男と精霊 I






空の端が朱の予兆を滲ませてゆく。


丘にかまえた陣から、麻の衣を着流したひとつの影がその中に立ち向かう。
藍の合わせから剥き出された肌は、まだ肉も薄く、幼い。
けれど、その若すぎる肩に不釣合いな深い瞳ふたつが
まだ燃えぬ朱を じっと見つめていた。


おはようございます、吾が君。
副将の声に、あどけなく面を崩して答える。

「今日は恐らく、絶好の戦日和になりますな。」
「ああ。面白そうだ。」

小細工なしの、真正面からのぶつかり合いだぞ、きっと。
東雲を再び眺めやる目から、そう答える声がした。
「吾が君は、面倒な策謀はお嫌いですからな。」
呆れたような声に、からからと若い将は笑った。
「だからおれには、いい副将もいい兵も必要なんだ。」
見る目はあるぞ、と誇らしげな声に、今度は副将が声を立てた。




数刻すれば、いよいよ開戦だ。
一日千秋の思いで待った戦。
ここで勝利が、国を変える鍵になる。



この勝利の鍵は、あの男にある。


「あいつは?」
と尋ねる将に、眉をひそめた副将は、目配せをひとつ奥にやる。
将がある日連れてきた異形の兵について、触れるのさえためらわれるのだろう。
疵を持つ頬を静かに吊り上げて、将は兜を副将に預け、奥の陣に入った。






鍛え抜かれた精鋭が300人。
若すぎる将が率いるのは、この小さすぎる軍。
旗を揚げてまだ2年半。
それが今、戦国の世をあらしのように駆け回っている。
 並居る大名どもそろそろ警戒を始めたのだろう。
敵は、総勢20万で総力戦を仕掛けてくると聞いた。


面白い。
若将ルフィの笑いは止まらなかった。

かかってくるがいい。おれとおれの兵に敵うなら。

こいつに勝てるなら。










「開けるぞ。」
答えを待たず、将は簾を上げた。

陣のすみ、鈍い朝の光が広がるそこに、一人、鎮座していた。
どかりとルフィが正面に座すと、武士はゆっくりと瞼を上げた。

―ぎらり。
静かにほとばしる閃光が、ルフィの深い瞳に突き刺さる。


しし、と将は笑った。
「いい目だ、ゾロ。」
その答えに、座する武士は口の端を上げた。
ふわりとさす曙の気配が、短く刈られたその男の髪を照らす。

野に茂る蓬のようで、天を焦がす炎のようだ。







「ついに来たな。」
落ち着いた低い武士の声に、おう、とルフィは答える。
「何十万でもかかってくればいい。おれには296人の仲間がいるんだ。」
語る目に声に、暗さは微塵もない。
「ゾロもついてるしな。」
にやり、若い将は笑った。

「去年の火祭りの夜。」
おぼえてるかと問うと、少し目元を緩めてその男は頷いた。
嬉しくなったのか、ひざに置かれたままの無骨な武士の手を、若い将はぎゅっと握り締めた。
「あの社で、お前に会ったときわかったんだ。」
手を握り締めたまま、将はまたにやりと男の目を見据える。


―これで、おれは戦える。



「なあ、ルフィ。」
握られた手、覗きこむ目をそのままに、男は静かに語りかけた。
「戦の前に、ひとつ聞きたい。」

男の目は、先刻の尖った光を再び灯していた。

「お前は、どうしてたたかう?」


射抜くような眼差しを、若将は真正面に受けて、答える。
「たたかう理由なんざいらねえ。おれは侍だからな。」
互いに、瞬きもしない。
「じゃあ、何故この国が欲しいんだ。」
そのまま繋げる手にだけ力を加え、ゾロと呼ばれた武士は問うた。

ただ 欲しいのではない。
取るんだ。

おれが手に入れるために、この国は転がっている。




「では何故、この国を取る?」

「天下を」
大名たちが繰り返す口にする、大層で、簡素で、烈しい言葉。

「―世界を、取るからだ。」



天下―全ての世界は
この世界は、おれが手に入れるために 在るから。

これが、揺らぐことのない、若すぎる将の思う未来。

「全部取ったら、どうする?」
その問いに、初めて将は首をかしげた。
んん、と唇と突き出して、しばらく考え込む。
そして言った。


「それはまあ、取ってから考える。」





大声を上げて、蓬色の髪の男は笑った。

「結構なことだ。」
笑った声音も呟きも、嫌味でもなんでもない。
あまりに愉快だったから、若将も共に笑った。
からからと。





ああ、そろそろ曙光がさすな。
そう思いながらルフィは握り締めていた手を、笑いをひく。
すると、武士は腰にさした刀をひとつ鞘ごと取り出した。

「将、これをお前に。」
ゆるりと微笑みながら、男は刀をルフィに差し出した。

「何言ってる?ゾロ」
「お前は天下を取ればいい。
 おれの息吹は、お前のそばにおいておく。」

衣を正した若将は両手を伸ばす。
その上にふわりと、武士は赤い鞘の刀を置いた。

鞘から抜くと、刃はやわらかく光った。
しなやかで強いその光は、恐らくその刃のもつ力そのものだろう。



刀を鞘に納めながら、
「ゾロ」
もう一度、顔を上げずに名を呼んだ。

呼ばれた声に応じたのか。
すくりと武士は立ち上がり、陣の外へ向かい始めた。

決然とした、けれどなぜか儚い男の背。



「紅蓮。それが名だ。」
赤々ともゆる、炎。
将は、ひたすらその刀を見たまま、面を上げなかった。


「さらばだ、ルフィ。」 その言葉を最後に、武士の気配は消えた。





深くふかく嘆息して、若将は陣を飛び出した。
あかく染まった空。
東からは、剣のような一閃の光がさしていた。
かぎろいだ。
確か「炎」と書いた。

ふかい瞳は、逸らすことなく光を見据え続けた。





赤い鞘の刀を、握り締める。
「おれと行こうな。」



紅蓮よ、火の神よ、

きみと 世界へ






若い将よ
お前の強さは、きっと望むものをその手に引き寄せるだろう。
お前の道を進みながら。

光ある王者の道か。

闇をゆく血の覇道か。

炎の加護が、お前の道にあるように、おれは紅蓮をお前に託す。



II