「最近仲が良いんですね、あの人と」
とバーナビーから言われたのは、虎徹はうんうん唸りながら始末書を書いているときだった。
ここ一月で、虎徹が壊した建物や公共物の損害賠償を裁判所命令で会社が負うことになったのは今朝の話もちろん虎徹に何もお咎めがないわけもなく、上司から長々とした小言を聞かされた後、大量の始末書の作成を命じられたのだった。
これは虎徹にとってみれば、地獄のような命令だった。
デスクワークは苦手だ。椅子に座って黙々と書類作成だなんて、死にたくなってくる。
歳若くしてヒーローという職業についた虎徹は、こういったことをあまりやったことがない。
虎徹は始末書を打つ手を止めて、隣の席のバーナビーを見た。正面にいつも座っている上司は、今日は外勤とかで朝から不在だった。
「あの人って誰だよ」
バーナビーは、話しかけたくせにこちらを見てもいなかった。じっとパソコンの画面を見たまま言う。
「スカイハイですよ」
「あー……かもな」
確かに最近仲は良い。つい先日は意味不明な出来事があったが、かといってキースの態度が変わるわけでもなくあれからもなんとなく親しいつきあいは続いている。
虎徹がキースと一緒にいるところは、他のヒーローたちからもよく目撃されていて、アントニオなどからは「いつの間に仲良くなったんだ?」と不思議そうな顔をされた。
バーナビーは何か言いたいのかと思ったが、パソコンを見たままそれきり口を噤んでしまい、虎徹は頭をかいた。
妬いてるのだろうか、と思う。パートナーが別の人間と親しくしているのがいやなのだろうか。そんな子どもじみたことを、バーナビーが考えるだろうか。
よくわからなかったが、虎徹が今何か言わねばならない場面にあることは確かだった。
このまま黙ってしまったら、きっと後でもやもやする。
「いい奴だぞ、あいつ」
言ってから、あまりに当たり障りのない自分の台詞に困ってしまう。スカイハイの人柄など、誰もが知っていることだ。
キング・オブ・ヒーロー。誰からでも好かれる男。
そういうことが言いたいのではなくて。
「犬みたいだし」
ようやくバーナビーがこちらを向いた。
眉を寄せた顔は、あまり機嫌がよくなさそうだった。今日は一体自分の何が彼を怒らせたのだろう、と思う。バーナビーは繊細すぎて、虎徹にはよくわからない。
「犬?」
「そ。大型犬っていうか……尻尾が見えねぇか?」
思い出して小さく笑う。
名前を呼んだら、ひどく嬉しそうにしていた。声が聞こえると、どこからでもやってくる。あれを犬と言わずして何と言おう。
野良犬ではなくて、きちんと手入れをされた血統書つきの犬。誰にでも愛想がよくて、賢く、人の役にたつ。
「ならさしずめあなたが飼い主というわけですか?」
バーナビーの声には、はっきりとした棘が感じられた。
虎徹は驚いてバーナビーの顔を見る。
つんと取り澄ましたような、作り物めいた顔だ。いつもの営業用の笑顔がなくなると、途端に近寄りがたさだけが印象として残る。
バーナビーは眉を寄せ、苛立たしげに息を吐くと、きっぱりと言った。
「あれが、犬に見えるなら、あなたの目はそうとうな節穴ですね」
バーナビーが何を言いたいのかよくわからない。
「どういう意味だ」
「わからないんですか?」
本当に? とでもいうように問われて、虎徹は困ってしまう
バーナビーが椅子から立ち上がった。
そのまま部屋を出て行ってしまうのかと思いきや、何故か隣の虎徹のところへやってくる。椅子に座っているせいで、見下ろされる形になり、虎徹は内心たじろいだ。
「犬だと思って油断してると、がぶりと噛みつかれますよと言ってるんです」
「噛みつかれ……」
バーナビーの言葉を反芻して、はっとする。そういえばこの前やられたことも噛み付かれたようなものだったのかもしれないと思った。
キースにしてみれば甘噛みのようなものだったのかもしれないが。
虎徹の表情から何かを読み取ったらしいバーナビーの声が、低くなった。
「−−何かされました?」
椅子の上で、虎徹はびくりと跳ねた。逃げたくなったが、何故かバーナビーが両手を虎徹の座る椅子の手すりにつくものだから、椅子に閉じ込められる形になる。
「な、何もされてねえよ!」
ぶんぶんと首を左右に振って断言する。
「されたんですね」
断定されて、虎徹は固まった。
どうしてこんなことをバーナビーに問い詰められているのかさっぱりわからない。お前には関係ないだろうと怒鳴りたかったが、そうすることを許さない空気がバーナビーからは発されていた。
今は黙って大人しくしていたほうがいいと、野性的な本能で虎徹は感じ取っていた。
身を小さくした虎徹の顔に、バーナビーの手がかかる。
バーナビーの手は、ひやりと冷たい。体温が低いのかもしれない。
「あなたは警戒心がなさ過ぎます」
バーナビーが囁く。
警戒心って、と思うが虎徹はのまれたように何もいえなかった。ただ、バーナビーの緑の目を見上げるので精一杯だ。
ゆっくりとバーナビーの顔が近づいてくる。
思わず逃げをうった体を、バーナビーはあっさり押さえつけた。首の後ろを強くつかまれ、強引に上を向かされる。緑の目が視界いっぱいに広がり、恐ろしくなって目を閉じたところで、唇に何かが重なった。
「んっー……っ!!!」
キースにされたものと違って、バーナビーのそれは容赦のない、何もかもを奪うような口づけだった。唇の隙間から舌が入り込み、翻弄される。
どれだけの間そうされていたのか、やがて虎徹の体から力が抜けた頃、ようやくバーナビーが唇を離す。
生理的な涙が浮かんだ目でバーナビーを見上げる。
一体何なんだ、と思った。
キースといいバーナビーといい、こういうことが流行っているのか。
詰りたかったが、声を出せば震えてしまいそうで、虎徹は唇をつぐんだ。
バーナビーの顔に、先ほどまでの不機嫌さはすでになかったが、かわりに虎徹の知らない表情をしていた。
「わかったでしょう?」
バーナビーが、優しく言う。
腕の囲いのなかに、虎徹を閉じ込めたまま。
一体何がわかったというのか、とバーナビーを見つめると、バーナビーは優しく虎徹の頬に触れた。
「こうやって、兎だって噛み付くんです。犬なんかもっとひどいことをオジサンにしますよ。忘れないで、これからは少しは警戒してください」
約束ですよ、と言われて虎徹は何が何だかわからないまま頷いた。
この歳若いヒーローのことが、虎徹にはさっぱり理解できなかったが、頷かないともっと恐ろしい展開が待っていそうな気がしたのだった。
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