「春の雨」



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「い、たたたたたた!史郎さんっ、あれほど、程々にって言ったでしょうがっ」
「もっとって言ったの、卓海」
「……、○仝÷〆×…!」
 腰に手を当てた恰好のまま顔を真っ赤にさせて卓海は羽根枕を思いきり史郎へ投げつける。ぽすんと飛んできたものを受けとめて、史郎は笑いながら飾り棚に置いてある硝子のベルを軽く鳴らした。すぐに人が駆けてくる。
「お呼びですか、史郎様」
「やっぱり卓海に仕事はきついから、代わってやってくれる。あ、卓海。シーツは投げるんじゃ、わふっ」
 ベッドメーキング中のシーツを投げつけられた史郎は、頭から布をかぶってもがく。卓海はそれをフンと見やって呼ばれて来た青年を見上げた。
「ロジャー。済まないけど頼むね。シーツは新しいのを使ってくれればいいから。あ、史郎さん、先日提出していただいた書類、不備がありましたので早急に訂正をお願いします」
「っと、はいはい。しかし卓海、こんな辺境で仕事をさせるなよ。儲かっているんだろう?俺の出した新案は」
「史郎さんがお使いになった遊興費には到底及びません。…あ、ロジャー。僕は部屋にいるから何かあったら」
「はい、承知しております。…お大事に」
「ロジャーっ」
 栗色の巻毛をした青年と言うよりは少年と言う年格好の相手を赤い顔で睨み付け、卓海はバタンと扉を閉ざす。
 賭をしてから2週間がたった。
 賭から数日、恥ずかしいぐらい有頂天で何でも言うこと聞く状態だった史郎に、卓海は赤字返済を依頼した。史郎の信用回復が必要だと思ったのだ。結果、史郎は予想以上の明晰さで信頼も業績もあげた。元々名家出身の史郎は働かなくてもいい立場で、会社には優秀な人材も多く卓海がせっせと仕事を運んでくる必要はない。けれども史郎の優秀さを捨てておくのは惜しく思うぐらい、本当に史郎は優れていた。…あまりに有頂天で口を滑りに滑らせ、滑らせなくても態度で分かったと一様に言われはするが、とにかく史郎によって使用人全てに2人の状況が知られてしまったのは、何とも言えないことだが…。
(それに、……)
 卓海は廊下でほんのり顔を赤らめる。それを打ち消すように首を振ったところで、背後から走ってきた相手に背中から抱きしめられた。
「卓海!」
「く、苦しい、カール、苦しいっ」
「顔なんか赤くして、妬けるよ。史郎様のお部屋は防音だからなあ。折角のきれいな声を聞けなくて残念だ」
「悪趣味だよ、カール…って、苦しいって、もう!」
 金髪の友人の腕を払い卓海は乱れた髪を掻き上げた。軽く溜め息を吐く姿には昔にはない艶やかさがある。しかしそういった自覚がないらしい卓海にカールは何も言わず、こっそりその色香を楽しむ。それを知られれば変態と言われそうだが、うぶであり自分に無頓着であるのは卓海の良さに違いない。
「うーん、いい香りだったのに。肌艶もますます良くなっているし、史郎様は良いボディソープをお使いになるよなあ。一度入手方法を伺ってみよう。…あ、ソープ以外の効能のせいもあるのかな、この滑らかな肌の具合は」
「……く、下らないことを言っていないで、今日は深見さまがいらっしゃるんだから、滞りなく準備を」
「済ませてるよ。卓海こそ、その痛そうな腰。マッサージしてあげようか?」
「…………」
 赤い顔と一瞬真剣に依頼したげな顔を見せた卓海は小さく首を振って表情を引き締める。今日は深見が史郎の後見人を務めてくれたことへのお礼を込めたパーティが開かれる、重要な日だ。ここでの活動のため、史郎の顔つなぎをするために呼んだ客たちも非常に大切な相手で、緊張感が大事と言える。腰が痛いの何のと言う前に、手っ取り早く休んでしまった方が効率が良い。
「部屋に戻っているから、細かいことは頼んだよ。…少し眠るから、一時間したら誰か寄越してもらえると有り難いんだけど」
「分かった、おやすみ」
 良い夢を、見送られ卓海は部屋に戻る。拒んだのに史郎に付き合わされて、睡眠時間が足りない卓海は、ベッドに入るとたちまち眠りにつく。こういうときに頼りがいのある人材がいるというのはありがたいなと卓海は改めて、そんな相手を集めてきた史郎の優秀さに感心していた。





 夢の中で兄が泣いている。
 床には無惨に崩れたショートケーキがひとつ。…ああ、と卓海は思い出す。あの日は自分の誕生日だった。甘いものが大好きで堪らない兄が、小遣いを貯めて買ってきた、ひとつきりのケーキ。まだ卓海が小学校に入る前、ずっと昔のこと。
 箱から取り出すのに失敗して兄はケーキを床に落としてしまった。赤い苺が生クリームとスポンジの山に小さく姿を覗かせていて、それが余計に悲しい。卓海は苺が大好きだった。
『たくちゃんに買ってきたのに。たくちゃんに、えっく、たくちゃん誕生日だから、たくちゃんのイチゴ…』
 先に泣かれてしまった卓海は泣けなくて、おろおろと崩れたケーキとしくしく泣いている兄の顔を見る。
 今思えば良く泣く兄だった。慰め役はいつも卓海でおろおろしていたように思う。兄が泣くのは大抵卓海のことだったらだ。たくちゃんにランドセルがないと言っては泣き、たくちゃんのお菓子の方が少ないと言っては泣いた。幼心に良く涙が尽きないものだと思ったものである。
『お、おいしいよ。にいちゃん、おいしいから、ね?泣かないで?泣いちゃ、たくちゃん、いや』
『……たくちゃん、おいしい…?』
『おいしいよ。にいちゃん。にいちゃん、大好きだよ。ありがとうね、ケーキ、おいしいよ、…』
 床の上に屈み込んで、幼い卓海はケーキを食べた。落ちたって形が崩れたって味は変わらない。少なくともあの時はそう高尚な舌があるわけでもなく、確かにケーキは甘くて美味しかった。
「だいすき、だよ…」
「卓海、誰が、え、誰が。誰が大好きなんだ、起きろ、卓海!」
「…………」
 薄暗い中で真剣な顔をした史郎が卓海を揺らしていた。ぼんやりと瞼を開けた卓海に史郎は詰め寄る。
「卓海、夢だな、夢を見てただろう。誰の夢を見ていたんだっ」
「……兄の。…」
「あ、兄?お兄さん?…親父の恋人の?」
 焦っているのやら、混乱しているやらの史郎をぼんやりと眺めていた卓海は、ああ、夢だったのかと思う。随分と懐かしい光景だった。いきなり現実に戻され夢見ごこちから覚め切れなかった卓海は、いつにない素直な顔で史郎を見上げた。
「……史郎さん。ショートケーキはお好きですか?」
 目が点と言うなら史郎の顔がそうだ。寝惚けているんだろうかと卓海の正気を疑う顔をうかべてから、史郎は何かを思い直したのだろう。優しい顔で頷いた。
「好きだよ。卓海が作ってくれるものなら、何でもね」
「……何でもかんでも、おいしいと言われるのは癪な気もしますけど、…」
 えと体を強ばらせた史郎を微笑みて卓海は史郎の首に腕をまわし、ベッドの上に体を起こす。真面目な史郎の受け答えに、卓海はすっかり目を覚ましていた。
「何から何まで史郎さんが好きなんですから、僕も同じですよね」
「……卓海、…」
 首に絡めた腕を引いて卓海は史郎の顔を引き寄せる。最後は逆に史郎が卓海を抱き寄せ、2人は吐息を重ねた。
 そんな2人の外で窓がかつんと鳴る。続けて雨音が静かに部屋に満ちた。顔を離し卓海は窓の外を見る。
「また雨ですか…」
「雨につきまとわれる2人だよな。特に春の雨」
「雨に好かれても、嫉妬はなしですよ、史郎さん」
「うんん、あんまり自信がない。自信をつけさせてくれないか、卓海」
 史郎の重みで、卓海は再びベッドの中に沈み込む。卓海は抗わなかった。雨の音に、鼓動が混ざっていく。流れていく雨水と一緒に卓海の理性も流されていくようだった。史郎の口付けも愛撫も卓海を容易く陥落させるもので、甘い痺れが全身を覆う。触れられれば触れられるだけ、卓海の息は上がっていく。
「し、ろう…」
「史郎様!卓海さん!お客様がいらっしゃるんですよっっ。しけこむのはパーティの後になさってください!」
 パチンと付けられた明かりの下で卓海は慌てて史郎を押し退け、史郎は史郎でベッドの上で畏まった。まだ日は落ちようとしている時間だし屋敷は準備に慌しい。仁王立ちでドアの前に立つロジャーに言い訳は出来ない。
「ははい、すみません」
「ろ、ロジャー。時間の方は」
 平静を繕いながら尋ねた卓海にロジャーは怒鳴った顔を元の穏やかさに戻してこたえる。
「まだ大丈夫です。そろそろお着替えなさった方が良いかと思いますが、…ええ、首筋をきっちり覆うタイプのに」
「……史郎さん、痕はつけるなって何度言わせるんですかっ」
「キスマークの達人と呼んでくれ」
「史郎さん!」
 腹立たしいやら恥ずかしいやらで顔を赤くしながら、卓海は年下で若社長で遊びにとんでもない費用をつぎこんだこともある、今は恋人を見やる。
 思わず疲れたような溜め息がこぼれるのは仕方ないことだったが、不思議なことに卓海は嫌な気分になったわけではなかった。
 ……久しぶりに見た兄の夢。それが卓海の心を素直にしていたのかもしれない。
 乱れたベッドを簡単に直し、卓海はロジャーと細やかな打ち合わせをする史郎の傍を通り抜け、寝室から衣装室へと通じる扉に手をかける。半分扉を開けたところで卓海は史郎を振り返った。
「史郎さん」
「ん?」
「史郎さん。さっきの問いのお返事を忘れてました」
 何の問いだろう、と史郎は顔に書いている。ややあって思い出したのか、否か。寝言のことですけどもと教えておいて、卓海は微笑んだ。
「誰が好きかと言えば、…勿論。史郎さんが、大好きです」
 その日史郎が上機嫌でいたのは言うまでもないことで、その責任を取って安らかな睡眠を失った卓海は、後でちょっぴり発言を悔やんだことも、またまた言うまでもないことなのだった。







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