「Aiha」



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 鈍色の金属に覆われた部屋には、中央に細長い筒状の入れ物が置かれていた。
 青い溶液が満たされた透明な筒は、光量の乏しい室内で淡く光を放っている。水底を思わせる揺らぎが床や壁に映り、泡の粒がふんわりと下から上へと浮きあがっていく様が時折影になって見えた。
 溶液の中に漂うのは、短めの黒髪とほっそりとした手足を持つ少年だ。瞼を閉ざした体は溶液に支えられ、沈むことも浮き上がることもなく、白く清んだ面差しを余すところなく晒している。

 "D溶液排出/開始します"

 短い警告音が響き、溶液の排出が開始されると、少年の体はゆっくりと降下を始め、底に足を付ける。
 溶液の代わりに温風が流れ込み、体が乾くのを待ってから、水槽を覆っていた壁が下へ沈み込んでいく。氷が融けるように形を失い、円形の土台だけが残った。

 "排出完了/覚醒/信号確認"

 螺旋を描いて上へ抜けていく風でふわりと髪が浮き上がり、それに導かれるようにして少年の瞼がひらいた。
 溶液の青さとは違う、夜の空のような深い夜青の瞳が現れる。
 風が止むのと同時に室内に人工的な白い光が灯ったが、その中にあってもまるで輝く星のような眩さを持った瞳だった。溶液の中にいるときは白い人形のようだった肢体は、夜青の輝きを受けて、生が灯る。
 少年は具合を確かめるように軽く手足を動かし、つなぎ目のない床の上を迷いのない足取りで横切った。室内には機械を守るための冷気が満たされているため、凍えるほどではないが寒く、足先からじわりと体温が奪われる。
 室内にひとつだけある扉の前に立ち、球体型のカメラに姿を映させると、生体認証完了を示す緑色のランプが灯った。隣の部屋に続く扉がひらくと、眩しいぐらいの光が飛び込んできて、少年は軽く目を眇める。
 中は暖かく、壁も床も病院などに使われるような強い抗菌力のある素材が用いられており、溶液から出たばかりの体に負担がないよう考えられていた。
「おはよう、藍葉(あいは)」
「貝原さん。D溶液の配合、また変えたでしょう。クレパレセ3.00、コーフェイル1.17、追加しておいて下さい」
 声をかけてきた白衣の男を見上げて、藍葉は眦を尖らせる。言い終えてからおはようございますと、まるでそれが義務のように付け加えた。
「でもなあ、体に悪いんじゃないのかなあ、それ」
「とんでもない。それでちょうど良いです」
 柔和そうな顔を曇らせながらも、白衣の男は少し嬉しげな笑みをのぞかせる。たとえ取って付けたようにでも挨拶が返ってきただけ良い、と思っているのが丸わかりだ。
 そのような反応などまったく気にかけず、作り付けのロッカーをひらき、藍葉は用意されていた着替えに手を伸ばした。
 衝立もなければ、それの代わりになるような物もないが、今更と言えば今更である。どうせここまで一糸まとわぬまま歩いてきている。
 幸いロッカーの方向が男とは逆向きで、背を向けたまま下着を身に付け、シンプルな白い長袖シャツとホワイトブルーのボトムを重ねた。終わりに細い銀の環を左腕にはめる。鏡も見ずに身繕いを終えて後ろを振り返ると、男が隣室を臨める壁の前でコンソールをいじっているのが見え、藍葉は形の良い眉を小さくひそめた。夜青の瞳を真っ直ぐ男に向ける。
 コンソールの前は窓だ。
 筒状の入れ物のある部屋からは見えないつくりになっているが、見えるようにすることもできるし、モニタの代わりにもできた。
 後者の方法で窓に重ねたフィルム型のモニタには、無数の数字とグラフが並ぶ。それらに目を留めて、藍葉は貝原の隣に並んだ。藍葉の背はまだ貝原の胸もと辺りまでしかないので、モニタの角度を調整し、どちらにも見やすいようにしてある。
「ちゃんと快復しているよ。このままでも大丈夫じゃないかな」
「どこがです。全然大丈夫じゃありません」
 総合的な評価から言えば、貝原の言うとおりである。
 だが自分の身体データを見て、藍葉は不満を露わにする。藍葉が求めているのは回復だけではない。
 今まで藍葉が入っていた細長い筒状の入れ物。俗にDポッドと呼ばれる入れ物は傷を癒し、体力を快復させるためのものだった。身体機能の向上、精神の安定作用など様々な使い方があり、医療用にも似たようなポッドが普及しているものの、それとはまったく別の意味を孕むものである。
 のんきな発言をするDポッド管理者を冷ややかな視線で捉えた藍葉は、腕にはめた情報端末を起動させ、半透明の画面に貝原の引き出したデータを転送させる。読み込みが終わってから、気になっている画面上の数値を端末から勝手に変更した。
「快復だけなら医療用ポッドを使います。せめてこれぐらいないと」
「うん、でも藍葉には向かないね」
 30を少し過ぎたばかりの貝原はにこにこと微笑みながら、恐ろしく早い入力で画面の数値を書き換える。
「どうしてもって言うのなら、クレパレセ2.78、コーフェイル0.58、ポーフェレセ4.43にしてみようか」
「ポーフェレセは8.11です」
「うーん、4.93」
「4.93!僕をどれだけ無力化したいと言うんですか?」
「でも君は14才の子どもだから」
「………、ッ」
「つよさよりも今は体が大切だよ」
 たとえそれが正論だとしても。
 藍葉には非常に腹立たしいものだった。それを言われると身動きが取れなくなる。
 藍葉の動きが止まったことで、先ほどから現れては消されている設定値の異常を示す警告文が画面に残り、耳障りなエラー音が伴う。藍葉は怒りをはらんだ視線を傍らに投げつけてから、無言で警告文を消した。
「貝原さん…1度じっくりお話したいのですが」
「うん。あ、そうそう、社長が来て欲しいって言っていたよ」
「……、今、それを、言うんですか」
「ごめんね、後になって」
 社長からの呼び出しなら藍葉が何より優先することを分かっていて、そう言っているのだ。
 なんという面の皮の厚さ。
 なんというずるさだ。
 心の底で思う存分それを罵りながらも、ここで言い合いしていても埒があかないのは分かっていたので、藍葉はじっと口を噤んだ。
 社長からの呼び出しにはなるべく早く応えなくてはいけないが、貝原との意見交換にはそれがない。つまり、話し合いは後回しである。
 まずはここを出て、通常の医療ルームに戻らなくてはどこにも行けないから、藍葉は無言で専用エレベータを呼び寄せた。ここはだいぶ深いところにあるせいか、箱が到着するまでに少し間があく。それでつい藍葉は貝原の方をじっと見てしまった。
 内にこもるばかりの研究者にありがちなのんびりとした雰囲気をしている癖に、藍葉は1度も自分好みの溶液濃度にしてもらえた試しがない。やろうと思えば、彼の決定に従うことなく好きなようにはできるが、ポッドの管理者として彼は有能である。貝原に任せておけば間違いがないことも、よく理解していた。
 じっと見つめる藍葉に何を思ったのか、貝原はにこにこと目を細めて手を小さく振った。」
「修正用データを送りますから、秘匿コードは51254で」
「うん、いってらっしゃい」
「…いってきます」
 ちょうどよく辿り着いたエレベータの中に乗り込み、にこやかに送り出す貝原に背を向けて、藍葉はゆるやかに上昇をはじめる箱に身を任せた。




 朱月セキュリティサービス。
 通称ASS本部の中層階はいつも賑やかだ。藍葉は広々とした廊下を横切り、このフロアでいちばん広い部屋に入った。
「おはようございます」
「おはよう、藍葉くん」
「藍葉隊長!あのさ、このまえの処理なんだけどさ」
「すみません、それは先に副長へまわしてください」
「あっ、藍葉さんっ」
 次から次へとまとわりつく所用の嵐を振り切り、藍葉は真っ直ぐに社長室に向かう。
 地上286階にあるフロアは広々とした空間を贅沢に使った一部屋で、壁などの仕切りがなく、すべてひと繋がりである。棚や観葉植物などで一応囲いがつくられているところもあるが、唯一社長室だけが区切られ、四方を壁に覆われていた。
 社長室の扉はいつも通りに開け放たれたままだったものの、形ばかりノックをしてから室内に入る。
「社長」
 向き合って話をしていた青年うちのひとりが藍葉を振り返って、柔和な顔に優しい色をうかべた。
「ああ、おはよう、藍葉。すまないけどちょっとそこで待っていてくれる?」
「はい」
 微笑みをうかべた社長の言葉に頷き、壁際にそっと立つ。
 部屋の中にあるソファに座っても良いのだが、藍葉は窓から外の景色を見下ろすのが好きだった。無数のビルが乱立し、立体交差型の道に車が行き交う。浮遊型のエアカーが主流になってから、道は光の線で区切られただけのような道が目立っていた。
 ただ藍葉には道などあってないようなもの。この建物内にいる者の多くがそうだ。
 ここASSは対能力者専門の組織である。
 今からおよそ600年ほど前、世界は変わった。超能力と呼ばれる力をもつ者の誕生、時を同じくして生まれた"敵"。
 それは人であって人でなく、魔とも呼ばれている。能力者と同じような姿形や力を持っているが、まったく別の理を持つ者である。
 人々は新しい力に怯え、魔と人は争った。
 今現在でも全ての人が能力者として生まれるわけではない。そういった力を持たない者も大勢いる。人と人もまた争い、世界各地で何らかのトラブルが起きているのが、今のこの世だといえるだろう。
 ASSは人と能力者の揉め事を処理し、魔と対抗するための組織。
 そういった武装集団は数多く存在しているが、まだ新しい組織ながら全職員が能力者であること、職員の殉死率の低さに対し、苛烈な戦闘法をとることなどで、ASSは知られている。ASSの戦闘が開始されたらすみやかな避難を選ぶ。これが一般市民の常識である。
 創設されて10年ほどの組織としては異例なことに、今では世界の10強のひとつとも呼ばれているが、古くからある大規模組織にはやはり差をつけられているのが現状だ。
 ASSの社長、朱月螢(あけづき ほたる)は血なまぐさい集団には全く似つかわしくない優しげな顔立ちの男である。
 虫も殺さぬ顔をして、とは言い過ぎかもしれないが、善良を絵に描いたような雰囲気の持ち主は、祖父から引き継いだ小さな警備会社をレッドにまで仕上げた張本人だった。
「待たせたね」
「いえ…」
 社長が向き直るのとともに閉じられた扉を見て、藍葉は居住まいを正す。
 大部屋と社長室を繋ぐ扉はいつも忙しなく人が出入りするので、普段は開け放たれている。
 それが閉じられる時は大切な話をするとき。
 許可ないものの入室は禁じられ、視覚や聴覚に特化した能力者にも部屋の中が見られないような仕掛けが働いた。能力者としてもレベルが高い朱月自身が考案し、機能させているのでかなり性能がいい透視盗聴除けである。
 促されてソファに腰を下ろすと真向かいに朱月が座り、その隣に今まで彼と話していた側近の男が立った。
 側近の間宮は朱月とは全く違う硬質な雰囲気の男である。
 朱月よりも2才年上で、細いフレームの眼鏡をかけており、端整な顔立ちをしているが、薄い唇と切れ長の瞳が酷薄そうな雰囲気を際だたせる。朱月の側近の中でも切れ者で有名であり、能力者としても凄腕なことで知られていた。
「間宮」
 朱月が呼ぶと、間宮が藍葉の前に幾枚かの書類を並べた。
「これ、見てくれるかな」
「……、能力審査会からの審問書?」
「そう」
 2本の杖ふくろうが描かれた紋章付きの封筒。おそらく能力者でこれを知らない者はいないだろう。
「………誰宛で?」
「君宛」
 ひどく嫌そうな顔をした藍葉に朱月もまた苦笑いをうかべた。



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