男と精霊 III






花街をゆく白粉売りの影はずいぶん長い。
そろそろ姐さん方の出番だからねと、筆を置いた。

ねえ絵師の旦那、今夜は帰るなんてやめておくれよ。

やむことのない夕餉の誘いを今日も笑ってすりぬける。



柳連なる道に人通りはない。
そろそろ夜桜を肴にと、町男たちが娘と連れ立って繰り出しそうなものだけれど。

春の気に満ちているはずなのに、やけに今日は宵のまわりがはやい。
足元を照らさねばならない刻までには帰れるだろうと、志の提燈は断ってしまった。


やれやれと頭を掻いて、絵師は宵闇に沈む途を歩いた。
時折の物音に、骨ばった肩を震わせながら、ぽつぽつと歩いていた。






柳の途の終わり、東へ下れば絵師の小さな家だ。

けれど、最後の柳を見たきり、脚は動かなくなった。

浅緑の柳、闇に沈んでゆく道の終わり、そこだけがほんわりと浮かんでいる。






   ずいぶんな時にお帰りじゃねえか。
   逢魔が刻、わるいお化けにさらわれちまうよ。







 静かな低い声はやけによく響いた。



するすると立ち昇り、ふわり広がって、煙は色づく桜のうしろへ消えてゆく。
手元にある細身の煙管は、紫煙うずまく花街でも見かけないものだ。



「なあ、異形の絵師さんよ。」

くるりとこちらを向いたのは、夜目にもよく映える瑠璃色の瞳だった。




ああ自分は、遂に異界へ迷い込んでしまったのだろうかと絵師は思った。

 どこかの花魁が纏っていた一斤染のような、さくら。
 ゆらりふわりと白くけぶる奥には、どこの大店で飼われていたか、
かなりあという鳥に似た、やわらかくかがやく金糸。

 全てを鈍く抑えてゆく宵の口に、あまりにもその木の周りだけが淡すぎた。






「魔ってのは、お前か?」
ぼうとした頭を傾けて、絵師は問うた。
さあてね、と金色の髪をふわり揺らして、華奢な影は煙を吹き上げる。
二藍に染め上げられた綿の袖が、やわらかな夜風になびく。

「魔物はお前だろう、天狗さまのご親戚かい?その立派な鼻。」
へへ、と笑う気配。
小奇麗なつくりで、ずいぶんとたくらんだ顔で笑うもんだ。
「うるせえよ、オバケ。」
そう口を尖らせると、ますます嬉しそうに桜の男は微笑んだ。



「今日も描いてきたんだろう、絵師さん。」
ひょいと首を傾けて、今度は男が絵師に問うた。
ぐるり巻いた奇妙な眉が機嫌よく上弦をかたどる。
「おれを知ってるのか?」
「有名じゃねェか。」

遊女や陰間を、ことさら可憐にあたたかく描く 街絵師ウソップ。
わざとらしく纏われた媚や艶はほとんど筆にのせはしないから、小屋の旦那どもからの人気はないけれど
描かれた本人たちはたからものにしてくれる、そんな絵を描く男だった。


「あったかい絵が、懐かしいころの自分のようだって、お嬢さんたちがよろこんでたぜ。」
男の言葉に、ウソップは少し朱くなって笑う。
「そういう顔の方が、よく見えちまうんだよ。」
「街絵師にならねェじゃねえか。」
無邪気に大口を開ける陰間の小僧、生娘のように素朴に笑む花魁、そんなのばかり。
からかうようにそう言われると、少し膨れてみせた。




「おれは浪漫の男なんだ。」





ひゅうとひらめく風。
そんな気がした。

静かな宵闇を、けたけたと笑う声が駆け抜ける。
たゆたうやわらかな煙をさえ見事に散らす。

・・・風のように、鮮やかに咲いた花から、絵師は目を離せなくなった。


宵闇を淡く彩る、桜の下の男。
けれど風のように快活に、花のように朗らかに、笑う。
つかみどころのないものの輪郭が、少し、見えたようだったから、思わず口にしていた。

「なあ、あんたを描いていいか?」



「何だ?お前も惚れたのか?この男前に。」
くいっと口端をひねる。
「いや、寧ろ描きたいのは、馬鹿笑いのほう。そっちに惚れた。」
ウソップが平然と返すと、今度は静かに笑って、男は問うた。


「恐れはないか?」
「何に。」

「さっき、てめぇが聞いたんじゃねェか。」
おれが、魔物かどうか。


「いや、寧ろ…神さんかな。」
八百万も居やがる神さん、これだけ柄の悪い顔してるのも、ないとも限らぬ。

「だから、少しは恐い。―冒険みたいなもんさ。」




へっ、と、煙管がまたご機嫌に揺れた。
「好漢め。」

今度は絵師がごうと笑った。



「いつかお前を描くことができたら、また会えるかな。」
「見せに来いよ。必ず。」
「20年くらい先になるかも?」
「それでもだ。」


おれもここにくるから、と、男は垂れる桜の花をひとつ、撫でた。
「標だ。失くすなよ。」
白い指から托されたのは、一輪の花と一片のつぼみ。


指は離れると、すぐにふわりと消えた。
ざあっと、風が一陣桜を巻き上げる。




「さくら、」
ほの白く灯る花をそっと手に包み、絵師は東の道を折れた。
どこかの柳がさらさらとなっていた。



いつの間にか月がぽうと照っていた。






お前のゆく道を少しだけ照らしてやるよ。
悪い香に惑わされないように。
さみしい魔物に、とらわれてしまわないように。
花明かりほどの、桜の守護を。







IIIV