それから毎週、男は来るたびおれにそういうことをした。

おれの心は相変わらず冷静だった。
ただ、体が慣れて、反応するのは、ちょっとどうかと思ったけれど。

 “気持ちいいだろう?”

ううとかああとか呻くだけで、おれは答えなかった。
正直、おれはよくわからなかったからだ。

おれのことが。







「サンジ!オーブン!!」

はっと気付いた時には、おれはもう厨房を煤だらけにしてしまっていた。


「バカヤロオ!」
「何ボーっと突っ立ってやがる!どけ!消火だ!」
慌しく、周りのコックどもは料理の手を止めて走り回った。
おれだけが呆然とそれを眺めている。



おかしいな。
男と会った日は、いつもの倍くらい注意深いはずなのに。

絶対にミスだけはしないように、気をつけていたのに。




 そう思ったとき、どういうわけか、いきなり今日男としたことを思い出した。


初めて、アレに触られた。

汗が噴き出す。


明らかに、反応していたおれ。

ひざに力が入らない。


男の身体にしがみついて、達してしまったおれ。






もうもうと煙の立ち上がる厨房は、おれだけを置いてひどく騒がしかったから、おれは一人でトイレに滑り込んだ。



おれはあわてて口をふさいだ。
この口が、勝手に叫びだすかと思った。
何で叫びたいのか、それはわからない。




おれはしばらく、ぎゅっとエプロンの肩を掴んでトイレでうずくまっていた。
叫んでしまわないように、ずっと口はふさいだまま。

何で叫びたいのかは、やっぱりよくわからなかった。





戻ったころには、消火は済んでどいつも戦場に戻っていた。
「何考えてやがる!」
怒鳴るパティの声に、悪い、とだけ答えて、おれは皿を洗うことにした。

クソジジイは何にもいわなかった。
じっとじっとおれを見ていた。


悪かったよ。こんなミス、もう二度としねェよ。

だからその目を早く逸らしてくれ。


祈るように、おれはひたすら皿と鍋を洗い続けた。










次の週。
おれはやっぱり男と部屋にいた。


体が少し震えたか?

そんな気はしたけれど、いざ始まってみればいつもとまったく変わらない。
生ぬるいキスを受けながら、おれは冷静に男の下にいた。


「ああ、君はいけない子だ」
おれを脱がせて、おれを弄くって、男の手は休まることはない。


「こんなふうに私を誘って」
遠い世界から聞こえる声。いつものことだ。


「君がいけないんだ。こんな恥ずかしい真似をして」















バンと、何かが壊れる音がした。





「てめェ、ここで何してやがる。」

押し殺した、低い低い声だった。



・・・冷静だったはずのおれの胸は、そのぞくりとする声音に、狂ったように鳴り出した。

睨む目は、初めて会った日のように、海賊らしくぎらぎらと照りつける。
睨まれたおれの身体は、男を乗せたまま、すくんで動かない。




クソジジイに見られた。
クソジジイに知られた。

ぐるぐると回るその言葉に、おれは震えながらうつむいた。






唸るような声がした。

「テメェは、おれの船で」
ギィギィと、床の鳴る音が、あいつの怒りを伝えている。

もうだめだ。
おれはもうだめだ。

そう思って、ぎゅっと目を閉じた。



「おれの船で、うちのガキに何してやがる!!」









おれの腹から、男が消えた。



ゆっくりとおれは目を開ける。

下肢を無様にさらした男を、義足で何度もけり倒す背中が見えた。






がんっと、ドアの外に蹴り飛ばす。

「そのゴミ、捨てて来い。」
荒い呼吸でそう唸る。


「コラ、とっととこのゴミ野郎を捨てやがれ!聞こえねェか雑用共!」
パティが怒鳴る声がした。

「オラ、サンジ、テメェはこっちだ。」
カルネに担がれて、おれは風呂場に叩き込まれた。








熱いシャワーを浴びているはずなのに、身体の芯は氷のように冷たかった。


みんなに知られた。
みんなに見られた。

クソジジイに知られた。



その言葉だけがぐるぐるとおれの頭をかけまわる。
がくがくと震える身体は止まらない。


いやだ。
ここを離れたくない。



おれは、いつかのように口をふさいで、肩をにぎりしめて、うずくまった。

そして必死に考えた。
腹をくくるしかないってことを。

最後の最後、一縷の望みにかけるしかない。









風呂を出て、置かれていた夜着に袖を通す。
指はぶるぶると震え、釦を留めるのにひどく時間がかかった。

クソジジイの顔を見るのが、ひどくおそろしかった。
けれどこれが最後の希望なら、迷う暇はなかった。

がちがちとなる歯の根を、全力で押さえ込み、あいつの部屋に飛び込んだ。


ぼうと光るランプに照らされた大きな影が、ぐらりとこちらを向く。
何か言われる前に、おれは搾り出すように言った。


「おれを、ここにおいてください。」


全身に力をこめたのに、やっぱりおれの声は震えていた。


「おれを 追い出さないで ください。」





クソジジイの顔は見えなかった。

クソジジイの声は聞こえなかった。



代わりにゆらりと、その影が動く。

二歩、三歩。
ずんずんと大きくなる影に、おれはまったく動けなかった。

強く厳しい、目の前の男をみることに耐えられず、俯いた。

不意に、長い影がおれに伸びる。









---がっしりとした大きなからだ。



たくましくてあたたかいそれが、おれを抱いているんだと気付くまでに、ひどく時間がかかった。


おれの身体は、がくがくと震えたままだ。

無骨な指が、おれの背をゆっくり撫でる。



もう恐くねえぞ、チビナス。




耳慣れた、一番憎ったらしい、誰より大切な声だった。


おれの中で、何かがはじけて、溢れ出した気がした。





・・・おれは、張り裂けるほどに、声を上げて泣いた。




やっとわかったよ。

おれは、逃げなかったんじゃなかった。
逃げられなかったんだ。

受け入れたんじゃない。冷静だったんじゃない。
ただ、動けなかったんだ。


恐くて、おそろしくて、おそろしくて。






「サンジ。」
背をあやすように撫でながら、クソジジイは泣きじゃくるおれの名を何度も呼んだ。



ほんとうに、何もできなかったんだ。
闘うことも、逃げることも、泣くことも。













 声がガラガラに掠れたころ、やっと少し落ち着いたおれを、あいつはベッドに横たえた。
「今日は寝ていけ。」

まるでガキみたいじゃないか、と抗議すると、
「嫌なことに嫌だって言えねぇんだ、十分ガキだろうが。」
と、あっさり返された。

そのまま、あいつはグラスの酒をあおりだす。
ひどく静かな空気に、ガキみたいに泣いた自分がいたたまれなくなった。



「聞こえたんだろ?」
「あ?」
「おれが、誘ったって。」

はっと、鼻で笑う音がする。

「疑わなかったのかよ?」


「んなモン、顔見りゃ分かる。」
テメェが本当に、そうしたかったのかどうかくらい。


「おれは大人なんだ。テメェとは年季が違うんだよ、チビナス。」

その言い草に、この日ばかりは笑うしかなかった。
ああ、まったくそのとおりだ。





空のグラスをからんと鳴らし、クソジジイはおれのいるベッドに腰掛けた。
「女は、いっつもあんなのに囲まれてんだ。大変だなぁ。」
そういって、胸を上下させたのが見える。


 ふと、おれに触れたあの男の手を思い出して、息を呑んだ。

あの目が、あの声が、あの腕が待っている。
絶対に自分が敵わない、あの指が、あの唇が、おれをいつもいつも待っている。

 そのおそろしい事実に、おれはなぜか寒気の代わりに、熱いものがこみ上げてきた。





「すごいな。」
呟いたおれに返事はない。
「おれ、絶対、女の人は守ってみせる。」
しゃくりながら言うと、生意気だ、と笑う声がした。


バカにするなよ。今度は本気なんだ。
守ってみせるさ。
守るべきものはもう分かっている。

「ゼフ、」
「ん?」
「この店、今度こそおれが守ってやるからな。」
「ハハ、鼻水たらしてよく言うぜ、泣き虫のクソチビナス。」
「うるせェよ。」

髪をなでる手。
その袖をぎゅっと握り締めて、おれはもう一度泣いた。







自分のために泣いたのは、これが最後だった。








ガキのころの話だ。

くだらない、何年も前の話だ。


けれどあんまりクソ真面目に戦ってたりすると、たまに思い出すことがある。
正直、自分の腹の底を揺さぶられるあの日の感覚に、ちょっと脚が動かなくなっちまう。



だから、あえて思い出すようにしてるんだ。

「サンジ!」

おれには、抱きしめてくれる腕がたくさんあること。
誰がどういおうと、おれがどう繕おうと。
何があってもその腕は、おれを抱いていてくれること。

「サンジ!」

おれがおれを騙しても、その腕はおれを嘘から引き戻してくれること。






だからおれは、お前には負けないんだ。
決して敵うことはなくとも。









III徒花