しばらくして、男はおれから離れた。
どれくらいだったかはあまり覚えていない。
でも、ヤったわけじゃないし、別に大したこともしなかったから、そんなに長くなかったんだと思う。
服脱がされて、触られて、なめられただけ。
それだけだ。
帰り支度を始めた男を目で追いながら、おれも服を整えた。
常連客がお帰りだ。
おれはいつもより少しゆっくり歩いて、男を見送った。
バラティエのざわめきが、今日は少し遠い気がする。
「また、来週。」
いつもの穏やかな声は、さっきよりずっと大きく聞こえた。
おれは一言も話さなかった。
小さな船に乗って男が離れてゆく。
おれはすぐにエントランスを離れ、テラスに出た。
赤い秋の夕陽を受けて、船はゆるゆると進んでゆく。
船の姿が消えても、おれはテラスに腰を下ろして、赤々と照る陽を見ていた。
別に大したことはされなかった。
“ああ、ノースブルーの生まれだといっていたね”
最後までヤったわけじゃないし。
“きれいな、陶器のような肌だ。”
逃げたり泣いたりもしなかった。
“君を愛しているよ”
おれも抵抗なんてせずに、受け止めてたりして。
“受け入れてくれるのかい、嬉しいよ”
それどころか、やけに冷静に、ああ人ってあったかいんだなあなんて思ったりして。
“すぐに、気持ちよくなるからね”
今だっておれはとんでもなく冷静だ。
“ああ、サンジ”
おれは女の子じゃないし、強いから、こんな大したことないのは、全然どうってことないみたいだ。
“サンジ”
おれを抱く腕。
おれに触れる舌。
おれを見る目。
“サンジ”
“サンジ”
“サンジ”
荒い息に、
ああこの男も大変なことだってあるんだなあと思った。
“これは二人の秘密だからね”
だったら、こんなの大したことじゃないし、ちょっと付き合ってやるくらいいいかって思った。
“知られたら、君はここにはいられないよ”
知られるような真似はしないさ。
おれだってもう子供じゃないし。
“こんなに恥ずかしいことをしてるなんて、みんなが知ったら”
絶対に知られるもんか。
別に大したことはされなかった。
別に大したことはされなかったんだから、知られることはない。
赤い赤い夕陽だった。
階下のざわめきは別世界のように遠かった。
オメデタイあの目が見ていた夕陽は、これとは違うようで、でもおんなじような気がした。
別に大したことはされなかった。
II 徒花 IV