それから毎週、おれはその男に料理を教えてもらった。

猫の手も借りたいレストランから長時間離れるわけにはいかなかったから、基本的にバラティエのキッチンで教えてもらっていた。
そいつは、客としてバラティエに来る時とはまったく別の時間に、わざわざ出向いてきてくれた。
 

またそいつの腕ときたら、半端じゃなくすごかった。

食材の状態を見ただけで、一番いい料理の仕方を調味料や飾り付け、盛り付ける皿まで描ききって見せる男だった。

バラティエの厨房で教えてくれているそいつの姿を、クソジジイやほかのコック共もまんざらではない表情で眺め入っていた。
本当はこいつの腕を、クソジジイ自身見てみたかったのかもしれない。



とにかくおれはこの男から、いろいろな食材の特徴と使い方をたくさんたくさん教えてもらった。
そいつがおれのことを褒めるのは、褒められることに慣れないおれとしちゃちょっとくすぐったかったけれど、それでもやっぱり励みになった。

時々冗談交じりで、
「どうだい、バラティエを出て私のビストロに来ないか?」
と聞いてくることもあるくらいだった。

 ―曖昧に笑って、おれは答えなかったけれど。




クソジジイがおれに「料理方法」なんぞ教えてくれたことがない。

やってみよっかな、とレシピ片手に見よう見真似で作ってみたら、匂い嗅ぎ付けてきて

「ヘタクソ!作り直せ。これは自分で食え!」
で、ちゃんと出来るまで蹴飛ばされる、ってのがいつものこと。


 「コンソメは難しいんだよ。オーナーが君の腕を信用してないなら、君に任せたりしないさ。」

そうは言われても、クソジジイのあの憎ったらしい顔を思い浮かべながら、おれは首を傾げるだけだった。






二月くらい経っただろうか。

そいつが客としてバラティエに来た日、おれは仕事の合間を縫って一週間かけて下ごしらえした食材をつかって、おれ一人でコースを出した。

 やらせてくれ、と頼んで、「好きにしろ。」という言葉があっさりジジイから出たときはちょっとびっくりしたけれど、そんなことにかまけている暇はなかった。
  ぶうぶうと言いながらも、給仕はパティとカルネが引き受けてくれたから、おれはとにかく料理に集中する。


 秋空のランチコース。

最高のメシを食わせてやるために、おれはそいつから教えてもらったことを総動員して、食前酒からデザートとコーヒーにわたるまですべてを一人でやり尽くした。




一番最後、サウスブルーから入った、幻の山の名を冠する豆を粗めに挽いて、ゆっくり白いカップに落としているところに、メインディッシュを下げたカルネが戻って来た。



「おう、クソサンジ。人をアゴで使いやがって。テメェは優雅にコーヒータイムかよ。」
「アホか。」

聞きたいのはそんなことじゃない。

そう顔に書いてあったんだろう。ニヤリと笑ってカルネが言った。


「ああ、あいつ、美味そうだったぜ。」


「ほんとか?!」
「おう、ばっちり完食よ。デザートもいいシーズンなんだよな、イーストブルーの秋はバリエーションが多くてな。」
「おれの腕がいいからな。」
「けっ、言ってろ。」

コーヒーは挨拶がてらテメェで持っていけよ、と残して、ヤツは戦場に戻る。



 深みが出るようにゆっくり落としたコーヒーを、その日も12番に座ったあいつに持っていった。

おれに気づくと、男はにこやかに笑ってくれた。


「流石だね、サンジ。ここまで腕を上げるとは。」


 顔が綻びてゆくのが、自分でもよくわかった。
「ありがとうございます!」
おれはそういって、大きく頭を下げた。


夢のひとつが、かなったような気がするほどに、嬉しかった。

きっと顔に出てたんだろう。
その男は、喜ぶおれを見て、また穏やかに笑った。






すでに空っぽになったデザートグラスを手に取ろうとしたとき、聞かれた。


「君にちょっと話があるんだけど、部屋へ行ってもいいかい?」

 いつもより少し小さくて、でもいつもと変わらない穏やかな声だった。


後で案内する、と言って、おれは厨房に戻った。
 ニヤニヤと笑いながら食器を洗う。








おれのコースが美味かったって。

見たかよクソジジイ。おれ、もうこんなこともできるんだぜ。

もう一人で、コースだって出せるんだ。スゲェだろ。

今度は何を作ろうか。大きな魚を捌いてみたいな。
後であの人に、この季節に一番いいデカイ魚と料理方法を相談しよう。

ああ、わくわくする。
もっと料理がしてェ。




「サンジ!センセイがお愛想だぜ。」
その声に、緩む頬を必死で引き締めて、もう一度客席に戻る。

今日はおごりだ、というクソジジイの言葉に、お礼として5千ベリーを突きつけた後、男はおれのもとへ来た。

「行こうか。」
そういう声にこたえ、おれはあいつを部屋へと導いた。






 何十人という荒くれ野郎共が生活するこのレストランに、たかが1コックが個室を持てるわけもなく、おれは3人のコックと同居していた。

 この時間、バラティエはディナーの準備で慌しいから、部屋の中には当然誰もいない。





ぱたん。おれの後ろでドアが閉まる。

どうぞ、といってソファを勧め、おれはアッサムの葉を取り出した。
安っぽいティーポットに湯を入れ、葉を蒸らす。

そのままセットをテーブルに置いた。



かちゃり。冷たい音がした。


手が触れた。





その手がそのままおれを隣に座らせる。

「ねえ、サンジ。本当に私のビストロに来る気はないかい?」

「え、」
幾度も繰り返された質問に、今日はごまかしはなしだ、と釘を刺される。


どうして今更、こんなことを聞くんだろう。
わざわざ、おれの部屋まで来て。

口から出たのは、その疑問ではなく、男への答えだった。




クソジジイがおれを認めるまでは、ここにいる




疑う余地も、考える必要もない答えだった。

そうか、と男は息をつき、ひどく哀しそうにおれを見た。
「私が教えた子だから、私に力を貸して欲しかったけれど。」

触れられた手に、少し力がこもる。



あわてておれは、男に感謝していることを伝えた。

今日の料理だって、この男に教えてもらわなきゃできないことはたくさんあったってことも伝えた。
今日コースを出せたってことが、おれにはすごく自信になって、この男のおかげで、おれは夢に一歩近づいた気さえするってことも。

・・・すっげぇ照れくさかったけど、ちゃんとありがとうって伝えた。




それはよかった、と呟いた男の表情は、影になってあまり見えなかった。
おれの手はまだ男に繋がれたままだ。


どうしよう、あせるおれは、何とか元気を出して欲しくて、もう一度口を開いた。

「また料理、教えて欲し」






男が突然顔を上げた。


今まで見たことのない不思議な顔に、おれはことばを失った。



繋がれた手がものすごい力で引かれ、おれの髪を掴んだ。

別の手で顔を上げられた瞬間、男の顔は見えなくなった。









ぐにゃりとしたものが唇に押し付けられる。




呆然と開いた口元に、生暖かく湿っぽい感覚が押し込められた。

うごめきまわるそれが何なのか、わからないままおれからは力が抜けていった。





 散々暴れたその感覚は、ちゅうっと吸い付いたような音を立てて突然去った。


「僕に力を貸してくれないなら」


彼方に聞こえる声。
おれの体を締め付ける腕。
頬に、首筋に、まとわりつく、ざらりとした・・・





「お礼に 君の愛をもらうよ。」




彼方で穏やかにきこえるこえ。
おれの髪を穏やかになでるて。
なじみの、穏やかな
あの め。









おれはどんな顔をしていたんだろう。









I徒花III