糸 I



あんなおっそろしい場所から逃げてきたせいだ。
こんなにも心臓がうるさいのは。



海上レストランの騒乱はようやく水平線に消えた。
小さな船は、風をふわりふわりと受けながら凪の中を進む。
船内も、少しずつ落ち着いてきたようで、もう喚きながらバタバタと走り回る影はない。
 あるのは逆に、ひどく重苦しい静寂だ。



兄貴、と呼び止められた。

おれは器いっぱいの傷薬を運んでいた。
これで3杯目。
そろそろストックも危なくなってきたけれど。

「止血の布、持ってきて下さい。」
いくらふき取っても、傷薬をどれだけ注いでも、ざっくりと裂けた傷から血は止まりそうにない。

「操舵室に、いくらか残っているはずなんス。」
「わかった。」
滲み出る脂汗をふき取るためにも、多めに持ってくるよ。


お願いします。
そう言う声は震えていた。

器を置いて、操舵室へ向かう。
あまりにも頼りない ひゅうひゅうと鳴る息は聞こえない振りをした。


兄貴、兄貴、アニキ。
呼ばれているのはおれじゃない。


気のいい二人組の片割れは、操舵室で船を引っ張っている。
海図を見つめる目からはしかし、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。

ナミがどこに行ったか、大体わかったら教えてくれな。
布をありったけ持った俺は、それだけ告げて操舵室をでる。
かすかに頷く気配がしたことに、少しだけ安心する。

大丈夫だ。
大丈夫だから、早く進まなければ。


くじけそうな声は 聞こえない振りをして。
進まなければ。


「兄貴が、負けた…」





「ウソップ、行ってくれ!」

どれくらい経ったんだろう。
船長の命じるまま船を出して、どれくらい経ったんだろう。
前も後ろも、今はただ水平線が伸びているだけだ。

水平線の後ろにいるあいつは、きっとまだ戦っている。
そのあとは、きっとコックを連れてきてくれる。
恐らく、あの気に入ってたコックを しつこいくらいに誘うんだろう。
仲間に入れとけって、約束したもんな。

だからおれも、早くナミを連れ戻さねェと。

こいつと。






横たわる男からは、ひゅうひゅうと嫌な音がした。

傷にかけられた布はすでに真っ赤で、もう何も吸いやしねェ。
取り替えたところで、端からじわりと赤い滲みは広がってゆく。
何枚分も繰り返したそれに、ヨサクは小さく呻いた。
おれは何も言わない。


心臓が、どんどんと煩い。
嫌な音だ。
けれど、おれはこれを止められない。

そんなに流れてるのは、血だけなのか?

なあ、ゾロ。
本当に?

ああ、心臓がどんどんと煩い。
お前のせいなんだからな。
こんなになっちまうのは。







深く深く、おれは息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。
そして振り返る。
「なあ、」
ぐしゃぐしゃに顔をゆがめた男に、おれは言った。

…明るい声、してるよな?

「…あ、兄貴?」
「ジョニーと、メシの準備してきてくれねェか?」
「そんなっ…呑気な!ゾロの兄貴が」

それ以上言う前に、おれは奴をどかせて、転がる男の頬をぱんぱんと叩いた。

「おら、くたばってねェだろ?ゾロ」



もっとゆっくり息をしろ。
音がしないように。

その不安な音が、漏れないように。



ぴくり、と眉が動く。
繰り返しおれは、頬を叩く。


少しでいい、おれを見ろ。




目を、開けてくれよ。








「あぁ」


昨日までとは違う、掠れた声だった。
けれどその目は、深々と眉間にしわを寄せながらも、確かにおれを見ていた。

心臓の波が、少しだけ治まった気がした。





徒花