おれの奇妙な天使




-或る家-


なあ、お願いだ
その目をあけて どうか笑って
おれの おれの大切なひと

繰り返しても、返事はない。
けれどおれは、何度も呼んだ。
起きろよ
起きてくれよ、なあ―





「おら、ゾロ、起きろ。」
そう言うと、もぞもぞもぞ、と布団のかたまりが動く。
聞こえてんじゃねェか。
でも絶対に、その若干1メートル四方の布団から、その緑の頭が出てくることはない。
「ほら、起きろってば!味噌汁冷めちまうだろ。」
・・・もぞもぞもぞ。
寝つきは飛びっきりいいだけに、起きるとなったらこれだ。変な奴。

とまあ、悠長なことも言ってられねェ。
かれこれ15分、そろそろ起きてもらわねェと、おれのなけなしの給料がフイになる。
おれは小さな布団に飛び込んだ。
「おーきーろー!!」
布団を剥いた先にいるのは、90センチ足らずのねぼすけな相棒。
ぎゅーっとぎゅーっと、その小さな身体に巻きついてやる。
そして、顔中にチュウ。
「おきろゾロ、父ちゃんもっとチューするぞ!」
「ぐえ、うええ、おきた、おきたって!」
きゅうきゅう締め付けてやって、ぽこぽこ小さな手が返ってきてやっと、おれたちの朝が始まる。




「うそっぷ、顔、洗ったぞ」
「おおよしよし、じゃあ着替えて、スモックと名札、持って来いな。」
「おう」
六畳一間のボロアパートで共に暮らす、たった一人のおれの家族、それが4歳のゾロ。
「トイレもちゃんと行くんだぞ。」
「わかってる。子ども扱いすんな。」
これが、最近のくちぐせ。
「はは、そうかそうか。」
えらそうなその言葉が愛しくて、いっつもおれは笑っちまって、またゾロはむくれちまうんだ。




たった一人のおれの家族―おれの、子。
あんまりしゃべらないけれど、言葉が遅いわけじゃない。
よく笑う方でもなさそうだけれど、人見知りなんかじゃない。
それは、年よりもずっと大人びた奴だからだ。子ども扱いすんなってのも、伊達じゃねェ。



滅多に売れることのない絵を描くのが、ずっと夢だったおれの仕事だ。
けれどそれじゃ当然食ってけやしないから、いくつもバイトを掛け持ちしてる。
切り詰めて切り詰めて、いろんな人に頭下げて、それでも金のないこの生活のことを、この小さなおれの相棒は、とてもよく知っている。
・・・知りすぎるほどに。
おれに何をせがんだりもしない、好き嫌いもしない、腹が減ったって文句言ったりもしない。
アパートにやってきた奴におれが頭下げてる間は、そっと押し入れに閉じこもる。
そしてそいつらが帰ったあと、何も言わずにぎゅーっとおれに抱きついてくるんだ。
ちっともかっこよくなんかない、父親のおれに。
情けないけれど、それがおれには嬉しかった。
"大丈夫だ"
そう、言ってもらってるみたいだから。
「へへ、ゾロ、晩飯にすっぞ」
少しでも、こいつを安心させるため、父親であるため、おれはまたもう一度立てるんだ。



「お、靴はけたな」
「おう、行くぞうそっぷ」
「よしっ、ゾロも乗ったし。さあ、行くぞチャーリー!」
自転車を漕ぎ出す瞬間。ゾロはいつも、はじけるように笑う。
大人びた顔の多いゾロが顔をくしゃってして笑う、おれの大好きな瞬間だ。






物分りのよすぎるゾロを、おれはたった一度、メチャメチャに泣かせたことがある。
あいつの、4つの誕生日。
やたら力もあり、保育園ではいじめっ子どもをのして回るほど喧嘩も強いと聞いて、おれは提案したんだ。折角だからなんか運動でもやってみるかって。
予算内で設定された月謝のところあちこち見てみて、いちばんゾロが興味を示したのが剣道だった。
「じゃあ、誕生日。いっしょに道場見に行こうぜ!」
「おう!」
すごく嬉しそうに、ゾロは笑った。
・・・なのに。
そんな時に、よりによってそんな時に、おれはありえない量の残業に巻き込まれた。



「ゾロ!」
すっかり、晩飯の時間さえ過ぎちまった頃。
保育園に着いたときは、お泊りの子以外はゾロしか残っていなかった。
「あ」
廊下飛び出してきたゾロは、震える唇をかみ締めていた。
その鋭い目が、ひく、と動いた。
まっかな目。
それは、おれとかち合うと、途端にぱっと逸らされた。



「ゾロ」
靴を脱ぐのももどかしく、おれはゾロをぎゅっと抱いた。
「ごめん、ごめんな。」
何度も、繰り返した。
「ごめん、遅くなって、ごめんな。」
おれは何度も繰り返し、ゾロの頭と背を撫でた。
小さな方がわなわなと震えていた。

「・・・うぞぷっ・・・しごと、だしっ・・・しょ、しょうが、ねぇんだろ・・・っ」

ああ、こんな時くらい、めちゃくちゃにおれを責めていいのに。
それがかなしくて、おれは何度も何度も、謝り続けた。
「ゴメンな、指切りしたのに、ゴメンな」
「あ、あやまんなよう、ううっ・・・」
「約束、守んなかったのは事実だ。だから、父ちゃんは謝る。」


胸からゾロを離し、くしゃくしゃと緑頭を撫でて、姿勢を正す。
「ゴメンナサイ。」
ぺこり。
深々と90度、頭を下げた。

「どうしたら、許してくれマスカ。」
まっかな目を、真正面から見つめた。



ごしごしごし。
赤くなった目をこすった小さな腕が、おれに伸びた。

「おんぶ、しろ」




それが、ゾロのただ一度の、我侭だった。

結局その日は、チャーリーを押して、ゾロを背に抱えたまま、歩いて帰った。






しっかりした頼もしい、おれのたった一人の家族。
おれの、ゾロ。
金もない、ろくな仕事もない、情けないおれだけれど。
その小さな手のために、おれはできることをすべてしようと思う。



夕暮れ。
「うそっぷ!」
廊下の端から呼びかけたら、今日も嬉しそうに駈け寄ってくる。
飛びついてこなくなったのは、父ちゃんとして少し、さびしいかったり、するけど。
まあ、いっちょまえの男になろうとしてるんだ、父ちゃんはそれを、応援しないとな。
「ゾロくん、今日はおともだちと一緒にいっぱい遊んだのよね。」
ビビせんせいの言葉に、こっくんとうなずく。
「ヘェ、そうか!」
ともだちか!今度紹介してもらおう。
おれのゾロを見込んだ奴らだ、きっといい奴に違いないぞ。
そのときはどうやってもてなそうか、そんなことを考えて。
おれは今日も、笑ってゾロの手を引いた。


「ゾロ、楽しかったか?」
「おう」
「ともだち、出来たんだって?」
「おう、これ、もらった。」
お絵かき帳のさいごのページ。
まんまるの顔の下、大きく"ぞろ"と緑のくれよんが踊っていた。









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