男と精霊 I






どうどうと川面をうつ瀧の音。
日の光さえ漏れ入る隙のない深い森に、ほかに生きるものの音はない。

短く刈られた髪からぽたりぽたりとこぼれる雫は、そのまま静かに雄々しい肩に、太い首筋に、硬い肉につつまれた胸に降り注ぐ。



節のある手で水をすくいながら、あらわな半身に男はゆっくりと触れた。
小さな傷から赤く染み出るものはない。
溜め込んだ息を、ゆっくりと吐き出した。
己の中に残る泥濘も、ふわりとともに空に消えてゆく。





さっき斬った感触は、少し去ったように思う。
痛みと紛うほど冷えた水のせいか。
けれどこの冷たさに 震えは微塵も感じない。
寧ろ、やわらかな絹地に包まれているように。

安息。
覚えるのはひたすらにそれだけだった。



震えは感じない。
立ち昇る血飛沫が注いだ、ついさっきまでこの身にあった灼熱の衝動も、今は感じない。

厳しい冷たさと、滑らかな肌あたり。
自らが、静かに安らぎに緩んでいくのを、ロロノア=ゾロは味わっていた。



ほかに生きるものの気配はなかった。






   どうだ兄さん、水加減は。




すっと、明るい声が射した。



男はびくりと振り返った。

見れば、瀧の手前、水面に垂れる一本の太い枝に、若い影がひとつ腰掛けていた。



物の怪か?
しかし邪気はない。


いや、姿を目にしてなお、気そのものが失せている。
心身を緩めていたとはいえ、刀を持つ自分が気付かないとは。


男は途端、鋭く張り詰めてその姿を睨んだ。

驚かせたか、と笑いながら、細い脚でぱしゃぱしゃと漣をつくる。
「お前、気持ちよさそうだったからさ。」




幾重もの屍を越え、刀を振るい続けた男の眼。
怒気を、殺気さえ含んだそれを真正面に受けながら、若い影はゾロにまた微笑んだ。

「いいだろ、ここの水。神さまのお酒なんだ。」
 ごわごわとうねる髪、くるくると動く丸い瞳、やけに大きな口、そしておかしな長い鼻。
「お前も飲んでいいぞ、冷てェけど。」
若苗髪の兄さん、神さまのお使いかと思ったぞ、おれァ。

 屈託もなく話しかけてくるその姿に、魂の堤は少しずつ解かれてしまう。





それでもできるだけ顔を崩さずに、ゾロは尋ねる。
「ここは?」
「道のはずれ、森の奥、瀧のそばだ。
 迷子じゃなきゃ、滅多に来るところじゃねェよ。」
お前みたいな、と笑われた。

む、として、思わず言い返した。
「しょうがないだろう、人を探してたら、道がわからなくなったんだ。」
さがしびと。
それは男が、旅に出た理由だった。

「何故、そいつを探す?」


「斬るためだ。」
それは男が、刀の果てにみる夢だった。


「それが、お前の全てなのか?」

「ああ。」



そう答えると、やせた若い影はじっとゾロを見た。
不思議なまなざしだった。






「・・・まっすぐだな、お前。」


哀れむような。
見晴るかすような。
それとももしか、愛しむような。



静かに、瀧だけが水を打つ。
二人の目は、奇妙な柔らかさで絡み合っている。





堤は、水とともに解けた。




痩せた影は、ゆっくりと岸辺を指差した。
「あの鳥を追えよ。」
見遣ると、白い鞘に包まれた刀のそばに、浅葱色の濡れた翼が震えていた。
「翡翠。」
かわせみ、宝石と呼ばれる水鳥だ。

あれだけ目立つ鳥だ、きっともう迷わないだろう。

枝にかけた、長い鼻影はそう言った。


「ゆく先に迷ったら、求めるものを思いながら、鳥をさがせ。きっと助けになる。」




軽い、なのにやけに沁みいる声だった。






「よかったのかよ?」
「え?」
我知らず穏やかな声で、剣士は細い影に尋ねた。
「神さまのお酒で、行水しちまったぞ、おれァ。」
すると、がははと大きな笑い声がした。
「それほど柔な連中じゃねェよ。」
なるほど。
生意気な顔して、痩せたそいつは笑っていた。
思わずゾロも、つられて笑った。


「ほら」
手に瀧の水を掬い、剣士に細い腕を伸ばした。

おもむろにゾロはその影に近づいてゆく。
硬い手を、痩せて骨ばったそれに添えた。

そしてそのまま、掬われた水を一口、含んだ。



「きれいな水だ。」
男を見返すと、にっと笑っていた。







翡翠は山吹色の胸を膨らませた。
さあ、案内人がお待ちかねだ。
「ありがとう、さっぱりしたよ。」
そう言って、剣士は水辺の影に背を向ける。


「達者でな。」
ぴちゃん。
静かに、雫が落ちた。



鳥が導くのは、お前の求める、人斬りの道。
まような、すすめ。
水を得た者よ。

そんな声が、瀧音にまぎれて聞こえた気がした。


瀧の音に見送られ、飛ぶ宝石の後をついて、剣士は歩き出した。

頼むぜ、鳥よ。
森の主、瀧の神の使いよ。








鳥が導くのは、水への道。
けがれを、おとせ。
まっすぐに求める者よ。
お前の道で浴びる、身体と魂の穢れを。
瀧の水は、お前のために注ぐから。



IIII