「春の雨」



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[プロローグ]

 白く朝もやが立ち込めた中を、1人の青年が駆け抜けていく。
 外には、小糠雨が降っていた。
 濡れた服が、重く青年に張り付く。春の微かなぬくもりが、辛うじて青年を寒さから守っていた。
 目的地である古びたアパートの前にやってきた青年は、走る速度を緩めずに階段を駆け上げる。鉄板と革靴が、伸びのある音を響かせた。青年は構わず、1つの扉の前まで行くと、ベル1つで鍵のかかっていなかったドアを開けた。


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「ウン、行ってもいいよ」
 だらりとベッドの上に寝そべったまま、陶器人形のような繊細な顔立ちと冷ややかな双眸、そして生来のふてぶてしさをただ高いばかりの服で包んだ青年が、あっさりとした仕種で頷きを返す。
 彼のまわりを取り囲むように立っていた背広姿の男たちは、青年の意外な反応に驚きを隠せない。
 これまでなら、1のことに10を返す悪知恵で、男たちは彼に困らされ、悩まされてきた。そもそも彼がこちらの言うことを、亡き父親からごっそり継いだ側近衆の言うことなど、まともに聞いたことなどなかった。驚かずにはいられない。
「そ、それでは、あの」
「ただし。卓海が来てよ。条件にあったさ、監査役の側近1名っての。なら行く」
 予想外の欲求に、名指しされた斎藤卓海は息をのむ。卓海の同僚たちである側近たちは、一様に困惑した顔を見合わせた。
 男たちは、青年に青年の海外留学と引き換えに、数ある条件、広々とした屋敷、気に入りのホステス、ホスト、メイド、専属デザイナーなどの、思いつく限りの好条件を示した。それらに難癖をつけられ、行かないと突っぱねられることは覚悟していても、まさか、青年にとっては無視するだけで済む、側近1名、という条件に注文がつくなど、考えてもみなかったのである。
 予想外の欲求にたじろぎながら、側近の1人が人を小ばかにするような視線をうかべた青年に対し口を開く。
「し、史郎様。斎藤はお歳は近いですが、側近の筆頭…、おそばに置くには何かと気詰まりするように思われるのですが…。それに、こちらとしても、連れていかれては…」
「駄目ならいいよ。行かないから」
 側近たちの戸惑いを嘲笑うように、史郎が冷たく言い捨てる。辺りに沈黙が降りた。
 史郎を外国に行かせることは、側近たちの切なる願いである。
 彼の放蕩ぶりは目に余るものがり、これ以上、この土地で会社のことに手を出されては困るのだ。亡き史郎の父から預けられた会社を、いくら息子とは言え、若い社長ひとりに駄目にされるわけには行かない。
 だから、出来る限りの好条件をつけて、史郎を外国に…、建て前は、どたばたで社長となってしまった史郎の勉強ためだが、つまり実際のところは体の良い、史郎の追い出しをすることにしたのである。
 側近の筆頭である卓海にしてみれば、史郎の外国行きは何に変えても実行しなければならないことだった。史郎が社の財政に触れるところにいれば、名だたる大企業である会社が、後数年で潰れることは間違いない。
「……分かりました。わたしがいれば、行ってくださるのですね」
「ウン」
「外に車を待たせてあります。細々としたものは後で運ばせますから、お気が変わらないうちに飛行機に乗ってしまってください」
 卓海は史郎を促す。これまでにない素直さで従う史郎を訝しがりながら、卓海は実現しなければならなかった史郎の連れ出しの成功に、胸を撫で下ろした。
 何せよ、史郎のコネクションのない外国に行けば、どうにかなる。
 ……それが甘い認識だったと思い知らされるのは、史郎のために改築したイギリス郊外の別邸に着いてからだった。



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