「春の雨」



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[プロローグ・2]

 あれは春の朝だった。春の芽吹きのように、それはいつのまにかやってきた。
 ベル1つで狭いアパートの上にあがりこんだ青年は、だらしなく広がった布団の上に目的の人物を見つけ、穏和に整った顔を歪める。
「ン、ちょっとォ、誰か来たよォ…?」
 下着姿の女性に揺り起こされ、まだ高校生と思しき男が剥き出しの上半身を晒して起き上がった。
 青年はその男のもとに近づくと、片手を振り上げた。そのまま頬へ勢い良く打ちおろす。辺りに切れの良い音が響いた。
「何度も連絡をさしあげました!来るとおっしゃったので、待っていましたのに…!1人息子のあなたに、看取られないまま…、社長は、社長は…!」
 ぽたぽたと畳の上に涙が零れ落ちる。
 叩いた男に縋り付くようにして、青年は自分おセリフに耐え切れなくなったように、声を上げて泣いていた。
 男は戸惑いと、何故か高鳴る鼓動を胸に、ゆっくりと青年の背に腕をまわす。青年が泣きやむまで、男は珍しく文句も言わず、そうしていたのだった。


[2]

 若くして史郎が社長の座に就いたのは、父親が死んだからだった。だが史郎は社長という座に就くにはあまりに不向きで、どうしようもない男だった。
 毎日のように夜遊びにでかけては、それこそこれ以上もないような浪費ぶりで家の資産を食い潰す。遅くに生まれた1人息子を溺愛している史郎の母親は、いつかそうした浪費も止むと言って気にもしないどころか、更にお金を渡す。
 亡き史郎の父親である先代に兼ねてから付き随い、社内で重要な位置にいる側近たちが手を回して家の資産を押さえれば、サラ金に手を出す。それも封じられると、悪知恵でもって会社の金に。もう手の付けられない目茶苦茶ぶりで、史郎さえいなければ黒字の売り上げが赤字となり、倒産も時間の問題、というところまで来てしまった。
 しかし史郎はその美貌からか、性格からか、憎めない存在だった。その上史郎という不祥事を表に出したくなった側近たち、同時に史郎の一族は苦肉の策を考えた。それが史郎の外国行きである。
 取り敢えず3年の留学。遊んで暮らせる環境とは言え、何かと制限のある外国の暮らしにいつまでも史郎が甘んじているとは思えない。…史郎がいなくなる何年か、その間で社の立直しをする、それが側近たちの計画なのだった。

「史郎さま。本当によろしいのですか。帰してしまって…」
 卓海は予想外の展開に驚いていた。
 別邸に就いたのは深夜とも言える時間だったが、いつもの史郎ならこれからが活動の時間で、それは外国であっても変わるわけがない。だから卓海はこちらが用意した史郎のお気に入りのホステスやホストたちなどを連れるなりして、遊びに出ると思っていた。
 しかし史郎はそんな彼らを全て帰してしまったのである。ならば現地で新たにと思ったのだが、それも違うらしく出かける気配さえ見せない。
 さすがに卓海は心配になって、寝室に籠もった史郎を訪ねた。体調でも悪いのではと思ったのである。
「史郎さま?」
 ベッドに腰掛けたままこちらを見て応えない史郎を伺うように近寄り、卓海は史郎の顔を見る。傍まで寄ると、史郎は唐突に口を開いた。
「シローさん。呼び捨てられたっていいぐらいだ。卓海より1つ年下なんだから」
「…………」
 いつもと雰囲気が違う、と卓海は思った。
 硬質で落ち着いた様子は、大企業の若社長に相応しく見える。卓海は驚いた。卓海は史郎の父親に見初められて中学生の頃、史郎の家に引き取られた。その時からずっと遠目ながら史郎を見てきたが、いつ見ても史郎は軽すぎる明るさで、誰の言うことも聞かない傍若無人さだった。歳相応の落ち着きさえなく、何度冷や冷やさせられたことか。
「史郎さ、…」
「さま、って言ったら、キス1つするからね」
 むっ、と卓海は顔をしかめた。いつもと違うと思ったのは勘違いだったらしい。
「ふざけないでください。わたしはそういうことのお相手をするためにいるんじゃありません。史郎さま。退屈なのでしたら、」
 しなやかに伸びた腕が、卓海の頤を捉える。史郎の方がやや身長が高い。押さえ込まれるようにして、唇を重ねられた。思いがけない強い力で、抗いを封じられる。
 無理矢理舌が絡んだ。卓海は顔を歪める。巧い。史郎に比べればずっと経験の浅い卓海では、勝ち目はなかった。たちまちに、卓海は史郎の手管に落ちる、離されたときには、腰が抜けていた。
「史郎さ、」
「し足りない?確かに卓海自身は苦しそうだけど」
「違ッ…います!」
 言われ慣れないセリフに卓海は顔を赤らめた。鼓動が跳ね上がったままおさまらないのが悔しい。側近としての仕事に追われて、人気はあるのに、そうした関係を持つまで頭と体力をまわせなかった卓海である。だから卓海は性的なことに慣れていなかった。
「さまって言ったら、キス」
「わ、分かりましたから、近寄らないでくださいっ」
 腰が抜けているので、卓海は手だけで史郎から逃れようとする。
 みっともないことこの上ないが、それに構っている余裕が卓海にはなかった。今のみっともなさより、これ以上、史郎のいいようにされるほうが卓海には問題だった。
 卓海は史郎が女遊びも男遊びもする質だと知っている。知っているから驚かないが、自分をそうした対象にされることは困るのだった。ここに来た卓海の役職は史郎の行き過ぎを諫め、屋敷内の使用人たちの統制を取ることである。他人の信頼を失うようなことは問題があった。
「素人には手を出さないのが、史郎さまの、…あ、」
 良いところでしたでしょう、というセリフは、キスに消された。
 今度は軽く唇を合わすだけのキス。睨めつける卓海の視線をかわすように史郎は安っぽい笑みをうかべた。
「でも、素人っぽくないよね、うぶだけどさ。……あのウワサって、本当なわけ?」
 眦と共に、卓海の腕が跳ね上がる。
 避ける間を持たせず、卓海は史郎の頬を叩いた。
「……手が早いなあ、もう。これで2度目だよ」
「何言ってるんです」
 史郎の言っている意味が分からなかった卓海は軽い一言で一蹴する。一瞬哀しげな顔をした史郎には気が付かずに、卓海はふらつく足で立ち上がりドアの傍まで行った。
「噂ですけど、社長に抱かれたことはありません。でも、確かに全くの素人というわけではないです。…おやすみなさいませ。出かけるのは勝手ですけど、わたしの部屋に来たら殴りますからね」
 よりにもよって息子である史郎に、尊敬する前社長のことを遠回しに侮辱された気がして、卓海は頭に血が上っていた。到着したばかりで色々とすることはあったのだが、卓海はそれら全てを放り出して、自室に帰ると即効で眠ってしまった。それを後悔したのは時すでに遅い、翌日のことである。



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