「春の雨」



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 外は再び雨が降りだしていた。
 やはりすることのない卓海はぼんやりと居間のソファから外を眺める。湖での話を済ませ、あまり会話なく帰宅した後、史郎は何か用を思い出したと言って佐々木をともない外出してしまい、卓海は暇だった。
「卓海さん。夕食の件だけど、…史郎様はどれぐらいに帰宅されるのかな」
 雨空の薄暗さに気分がつられるのか、ただただぼうっとする卓海にきっちりと漆黒のボータイを結んだ金髪の青年が話しかける。卓海は寝惚けたような目を瞬かせながら、青年の方に視線を向けた。
「ええと、…カール?」
「はい」
 青い瞳が、やわらかに卓海を見下ろす。彼は小数精鋭で集められた者たちの代表を担っている青年だった。
「カール。史郎さんは、…何も言わずに出ていったので……。でも、定刻通りに食事の用意をして構わないです」
「はい」
「……、カールは、何だか、見覚えのある気がするのだけど…あれ」
 卓海は首を傾げる。ゆっくりと見たことのない相手だったが、よく見るとどこかしら覚えのある相手のようの思えた。卓海のセリフにカールは切れ長の瞳を細めると、卓海の前にあるソファを示した。
「ここに座ってもいいかな」
 頷いた卓海にカールは優雅な身のこなしでソファに腰をおろす。佐々木が見繕ったものは誰もが洗練された雰囲気がある者たちばかりだったが、特にカールは貴族と言っても障りないような気品のある青年だった。
 カールはソファに座り、卓海の瞳を見つめた。青い目にぼんやりした卓海の姿が映る。少し前に訊いたこともどうでも良くなったような、覇気のない顔だ。その様子にカールは僅かに鼻梁を歪めたものの、卓海は気がつかない。
「卓海さん。私たちはこちらに雇われるときに1つの条件を史郎様から出されているんだけど、それが何か知ってる?」
 唐突な話に卓海は驚き半分、戸惑い半分で首を横に振る。卓海はこの人事には全く関わっていないし、史郎も詳しく雇うに至ったいきさつを話してくれたわけではない。
 カールの真剣な声に卓海は少し不安になった。史郎がまた無茶なことを条件にしているのかもしれない。
「…史郎さんは、何か無茶なことを……?よろしければ、教えてください。あまりなことでしたら僕が何とかするので」
 油断していたと気を引き締めた卓海にカールは優しげに目を細め、首を振る。卓海の頭の中には史郎による様々な最悪な事態がシュミレーションされていたので、カールの表情には気がつかない。カールは気楽な口振りで続きを口にした。
「無茶などではないのでご安心を。私たちが雇われるとき史郎様から出されたのは…卓海さんには一切手を出されないこと。恋愛感情またそれに類するものを抱き、隠し切れない者は即刻クビにする、という内容で。…卓海さんは知らないのかもしれないけど卓海さんは史郎様にとても想われておいでなんだよ」
「…………」
 卓海は首筋から顔が赤くなっていくように感じた。なんて言うことを条件にしたのだろうという羞恥が半分、訳の分からない感情で、もう半分。それらで卓海は顔を赤くさせた。
「そそれは、その、す、すごい遊び人なんだよ、史郎さんは」
 動揺のあまり卓海は下手な言い訳をする。カールはどこか微笑ましげな笑みをうかべるとすぐに真面目な顔をうかべた。
「卓海さん。湖からお2人で帰ってきたとき何だか雰囲気がぎこちなかったように思う。…わたしは、お2人がとてもお似合いだと思うから、残念なんだ。良ければ何があったか教えてほしい。アドバイスできることなら、是非したいんだよ」
「……それ、は…」
 真摯なカールの眼差しに卓海の瞳が不意に震えた。何か自分の奥に押し止めていたものが溶解してしまったような唐突さだった。頬にぽたぽたと雫が落ちたのを、卓海は不思議げに拭う。
「…………」
 赤面といい、涙腺といい、自分はどうにかしてる、と卓海は思った。本当に調子がおかしい。これまで卓海は、史郎の父親の死のショックから立ち直れば、そつなくやってきた。常に冷静でいられたはずが、ここに来てから大声は出す、飛び出すで冷静さの欠片もない。
 おまけに今は不意に湧き出してくる言葉を抑えていられなかった。
「……僕は、僕は史郎さんを傷つけたんだ。お忘れするように言った、くだらないことだと…。僕は義則さまに築いてもらった信頼を壊すわけにはいかないし、史郎さんの評判をこれ以上落とすわけにはいかない。…僕の兄が男妾に近い立場だったことは、一部では有名だし。…ああ言ったことは、正しいと思うのに。お遊びならともかく、本気だなんて言われたらああいうしかないのに。…正しいことをしたのに、苦しいんだ、カール……」
 史郎の前では微笑みながらでも言えた自分の拒絶の言葉が、今はひどく苦しく感じられた。胸が何かに潰されるように痛む。自分は史郎に酷いことを求めているのだと、卓海は思う。史郎の本気をくだらないと、片付けようとしているのだから。史郎は怒ったのかもしれない。もう幻滅したかもしれない。…それで良いと満足していいはずの自分が、どうしてこんなに苦しさを感じているのかが、卓海は分からなかった。
 カールはソファから立ち上がると泣く卓海の髪を梳きあげ、その場にひざまづいて卓海と視線を合わせた。
「卓海。史郎様は卓海とのことで潰れるような御方かな。まだ少しの付き合いだけど、私はそうは思わない。…だから、もっと素直になっていいんだよ」
 さっきまでとは違う親密な仕種と声でカールは囁くように口を開く。卓海はこれと思う返事を返せずに、押し黙った。
「…………」
「今の卓海は少し、勇気が出ないんだ。昔の卓海ならきっと自分の気持ちに素直に、イエスと応えられたはずだよ」
「カール。…それは」
「……、パブリックスクール時代の卓海を私は知ってる。同じ寄宿舎にいたから。…卓海にはたくさん友人がいて、学年の違う私なんか、よく覚えてないだろうけど」
「カール…」
 大きな手の平が髪を梳く。その感触に卓海の中で重なるものがあった。卓海はパッと目を見開き、カールを見た。
「…そうか、見覚えがあるわけだよ。下級生キラーのカール!覚えてる、手がたらしじみてるのは相変わらずだ!」
 髪に絡むカールの手を取って卓海は叫んだ。不意に思い出した懐かしい顔は、卓海の強ばった顔を和らげる。懐かしさにカールの姿をしげしげと見つめ、それと共にかつての留学時代が卓海の中にしみ出していった。
「金の巻毛の持ち主が一番の好みな癖に僕に手を出そうとして、義則さまに叩かれたことがあったカール」
「そうさ、そのカールだ。冷酷無比な右ストレートで翌日は顔が腫れ上がり、何人の下級生が涙したか」
 明るい卓海の声に促されるようにカールは芝居がかった手つきで卓海の顎を摘まみ、大仰にため息を吐いてみせた。
「滑らかな象牙色の肌に、夜の泉みたいな黒い目、豹のようにしなやかな体を持った少年をどうして放っておける?…今も充分卓海は魅力的だけど、そう、卓海の中にはもう、住んでいる人がいるから、ね」
「…カール、……」
 卓海はカールを見つめ息を吐いた。
 ……自分の中を見つめて卓海は小さく破顔する。
 思いつめただ縮こまっていた思考がやわらかに広がる。
 顎にかかったカールの手を両手で外し卓海はカールの背に腕をまわした。訳が分からないまま自分を混乱させていた感情が、今は何か分かる。一度するりを解けた糸はもう絡まない。少なくとも絡ませないだけの落ち着きが卓海には戻っていた。
「……、ありがとう。何だか気分がすっきりしてきた。次に史郎さんと話すときはもう少し、自分らしくしてみるよ」
 カールは大きく頷いて、卓海の耳元そばの頬にキスをする。驚く卓海に茶目っ気のある笑顔を向けた。
「史郎様には秘密だ。クビは嫌だからね」
 調子良いカールの声に卓海は頷く。史郎には秘密だ。自分でなく佐々木を伴い、何の用か言わずに出ていった史郎に気分が沈んだ自分が悔しいから。
 ひとしきり昔話をした卓海はカールに暇だと訴えて、食事の手伝いをしながら史郎の帰りを待つことにした。



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