底を抜いた器からこぼれ落ちてゆく砂ように、体の中から眠りが抜けていく。 オンとオフが切り替わるように、まどろみもなく眠りから目覚めた藍葉は、傍らに眠る相手を起こさないようそっと体を起こした。鴫原は深い眠りの中にいるようで、幸い目覚める様子はない。 まだ朝早く、窓があれば日が昇る前の夜暗さがのぞくはずだった。 備え付けの洗面台で顔を洗ってから、殆ど空に近い冷蔵庫をあけて水の瓶を取り出す。深い緑色の瓶入り水は鴫原が好んで買ってくる銘柄で、他のものよりもずっと癖がなかった。それをコップにそそいでゆっくり飲み干してから、寝室とは別にある自分の部屋に入る。 ごちゃごちゃと入り組んだ配線や剥き出しの回路がのぞく塊、鋼色の箱などがめいっぱい置かれている部屋は、どちらかというと倉庫か作業場のようである。とっさに足の置き場に困った藍葉はそのまま宙に浮いて、狭い室内を横切った。 すぐにそうやって中空に逃げるから片付かないのだ、というのは朱月の弁だが、とりあえず歩けなくてもどうにかなっているのだから、まあいいんじゃないか、というのが片付けられない側の言い分だ。 部屋の真ん中には毛布とクッションでできた場所があって、いかにもそこがお決まりの巣であることを示している。案の定、そこへ降りればあつらえたかのように体がすっぽりうまった。 仰向けのゆったりとした姿勢で傍らの機械に触れ、キーボードを起動する。薄く透けるキーを叩くと、淡く光を帯びた透過型パネルが現れた。浮遊モニタは上へ浮きあがり、藍葉の頭から足もとへその身をくぐらせる。くぐり終えれば生体認証完了の文字が現れ、正面に移った画面にパスワード入力を求める簡素な文面を映し出す。パスワードは数字とアルファベットを混ぜた32桁だが、それを打ち込む藍葉の動きにはまったく澱みがない。 "ログイン完了" "幻影空間を起動しますか?" Y/Nの問いかけにYと応え、藍葉は瞼を伏せた。 部屋中に配置した機械から蒼い光がこぼれ、風が吹き付けたように揺らぐ。 そこは瞬く間に光が降り注ぐ水底に代わり、藍葉の目の前を鮮やかな色を放つ背びれと尾びれをもった魚が泳いだ。 実際には存在しないが、まるでそこに在るように錯覚させる。汎用型の幻影機はあらかじめ搭載してある映像を利用者の中に映し込んで、偽物の世界を見せた。基本的にはただそこに佇み、あるいは寝そべって風景を楽しむもので、歩いたり、何かに触れたりすることはできない。 藍葉は泳ぎ去る魚をじっと見つめながら、途切れなくキーを叩き、モニタに打ち込む数値、あるいは構築式を書いては消し、動かす。その度に水中の風景が揺らぎ、床につややかな小石が敷き詰められ、見たこともないあでやかな光をまとった魚が泳いだ。 藍葉の趣味は幻影空間のデザインで、現実の風景をより忠実に描くことが主流の中、この世にはない風景を織り交ぜて描くのを得意としていた。 思い描いたものをそっくりそのまま映す幻術を使える者なら、わざわざこのような機械に頼らなくても同じことが出来るし、藍葉にはそういった能力もある。 それでも幻影機を使い、はっきりとした形で空想の中の世界を構築していく作業は楽しかった。 能力に頼ればそれはあっという間に出来るだろうが、後に何も残らない。 たとえばこの世界に自分以外の誰かを加えることだって容易いが、映し出した藍葉の記憶を別の誰かが再現することは出来ない。能力による幻影は機械による保存を受け付けないからだ。 水底に射し込む光のゆらぎや、色合いに苦心していた藍葉は、その色の中に明るい水色の瞳を思い起こし、キーを叩く手を止めた。 機械仕掛けの風景を好んで生み出す藍葉だが、ひとつずつ膨大な計算式を組んでも再現が難しい、人の記憶というものが持つ素晴らしさも認めている。人は論理立てた思考ではない、閃きという名で、たやすく絵も音も匂いも感触も伴わせられた。ただそれは少し恐い、と思う。 幻影機の映像の中にはない、感情という要素がそこには含まれている。 たとえばそう、記憶の底に押し込めていたはずの人影がふいにうかびあがり、避けようもなく心が揺れるように。 夏の空のような明るい水色と、白樺のような乳白に薄い茶色が混ざったような髪の色。肌は白く、青白いほどで、なでらかな肩に少し骨張った薄い体。藍葉を見るといつも柔らかに微笑んでいた。 嬉しげな顔で、幼い藍葉を抱き上げていた人。 瑞々しい若木のような青年のようで、花ひらく前のつぼみのような少女らしさも持つ、中性的な人だ。 懐かしさと同じだけ、身を切るような衝動が胸を塞ぐ。 もう生きてはいないはずだ。同じ研究体としてつくられた存在であり、藍葉と、新所長ファリスとを繋ぐ存在だった。体が弱かった点と、ふたりの血の繋がった親という特殊な立場から考えれば、前向きな考えにはどうしてもなれない。 おそらくはそうした予想であり答えが、長く触れなかったファリスの話で思い出させたのだろう。 彼を思い出した理由を頭の隅で冷静に分析しながら、記憶の通りに、あるいは薄れかけた記憶がつくりだす願望も含んで佇む青年の姿にしばらく見入った藍葉は、彼をすり抜けて乱れ、とろりと融け消えた魚にはっと我に返った。 能力を介し、直接幻影機に干渉するのは機械に多大な負担がかかる。気づいたその瞬間から映し出された映像の崩壊がはじまっていた。 急いでキーを叩いたが間に合わず、回路がバチリと音を立てて灼けつき、薄く煙が上がってしまう。周囲を覆っていた幻影風景が瞬く間にかききえた。 「あー…」 「藍葉、そろそろ食堂へ行きましょうか。……」 いつのまにか起き、すっかり身支度を調えた格好で顔を覗かせた鴫原を、藍葉はおそるおそる、といった動きで振り返る。誤魔化そうにも合成樹脂が焦げ付いた独特の臭気は隠せず、きょどきょどと視線が彷徨った。 「また、壊しましたね?」 「んー…、えっと…、ごめん。シギ、あとで見て…くれる…?」 ソフトつくったのは藍葉だが、幻影機本体は鴫原が設置したものだ。対能力用の素材は使っていないので注意するよう言われていたのだが、つい忘れてしまう。今月に入って5度目の破壊はさすがにちょっと多く、視線に込められた怒りはもっともなものである。 さすがの藍葉も肩を落とし、鴫原を拝んだ。鴫原の手にかかった幻影機は市販のものより格段に性能が良く、怒られるのは恐いが、それでも直して欲しい、と全身が訴えている。今つくっている幻影の完成が近づき、このところの藍葉は時間を忘れて幻影機に入り浸っていた。 鴫原はダメだとも分かりましたとも取れる、おざなりな頷きを返す。それが鴫原なりの了解だと知っている藍葉はほっと胸を撫で下ろした。毛布でできた巣の中にうずもれた藍葉を、鴫原は中空を渡って引っ張り上げる。 「ぐずぐずしていると遅刻します。着替えてください」 今日はふたりとも出かけなければいけなかったし、直して貰うにしてもちょっと時間がかかるかもなあ…、と、藍葉はしょんぼり思っていたが、それを言うと怒られるのが分かっていたので、大人しく頷き、着替えをするために寝室へと移動した。 幻影機は夜までに治るらしい。 朝食を済ませてからいったん部屋に戻り、機械をみてくれた鴫原の言葉に藍葉はほっとした。安堵したのもつかのま、護衛ふたりとの待ち合わせ時間が迫っていたため、すぐに複数のエレベーターを乗り継ぎ、裏口へと向かう。正面入り口ではないのは、そこからの方が学校へ行くのに都合がよいからである。 「おはよう」 「おはようございます、隊長。さっそくですが本日のスケジュールを確認させていただきます。0820登校、0830SHR、1235昼食、1515SHR、1530下校、1630本部、1730夕食、1820会議、1910合同訓練、2200就寝」 「ミヤ…。……」 挨拶もそこそこに放たれた台詞にあっけにとられ、藍葉は苦笑った。 宮塚は予想を裏切らない男だ。 背骨に何か仕込んでいるのかと思うほどぴんと伸びた背と、短く刈り込んだ髪は高校生とは思えない迫力がある。 いつも通り堅くにこりともしない慇懃な態度に呆れるやら感心するやらで、藍葉は宮塚が目を通していた手のひらサイズの固定型画面を覗き込む。そのまま指先を弾いて無造作に斜線をいれた。 授業時間はともかく、下校から就寝までをまとめて消去し、会議と合同訓練だけ別記で残す。持ち主に似たのかスケジュールの設定に不備があるとのたまう注意文は読みもしないで取り消すと、目の前の顔が歪むのが見えた。 「これでは意味がありません」 「きっちりつめる必要はない」 「ですが、作戦行動中です」 「ミヤはね。僕は違うよ。ただ学校に行くだけだから」 ごくわずかに寄せられた眉間のシワが更に深まり、無愛想さの中にに敵意が混ざる。射殺されそうな視線を向けられた藍葉は平然としたもので、片手に提げたままだった四角い革鞄を背負った。 久しぶりに袖を通した制服はどこも小さくなっていなかった。未だ成長期を知らない体は短期間での容積増加には至らなかったらしい。藍葉はがっかりしたが、学校指定の制服はよく似合う。 オフホワイトのシャツは丸襟で、中等部2年を示す細い臙脂のリボンを蝶結びにしていた。黒のブレザーにズボン、爪先の丸い黒い靴。生地には模様がなく、ぱっと見たところに校章などの刺繍も、それを象った釦もついていない。 高等部に上がればネクタイも使え、シャツも白で無地なら指定はなくなるが、可愛くていい、という保護者からの絶対的な支持のもと、高等部に上がってもリボンを結ぶ生徒も多いのがこの学校の特徴だ。 制服姿の藍葉に気遣ってか、一応護衛という立場を考えてか、制服がない学校に通う宮塚はふだんのラフな私服姿ではなく、首もとまできっちり締まるシャツの上に灰色のジャケットを羽織っていた。そういう格好をしているとますます学生には見えず、宮塚の姿に一種独特な緊迫感をはらませていて、まるで叩き上げの軍人のようである。念のため言えば、彼にはそういった経歴はない。 「今日からよろしくね」 姿形には口を挟まず、藍葉は愛想良く微笑んで見せた。 宮塚は藍葉を学校まで送り届けてから自分の高校へ向かう。彼が通う高校は選択制の授業が多く、また授業時間も短いので、藍葉と合わせて帰宅することができる。その為、帰りにふたたび合流し、護衛の任に就くことになっていた。 微笑んだ藍葉に宮塚は眉間にシワを刻んだまま頷く。 「副長より隊長が行きたがる、したがる、あるいは逃げたがることについて入念に打ち合わせています。安全かつ迅速な登校下校をお約束します」 「…………そう」 打ち合わせするなら、ふつう、より安全な道選びやら、有り得そうな危険についての話ではないだろうか。 そうは思ったが口にはしなかった。 非常に折目正しい、質実な宮塚を鴫原は気に入っていて、きっと彼ならば気ままな藍葉に翻弄されることもなくきっちり送り迎えをしてのけると期待しているだろう。その為の打ち合わせであることは聞かなくても分かる。 宮塚が押し黙ると、どこか整然とした沈黙が降りる。 そこには打ち解けるために必要とする会話も表情の変化もない。守るために在る、という機械的な空気が漂った。 しかしながらそれは、たったひとりの登場であっさり崩れる。 「おー待たせですっ、隊長!おはようございます」 「小河、1分20秒の遅刻だ」 ヒヨコの挨拶を遮るようにして宮塚が鋭く口をひらく。待ったもかけられない素早い反応だった。 「違うって、1分14秒だろ?」 応えるヒヨコは時計を見ながら否定した。どちらも細かい。 「あー…、じゃ、行こうか」 「はいっ、隊長っ」 ヒヨコが来ると、場は一気に和む。 正しく言えば、苛立ちの矛先が藍葉からヒヨコへ移るので、刺々しい視線もいかめしい顔も向けられなくなる、というだけだが、それを向けられるヒヨコは眉間のシワをつついて遊ぶ気楽ぶりだ。 「小河、そこへ正座しろっ」 「えぇ、それじゃどうやって歩くのさ」 しゃんと歩けと宮塚が怒り、ヒヨコが嬉しげな足取りでスキップする。背後で賑やかに言い合う護衛を連れて、藍葉はのんびり歩き出した。 護衛付きというのは面倒だが、これならそれとは見えないな。と、確信めいたものを抱く。ほろこびそうになる口もとを引き結んだ藍葉は、学院に向かうバス乗り場へと向かった。 「朱月ぃ、おはよっ、久しぶり〜」 「見たぜ。何あの目立つの」 「あー…、護衛」 「まじ?じゃ、あのヒトたちASS?」 護衛と言ってすんなり通るところがこの学校の良いところだ。 教室内では生徒たちの邪魔になるので、ひとり警護を続けるヒヨコは今頃モニタ越しにこちらの様子を窺っているだろう。 移動や校庭での授業中などになればまめまめしく姿を見せるが、一定の距離は取らねばならない。それでもここはやりやすい場所だと言える。 良家の子息と一口に言っても幅広いが、ここに集まった生徒は警備付きでもおかしくない家に育った者が多かった。 「じゃ、って…、どうして他社のセキュリティを利用しないといけないわけ」 「すごいなー。髪うねうね伸びたりするんだろうなあ」 なぜ護衛の髪が伸びなければならないのか、いまいち疑問だったがじっと口をつぐむ。 もしかしたら彼の家の護衛はそうなのかもしれない。もし本当にそうなら会ってみたいものだと藍葉は思った。 久しぶりに登校してきた藍葉に対して、クラスメイトたちはそれを気にした様子もなく、会えてラッキー、とでも言わんばかりの勢いで集まってくる。 学校に行くのが面倒、という正直すぎる藍葉の傍若無人さを彼らは何と思っているのか。どうもそれを藍葉らしい、仕方ないものだと感じているのは分かっていたが、どうしてそうなるかが分からない。 どこかうやうやしく、気高い相手に振る舞うように扱っていると知ったら藍葉は腹を立てただろうが、幸いそれに気づくことはなかった。 「藍葉、おはよう。さっそく囲まれて人気者じゃん」 「ヤマ、おはよ…。で、…降りたら?」 小学校からの付き合いのある幼なじみを見上げて、藍葉は冷たく言った。 いいかげん、時間とともに周りに増えるクラスメイトに辟易していて、受け流す余裕が欠けてきている。 ふわふわと浮いた相手と話さねばならないのは疲れる。正直に言えば、見上げることそのものは苦にならない。だが、同級生相手にそれを認めるのは癪だった。ただでさえ他の者よりやや背の低い藍葉である。見上げる首の角度でそれを思い知らされるのは勘弁して欲しい。 藍葉を取り囲む同級生の頭の上にあぐらを組んで座り、中空に浮いている羽山宏幸(はねやま ひろゆき)は、人付きのする顔をにかっと破顔させて、手近な机の上にふわりと着地した。いつも通り、音もたてない優れた浮遊技術はしかし、他の生徒にとってはどうでもいいことらしい。 「羽山。見たか?朱月の護衛」 「黄色い髪の?」 「そうそう、目立つよなあ。ありえねえ」 勢い込んで言うのはふたたび藍葉が連れてきた護衛の話だ。隠密行動を主とする護衛持ちの生徒が言えば、屈強な護衛を連れて歩く別の生徒が心配そうに藍葉を見下ろす。 「あんなぽやっとしたの、ほんとに使えんの。おまえ外れ引いたんじゃね」 「平気平気。小河サン、強いんだぜ。な?藍葉」 「ん、まあ…」 ASS内でも上位に入る能力者だと言えば、ここにいる殆どは驚くだろうかと思い、ひらかきかけた口をあいまいな返事とともに閉じる。 にこにこのんびり笑っている時には確かに、ヒヨコはぽやっとした男で、気の良さだけが取り柄のような明るさがあった。高校生と中学生の間にいてもちっとも年上だとは感じさせないノリの良さは、腕っ節の強さをちっとも感じさせない。 だがヒヨコはあくまで無害の皮をかぶった猛獣だ。ひとたび狩猟本能をかき立てればどこまでも食らいつく。 「仕事の邪魔、するなよ?」 少しでも藍葉に危険が及ぶと判断したら牙を剥きかねない。 そう思って念を押す藍葉に周りの生徒たちは聞いているのか聞いていないのか、笑みを交わし合ってたちまち次の話で盛り上がる。 こっそりため息を吐いた藍葉は、幼なじみの宏幸が目を細めておかしげに見ているのに気づくと、むっと唇を尖らせた。 宏幸との縁は、藍葉が小学校に通い出した頃からずっと続いている。 朱月に拾われた後、ごくあたりまえの生活に馴染むのに時間がかかった藍葉は、ある程度それが解消してから近所の小学校に入学した。 珍しい色合いの瞳に子どもたちは釘付けで、転入早々から藍葉は身動きが取れなくなっていた。しきりに顔を覗き込んでくる同い年の子どもは藍葉にとってうっとうしく、同じだけ扱いづらかった。下手に突けば藍葉に理解できない感情に惑い、泣き出したり、わめいたりするので、藍葉はされるがままただじっとしていることしかできない。 しきりと話しかけてくる周囲にいつものように能面のような無表情をさらしていた藍葉は、そこへふいにやってきた少年に目を留めた。自分より数日前に編入してきたのが彼だということは知っていた。今までさんざん話題にあげられていたからだ。同じ週にふたりの転入生は目立っていたのだろう。 彼は藍葉を見るなりふわりと浮いた。物音も立てない安定した浮遊力に感心していると、彼はすぐそばまで近付いてきて、小さくにこりと笑う。そうしてからおもむろに手を伸ばし、藍葉の頬に触れた。 訝しげに少年を見上げていた藍葉は、そのあと、思い切り頬を引っぱられこねくりまわされるという悲劇に遭い、その場にいる誰よりも呆然とした。何が起きたのか良く分からなかった。 あのときと同じようににこにこと笑み、顔に触れようとした手を藍葉は無言で払う。 「なに、もうご機嫌斜め?せっかく久々のご出席なのに」 「ご出席って何だよ。ヤマが勝手気ままだからいけないんだよ」 「勝手気ままなのは藍葉のが上だと思うけど」 さりげなくきっちり感想を述べた宏幸は、予鈴と同時に散ったクラスメイトの代わりに藍葉の正面に着席した。席順が決まっていないので好きなところに座ればいい。藍葉の前にはいつも宏幸が座るから、みんな遠慮して近付かなかった。 小さく頬をふくらませた藍葉をじっと見て、宏幸はあ、と分かった顔をする。 「もしかして、初対面でほっぺたつまんだの、言ってる?いいじゃん、藍葉のほっぺたって白くってちょっとふっくらしててさ、どんな感触なのかなあ、と思うわけよ。今もだけど」 触り心地を確かめるように指先で突かれた藍葉は、その手を素早く掴んであきれた顔になる。 「僕の頬だろうがヤマの頬だろうが一緒だよ」 「いやいや違うって」 「だいたいヤマは何かと言うとぷかぷか浮いて、高みの見物ばっかり」 「おまえも浮けばいいじゃん」 「目立つから嫌だ」 その容姿からしてすでに目立っているが、その辺りについては宏幸との意見が割れるところだ。宏幸は美人ゆえにと言い、藍葉は目の玉以外は平凡だ、と言っている。ただ周囲にそれを話すとなぜかいつも宏幸に軍配が上がるので、この話題を出すと藍葉は不機嫌になりがちだった。 おもわせぶりに口もとに片眉をあげた宏幸を見て、藍葉は小さく眉を寄せる。年々順調に大人びてくる宏幸は、そうしていると妙に様になり、同性から見ても嫌味ない格好良さがあった。この学校が男子校じゃなければおそらく多くの女の子たちから視線を集めただろう。 宏幸はすぐに飛ぶ。飛ぶと言うより浮く。 能力者でも全員が浮遊能力を持っているわけではない。藍葉は飛べるが、校内でその力を見せることは滅多になかった。 力を使うことそのものは別に禁じられてはいないが、次々に新しい能力が生まれるので、学内でいろいろと規則を作ってもしょうがないというのが正直なところで、生徒規約には学生という身分に相応しい節度ある振る舞いをするように、というぼんやりとした決まり事しかない。 だから藍葉が飛ばないのは、目立ちたくない、その一点のせいである。 「浮遊能力ぐらいじゃ、何てこともない気がするけど」 「ASS内だったらそうだよ。でもここは非能力者だっているんだし、それに僕は弱いんだ。目を付けられたくない」 「弱いって、おまえ…」 あきれた顔をうかべる宏幸に藍葉は素知らぬ顔をする。 朱月藍葉が学校に提出している能力審査書はCクラス。弱い、と言い切るには多少の語弊があるが、審査会のクラスわけはイコール強さというわけではない。 ASSで隊長職を勤めている者とは別人。そんなばかな言い分が通るはずもないが、それで通している。実際、学内でそれ以上の能力を使って見せたことがないため、疑いようもなくそれを信じている者も多い。 目立たないことにこしたことはないが、藍葉をしてそれは無理な相談だ、と宏幸の顔が雄弁に語っている。じっと両目を見つめられた藍葉は、その視線を逸らすことなく受け入れた。 能力者の中には生まれ持った力によって姿形が微妙に変化する場合があり、同じ国同じ親から生まれても髪や目や肌の色が違う場合がある。ただ、あくまでそういったことがあるだけで珍しいことに変わりはない。 藍葉が持つ瞳の色は変異種の中でも珍しい色合いで、青より深い濃い藍色。 透きとおった青さなら、遺伝子を組み換えただけで生まれる。しかし藍葉の目は違う。自分の双眸は否応なく目を引く、とは、藍葉自身も認めていることだった。 「まあ、目立つか否かはともかく。藍葉が弱かろうが強かろうが、オレたちの愛は変わらないし」 「…なにそれ」 あきれた顔で同級生の顔を見上げ、藍葉は小さく笑みをうかべる。 「とにもかくにも登校してくれるだけで嬉しいさ。ASSじゃ、気軽に遊びにも行けない」 「それはヤマの家もだよ」 「そうか?」 「そうだよ」 名家の子どもたちばかりが集められ、交友関係を広げることが学生生活の目的だ、とも言われる中、お互いの家には決して立ち寄ったことがないふたりは、そっと目を合わせて笑みをうかべあった。 ここでいちばん親しい相手が誰かといえば、それは目の前の相手である。そのことがふたりにどこがのんびりした、気安い空気をもたらしていた。 |