摩った。朝から何度もやった動作である。どうしても無意識にそこに手がのびる。
首を動かすたびに、筋が痛んだ。今朝起きた時にはもえこんな状態だった。要するに寝違えたのだろう。そんな変な寝方をしたつもりはなかったのに、と思う。
ひどい寝違えをすると首を動かせないこともあるから、それよりは多少マシとはいえ違和感があることには変わりない。
何度も手で筋肉を揉み解してみたが、たいして症状は変わっていなかった。そのうち治るのを待つ以外ないのかもしれなかった。
唸りながらトレーニングルームのドアをくぐる。
丸い形をしたトレーニングルームには、ずらりと最新の器具が並んでいる。各企業がヒーロー達のために用意したものだ。それぞれ企業のロゴが入れられていて、会社の力関係が伺われる。
珍しくトレーニングルームは静かだった。いつもこの時間ならば数人のヒーロー達がトレーニングをしているのだが、今日は一人しかいない。
ランニングマシーンで黙々と走っていた彼は、入ってきた虎徹に気づくと人好きのする笑みを浮かべる。
白い歯がきらりと輝いてもおかしくなさそうな、爽やかそのものの笑みである。
「やあ、ワイルド君。今日は早いね」
虎徹のことをこう呼ぶのは、彼だけだ。虎徹は小さく笑みを返す。
「よ、お前は相変わらず真面目だな」
日々のトレーニングは企業から課せられたヒーローの仕事のひとつだが、虎徹はあまり熱心とはいえない。トレーニングよりも実践向きなんだ、などと嘯いてみてはいるが、もちろんそれがただの言い訳だという自覚はある。
−−これ以上鍛えても意味がない、と思うようになったのはいつだっただろう。認めたくない現実だが、虎徹はヒーローとしては、もう結構な歳なのである。
「仕事だからね」
キースの返事は少し意外で、虎徹はその顔を見返してしまう。虎徹の新しいパートナーが言い出しそうな台詞に思えた。
誰もに好印象を与えるだろう、キースの好青年らしい顔立ちには、いつもの笑みしか浮かんでいない。
それを見れば、要するにあまり深い意味はないのだろう、と思えた。軽く肩を竦めてから、虎徹は壁際にあるベンチに腰掛けた。
もう一度、首筋に触れる。
調子が悪いのは、右側だ。右に首を回そうとすると、何ともいえない痛みが走る。もちろん動けないほどの激痛ではないが、あまり気持ちの良いものでないことは確かだ。
どうにかならないものかと思うのだが、虎徹の経験上、時間がたつのを待つしかないことはわかっていた。
「どうかしたのかい、ワイルド君」
ふいに影が落ちた。顔を上げれば、ランニングマシーンから降りたキースが、いつの間にか目の前に立っていた。
逞しい体つきだ。アントニオほど大柄ではないが、キースの全身には鍛えられた筋肉がついている。もちろん虎徹とてある程度は鍛えているが、人種的な差からくる体格の違いはどうしようもなかった。
羨む気持ちがない、といえば嘘になる。
「首を、怪我でも?」
心配げに問われて、ようやく何を言われているのか気づいた。
首から手を離して、苦笑する。
「いや、ただの寝違えだ」
それを聞いてキースの表情が、きょとんとしたものにかわる。
キング・オブ・ヒーローと持て囃される彼だが、そういう表情は驚くほど幼い。虎徹に比べれば、実際随分年下である。
「朝起きてたら、首が回らなくなっててな」
だから心配はいらない、と伝えたつもりだったがキースは暫く黙り込んだ後、首を傾げた。
「マッサージをしようか」
思いがけない申し出に虎徹は驚き、それからすぐに首を振った。
「いや、いいよ。放っておけばそのうち治るし。お前はトレーニングがあるだろうが」
キースのトレーニングの邪魔をしたいわけではなかった。
「だが、その首で出動要請がきたらどうするんだい? 見ている人も何か変だと思うだろう」
確かにそう言われればその通りで、虎徹は黙り込んでしまう。
虎徹の心が揺れたことに気づいたのか、キースはにこりと笑って言った。
「そのまま放っておくよりいいんじゃないかい?」
そこまで言われてしまえば、断る理由もない。
わかったと虎徹が頷くと、キースは虎徹の隣に座った。後ろを向くように言われて、その通りにする。
キースの大きな手が虎徹の肩にかかった。じわりと感じる他人の体温が、不思議な感じがした。今まで運動をしていたせいか、触れてくる手は温かい。
キースは、ゆっくりと虎徹の首から肩にかけてを揉み解していく。
いつもであれば、沈黙は苦痛なほうだ。けれどもあまりの気持ちよさに、黙り込んでしまう。
「マッサージだけは、結構うまいんだ」
キースが言う。たしかにうまい。
「お前が『だけ』とか言うなよ、嫌味にしか聞こえねぇぞ、それ」
聞き捨てならない台詞につっめば、キースは笑って答えない。
背中も凝っているといわれて、そのままベンチにうつ伏せに寝そべる。
キースの力加減は絶妙で、痛くもなくかといって強すぎもしなかった。揉まれてみて、確かに凝っていたのだなと自覚する。強張ったからだがゆっくりとほぐされる感覚は、何ともいえなかった。
「……気持ちいい」
思わず呟けば、上で笑う気配がする。
「それはよかった」
あまりに気持ちよすぎて、眠くなってきた。
やばい、と思う。必死で目をこじ開けるのだが、どうにも瞼が落ちてくる。
キースにもそれを気づかれた。
「眠いのなら、眠ったらいい。私と君しかいないんだし」
キースの言葉に誘惑される。うー、と虎徹は呻いた。寝たい。ここで眠ったらどんなに気持ちが良いだろう。
けれども、理性が囁くのだ。
「またバニーちゃんにおこられる……」
あの歳若いパートナーは、最近何かと口うるさい。あれこれと叱られっぱなしなのだ。きっとこんなところで居眠りをしたら、バーナビーは怒るだろう。
何考えてるんですかあなたは。
という言葉から続く台詞が、虎徹には簡単に想像がついた。
起きなければ、と思うのだ一度閉じた目は、なかなか開くことができなかった。
「彼には私から言っておくよ」
キースが優しく言う。
そうか、と思った。
キング・オブ・ヒーローがそう言うのなら、眠ってもいいはずだ。
もう眠くて頭がよくまわっていなかった。意味のわからない納得をすると、虎徹は誘惑に負けた。
「おやすみ、ワイルド君」
遠くで、キースの声が聞こえたが、もう返事をすることもできなかった。そのまま虎徹は安らかな眠りの世界に旅立った。
静かな寝息を立てはじめた虎徹を見下ろして、キースはくすりと笑う。
すやすやと眠る虎徹は、無防備そのものの顔をしている。
近くにキースがいることを、何とも思っていない。むしろ安心しきっているのかもしれない。虎徹にとってはキースはライバルではあるがそれ以前に「仲間」で、そんな存在が自分を害するわけがないのだと思っているのだ。
まあ確かに、キースに虎徹を害する意志はないから、虎徹の信頼はあながち的外れというわけでもない。
マッサージする手をとめて、虎徹の顔をじっと見つめる。
こんなときでもなければ、これほどゆっくりと彼を見ることは出来ない。何しろ虎徹は別の会社のヒーローであり、所属が違えば顔をあわせる機会はそれほどないからだ。
トレーニングルームで顔をあわせるときは、他のヒーローも一緒なので、彼らを無視するわけにもいかない。
うにゃうにゃと虎徹の口から聞き取れない寝言が毀れた。何か夢を見ているのかもしれなかった。
「どんな夢を見てるのかな」
その夢には誰がでてくるのだろう。
出来れば自分がでてきてほしい、とキースは思った。
手を伸ばして、虎徹の髪に触れる。虎徹が目を覚ます気配はない。それに安心して、ゆっくりと撫でてみた。
ワイルドタイガー、というのが虎徹のヒーロー名だが、こうしていると子猫のようだった。
かわいいなあ、と思えば笑みがこぼれた。
「何してるんですか」
ふいに聞こえた声に、キースは手はそのままに顔だけ上げた。
誰の声かなど、聞いた瞬間からわかっていた。
冷たく、わかりやすい敵意を含んだ声だ。
「やあ、バーナビー君」
にこりと笑いかけても、彼から笑みが戻ってくることはない。虎徹のパートナーは、ヒーロー仲間に対しては基本的に距離を置いている。
馴れ合うのが嫌なのだそうだ。
仲間意識など、持ちたくないのだそうだ。
……要するに、それほど彼は傷つきやすく脆いのだろう。
「何をしているんですか」
バーナビーは、もう一度さっきの問いを繰り返した。
キースは虎徹を一瞬見てから、正直に答える。
「寝顔を見ていたんだよ。……ワイルド君は、かわいいね」
自分より年上だといことはわかっているが、そんなことは関係ないのだと思う。
バーナビーの視線が、キースの手の下にいる虎徹に向けられる。わかりやすい苛立ちと、怒りの気配を感じて、キースは笑ってしまいたくなる。
「どうしてこの人は、こんなところで寝ているんです」
「マッサージをしてあげたのさ」
「マッサージ?」
形の良い眉が神経質に寄る。そう、とキースは頷く。
「首を寝違えたといっていたからね」
バーナビーは黙り込み、じっと眠っている虎徹を見つめる。
そこには複雑な、まだ恐らく形にはならない気持ちが渦巻いていることが、キースにはわかる。バーナビー自身それを持て余しているように見えた。
やがてバーナビーが小さく溜息を吐いて、近寄ってくる。
「すみません、ご迷惑をおかけして。起こします」
虎徹を揺り起こそうとした手を、キースは掴んで止めた。
「何故? 君に謝られることはないよ」
「……一応、コンビ、ですから」
だから何だ、と言いたくなるのをキースは堪えた。そうすることは、あまりにキース自身のイメージとかけ離れている。それにキースとて、別にこのルーキーに、意地悪をしたいわけではないのだ。
「このままで構わない。きっとワイルド君も疲れているんだろう。寝せておいてあげよう」
でも、と言い掛けるバーナビーにキースは人好きのする笑みを向ける。
「虎徹君のことなら、私が見ているから心配はいらない。トレーニングをしてくれたまえ」
キースの言葉に、バーナビーが今度こそ黙りこんだ。
緑の目に浮かんだ、キースに対する敵意には、気づかないふりをする。
ヒーローたるもの、弱いもの苛めなどしてはいけないからだ。
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