「air seed」



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 その種はとても小さい。触れると煤がついたように指先が汚れるけれど、人の目では杏型の種の形を見て取ることはできなかった。種は雲の中に散ると、薄灰の双葉を芽吹かせて根付き、花を咲かせて雨と共に種を落とす。
 稀に地上でも芽吹くことがあって、とてもとても小さな白い花が群れる辺りは天気が崩れやすいことで知られていた。
 冷気を紡いで糸にかえ、織り上げた布はうまく使うと、氷をつくれる。
 水を入れた器に布を張った輪をくぐらせて、素早く掬う。布は水を丸く包んで凍り、氷玉が浮かぶ。布に花を絡めておけば、氷玉の中に花が入った。
「雨花(うか)だま?」
「うん」
 氷が溶けて水が乾くのと共に種は空へのぼっていく。
 たくさんつくって、いっぺんに溶かせば、数日でぱらんとひと雨だけ返ってくる。
 忘れて見逃すことも多かったけれど、あの種だと思うとうれしかった。
「ラトの冷気は糸にしやすくていい」
「たくさんつくったね」
「うん」
 なにせ寒かったから。
 吹雪く中シュシュが紡いでくれた糸をせっせと織って、国にある群生地に持っていった。雨花はよわいので、摘んだその場で氷に閉じないと種を残してくれない。
 籠いっぱいの氷玉をかわりに運んでくれたラトは、塔の天辺から氷をまいて、眼下に掛かる雲に乗せようと陽風を操る僕の手もとを少し離れたところから眺めている。
 僕は学園に残った。
 兄さんたちが通ってきた道はそのまま塔に残してある。もともと道はたくさんの人を通すと壊れてしまう。最初に兄さんたちが揃って来られたのは、1度きりで捨てるつもりだったからだろう。今は壊れては困るので、兄さんたちはここには来られないし、僕もたまにしか使うことは出来ない。
「ユマリエ」
 夜明けとともに種は芽吹くだろう。
 塔の上は風がつよくて、呼ばれて見上げたラトの夜色の髪が月のかかった空と混ざる。
「どうして残ってくれたの?」
 どうしてかな。
 曖昧に笑って返すと、赤褐色の目が微笑みをうかべたまますっと細められる。
「あのまま吹雪いていたら、塔が壊れたから…なんて言うつもりなら、今すぐここを壊そう」
 不機嫌な王子さまに、僕は苦笑をうかべて首を振った。
「違うよ」
「本当に?」
「知らない誰かのために、残ることを決めたわけじゃない」
 ラトは怒りも悲しみも、冷たく凍らせ、雪へと変える。
 そして雪解けと共に気持ちを落ち着かせ、あるいは飲み込んで、穏やかさを取り戻す。
 ラトの感情表現は、はた迷惑といえばそうなんだけど。
「…このままじゃ凍えるなあとは思ったけど、でも、それだけだよ」
 ラトが国に訪れた、すぐの頃。
 木々の合間に生えた草むらに不意に現れた白さに驚いて、驚いて駆け寄るとそこにラトがいた。白く積もる雪の真ん中にいた彼は、何を思っていたのか。
 リューセリアには王子も姫も多い。ラトだけが后の子どもだと知ったのは後になってからで、その時にはもう亡くなられていた。長い病の果てのことだったと聞く。
「幸せになって欲しいって思って、石を返して貰った。でもラトにまた雪を降らせているのは、僕で。おかしいよね。何がしたいんだろうって思った」
「………」
「諦めるつもりだったのに諦めていなかった。誓いを棄てた罪で体が朽ちれば、それでお終いになると思っていたけど、そうはならなかった」
 自嘲を含んだ僕の声に、ラトは驚きもせず頷いた。
「分かっていたんだね。どうなるかを」
「思っていたのとは違った」
「侍従長の説得も聞かずに…」
 キューブでの旅は長くて、僕が何を考えているかも、じいやがそれをどう思っているかも、なんとなく知れた。
 じいやは自分の体が長旅に耐えられないことを分かっていただろう。国の外とは体が合わないと教えられていたから、普段は言いつけを守って、国外に出たときは素早く用を済ませるようにしていた。でもあの時ばかりは、僕は自分の目的を果たすことだけを考えて、他のことがすべて抜け落ちていた。
 ひと言も、言うことを聞かない僕を責めたりしなかった。
 あれは、ひとつの賭だったのかもしれない。途中で引き返すことを選べれば、僕もじいやも、何事もなく日常に帰れた。結局僕はそうすることができなくて、今でもどうすればいいのかは分からない。けれど、それでもふたりとも、戻ってきた。
「ラト」
 でも、できることなら。僕は。
「…僕は、ラトの国で生まれたかった」
 真っ青な空に目を凝らせば、半円を描く硬い輝きを見て取ることが出来る。
 多くの生徒たちがあの防壁に守られている。僕もまたあの壁の庇護を受け、またそれ以上の守りを与えられている。けれどそれでも、ここでは長く暮らせない。
 自分が自分であることと、フォーレペルゲの民だということは分けられない。
 分かってはいる。でもふと気がつくと、ラトの傍にいることを許される自分、特に願わなくても当たり前に一緒にいることを選べる姿を夢に描く。
 ここに長く残れば残るほど、体は傷む。それは消極的ながら自分で自分を責め苦しめようとしているように見えるかもしれない。けれど違った。
「可愛いユマリエ。いったいどうして、そんな可愛いことばかり言うのかな」
 ふいにラトがとろけるように頬をゆるめて、優しい穏やかな笑みをうかべた。
「わたしはいつだって悪人になる用意があるのに、なかなかそうさせてくれない」
「?ラトは充分悪役だから安心して」
 自分の都合で長い歴史もある学園の建造物から果ては防壁まで口出しして、変えてしまっているし。
 学園を卒業しなくてはならないのも、その間、遠出は出来ないのも、すべてラトの事情であって、それを諸々の損得で受け入れることを決めたのはラト自身。
「今は答えを出すのはやめておこうね」
「ん…」
「どんな答えになっても、ユマはわたしのかわいい小后。それはかわらないよ」
 僕の言うことなんてちっとも聞いてない。呆れるのを通り越して、ラトはラトだからしょうがないと思ってしまうのは惚れた欲目というものだろうか。
「僕はかわいくなんてない」
「いいや、いちばん可愛い」
「……それはどうも。だからって小后にはならないけど」
「どうしても?」
「どうしても」
「婚礼前の花嫁は誰でも憂うつになると聞いたけど…」
「……バカ」
 あんまり慌てないなと思っていたけど、そういう裏か。
 僕は小さく笑って、いつもはっきりきっぱり自分の気持ちを最優先する王子さまに手を伸ばした。
「もう帰らないと。明日の授業にでられなくなってしまう」
 舟着き場まで続く短い階段に向かう。
 舟はゆっくりと塔を下り、地面に近付くごとに暖かくなる。
 棒一本で器用に舵を取るラトは、舟のへりから手を伸ばして大気の層を揺らす僕を手招いた。
「何?」
 引き寄せられ、抱きしめられた。
 小さな舟だ。思いもかけない乗り人の動きに舳先を揺らし、波が立つ。
「わたしとユマリエの生まれた国は違う。お互いにお互いの国では共にいられない、それもある意味確かだと思うよ。でもそれなら、わたしはいつか必ず、ふたりでいられる国をつくる。その時こそ、再び誓いを交わしてくれるね」
 それは途方もない夢のような話。
 でも信じてみよう。いつかそういう日があるかもしれないと。
 少なくともこの学園にいる間は、僕に国の名はなくラトにもない。
 だからといって何の影響を受けずに済むというわけではもちろんないけれど、こんな場所は他にはない。
「かわいいユマリエ。大好きだよ」
 波打つ大気がゆっくりとうねり、舟は下へ下へと運ばれていく。
 僕は頷き、降りてきた体温を受け入れた。









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