「春の雨」



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 史郎は夕食までに帰ってきた。佐々木とは途中で別れたらしく、1人で戻ってきた史郎は湖でのことなどなかったような素振りで、卓海を不安がらせた。
 もう自分とのことは飽きて、どうでも良くなったのかもしれない。その方が良いんだと思う自分と、そんな史郎に苛立つ自分、泣きたくなるような自分とで、卓海はない交ぜになる。
 そんな卓海を見兼ねたらしいカールは替えたシーツに不備があったと史郎に伝え、卓海を史郎の部屋にやらせた。卓海は仕方なく史郎の部屋でシーツを張り替える。
 ベッドメーキングぐらいでは時間はかからない。すぐに終えた卓海が踵を返したところで、ティテーブルから無言で作業を見ていた史郎が立ち上がった。
「卓海。賭をしよう」 
「……え、?」
 声をかけてもらったことに一瞬喜んだ卓海はすぐに気落ちする。いきなり何を言い出すのだろうと訝しげな卓海をよそに史郎はティテーブルに3つのシャンパングラスを並べ、その中に浅く水を注いだ。
「負ければ俺はもう卓海に構わない。普通に側近だと思うことにする。けれど俺が勝ったら」
「…………」
「勝ったら卓海を抱く。立場とか家のこととか卓海は忘れて、俺と付き合うんだ」
 断定的な史郎の言い方に少し顔を赤らめた卓海はすぐに青ざめた。
 史郎が負ければ史郎は自分を忘れる。そう思うとそれでいいと思うのに顔から血の気が引いた。
「……どんな、賭なんですか」
「この中の1つに、これを入れる。無味無色無臭の媚薬だよ。速効性で副作用は心配しなくていい」
 白い薬包を胸元から取り出した史郎は中身をグラスの1つに入れる。白い粉末は水の中でたちまち姿を消した。粉砂糖のような代物は卓海にはとても媚薬には思えなかったが、媚薬と聞かされればそうである気がして、卓海は何となく息を潜めた。あるわけないが微粒子を吸い込んで薬が効いたら…と思ったのである。
「この3つグラスを俺は卓海の見えないところで、順を替える。卓海は俺の見えないところで順を替える。同時に中身を飲んで、卓海が媚薬を飲めば俺の勝ち」
「……3分の1の確立での賭ですか」
「そう。このルールに不備はないだろう?見た目も差異はない」
「…………」
 薬の消えたグラスを卓海は見据えた。確かにルールはいかさまを許さないものだし、グラスに張られた水はどれも変化がない。
 入れられたものはともかくもまっとうな賭だった。
「どうする?卓海。賭を受けるか、受けないか。俺は強要はしないよ」
「…………」
 負ければ史郎を受け入れる。
 勝てばここに来る以前のままに。
 卓海はいつのまにか握り締めていた手に汗がにじむのを感じた。
「もし2人とも、はずれを飲んだら?」
「俺の負けでいい。賭を受けてもらうこと自体、卓海にはマイナスなんだろうから」
「…………」
 マイナスなんかじゃない、咄嗟にそう口走ろうとした自分を卓海は押し止めた。史郎にとって自分との関係にこだわることが良いことではないことぐらい、卓海には分かる。史郎の社会的立場、母親との関係、家柄、…。 だから諦めてくれるのならば忘れてくれるのならば、卓海は自分の気持ちなど捨ててしまわなければならない。それが亡き義則への恩返しであり、史郎のためになるのだと卓海は自分に言い聞かせる。
「受けます。賭をしましょう、史郎さん」




 透明などこまでも透明な、ほんの少しの水が入ったグラスが2つ。史郎はすでに自分が選んだグラスをテーブルの上から除けていた。
 どれぐらいの時間が経ったのか。1秒が酷く長く感じられる卓海はすでに時間の感覚がない。青ざめた卓海の額にはじっとりと汗がうかんでいた。
「ゆっくり考えていいから」
「…いいえ、いいえ、すぐに、選びます。運、なんですから」
 言いながらもなかなか卓海は、目の前に並んだグラスに手を出せなかった。
 選んだら最後、卓海が勝てば史郎は潔く自分を忘れてくれるだろう。もしかすれば姿も消すのかもしれない。
 もう会えないのかもしれなかった。グラスを選んだら最後、史郎はもうこの数日のように口を訊く相手ではなくなるに違いない。以前までの通りにただの若社長と側近に戻る。
 卓海は言おうかと思った。もう賭などやめて一言告げてしまおうと。自分のたった一言で、この賭はなくなり、史郎はいなくならない。
 ……、だがそうなれば、史郎の立場や権威が傷つく。そう思うと卓海にはその短い一言も言えない。
 ただ史郎を拒絶することは自分らしくないが、自分の気持ちだけに素直になることも、自分らしくないのだと卓海は思う。
 だから卓海は賭を受けそして今、再び惑っていた。
「卓海、俺は無理強いしないから。賭をやめたければ今すぐにやめていい」
 恋を忘れるか立場を忘れるか。賭などやめたかったけれどもう意地だった。後には引きたくない。
「……、これに。これに、します」
「……時間はたっぷりあるんだよ。卓海。後悔はしない?」
「……、…」
 咄嗟という仕種で選んだグラスを持つ卓海の手は、震えていた。血の気の引いた顔には汗が浮かび、史郎の気遣うような視線が寄せられる。
 自分が取ったグラスを見据え、卓海は自分に言い聞かせるように、強く頷いた。ここで更に迷えば、自分が許せない気がした。
「後悔、しません」
 史郎は選ばれなったグラスを隅にやり自分の選んだものを手にする。厳粛な仕種で、史郎は卓海にグラスを掲げさせた。2つのグラスを軽く触れ合わせる。
「乾杯」
 ちん、と儚い音を立てて、グラスが触れ合う。史郎と卓海は一口に中身を飲み干した。




 グラスがテーブルの端にぶつかって、粉々に砕ける。
 薄い硝子の欠片がきらきらとライトを受けて輝く。その光景を熱に浮かされたような目で見つめると、体が傾いだ。バランスの崩れた体を史郎が素早く抱き止める。
「後悔しない…、?」
「しません…」
 覆い被さる史郎の首筋に腕を回し、吐息を吸い込むような深いキスに卓海は応える。
 賭けは卓海の負けだった。負けでも卓海の全身には安堵が広がる。
 後悔なんてするわけがなかった。



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