「春の雨」



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「だからっ、史郎さん、スピードの出し過ぎです…!うわあっ」
「あははははは。意外だなあ、卓海が自転車に乗れないなんて」
「史郎さん、だから、は速いって言ってるでしょッ!」
 史郎の背中に縋り付きながら卓海は叫ぶ。丘陵を全速力で降りていく史郎はそれを笑って無視すると、見えた!と嬉しげに言った。



 時間はやや遡る。
 今朝、卓海は人生で一番優雅と思われる朝を迎えた。
 仄かに漂う、紅茶の薫り。明け放たれた窓から眩しいばかりの陽射しと、心地よい風が流れ込む。にこやかな笑みの中に、卓海は寝惚けた顔をぼんやりと晒して老紳士を見上げる。
 卓海の前にいたのは、深見の執事佐々木である。佐々木は卓海を起こすと紅茶を注いだ。……史郎が卓海の仕事を肩代わりし、使用人を明日までに集めるという無謀で無茶で、到底困難な、約束を果たした結果、その手伝いに佐々木が訪れたのだ。史郎は深見に連絡を取り深見の執事である佐々木のつてを使って、人を集めたのである。
 いかなる方法であれ約束を守った史郎に卓海も約束を守ることにした。そこで史郎は共に庭を自転車でまわることを提案し、卓海は自転車に乗れなかったので、卓海の自転車の後ろに乗って出かけることを譲歩したのだが、…。
「大体ですね、史郎さん。なんですか、あの顔ぶれは!」
 史郎が連れてきたかったらしい湖のほとりに立ちながら、卓海はぶつぶつと言い連ねる。史郎が集めた使用人たちは卓海の理解を超える規定でもって集められていた。
 卓海の棘だった声に史郎は悠長な欠伸を返す。例によってギリギリまで頑張ったらしい史郎は良く寝ていないのだ。
「いいじゃないか。顔がきれいなのにこしたことはないし、やっぱり、女の人がいるとね、色々と心配だろう」
「何がですかっ。女の人の方が細やかでよく気がつきますし、…佐々木さんが見繕った方々が、問題があるってわけではないですけど、全員男というのは世の中のバランスに反してますっ」
「…あのさもしかして卓海、叫び癖がついてない……?」
「……………」
 一瞬、そうかもしれない…と思ったところで、卓海は首を左右に振ってため息を吐いた。幾ら言おうとも集めてしまったものは仕方ない。よくもまあ集めたという具合の見目の良い少年青年たちだが、仕事に不備があるわけではないのだ。
 卓海は苛立ちの整理をつけて連れて来られた湖を見渡した。
 運悪く曇りがちな空だが澄んだ湖の水は美しく風景を映している。日本では見られない広々としたほとりだった。
「……、見事な湖ですね」
「だろう。ゆっくり話すならこういうところが一番だ」
 水際に腰を下ろした史郎は大きく伸びをして草むらに寝そべる。卓海はやや間を開けて史郎の隣に座った。
「わたしはてっきり、史郎さんがお好きな賑やかな場所へ連れていかれるのかと思いました」
「卓海に女も男も、はべらせたって楽しくない」
「…………」
 卓海は水面に小石を投げた。折角ゆっくり話す時間をもたれたのだから、落ち着いて話すことも必要かもしれない。
 ちゃぽんと音を立てて石が湖の中に沈んでいく。
「……親父のこと、好きだったのか?」
 ためらいを含んだ史郎の声に卓海は小石で刻まれていく波紋を遠くまで見つめる。こくりと、首を頷かせた。
「好きですよ、今でも。…でも恋愛感情ではないです。…信じられないというのなら、仕様がないですけど、社長も…、義則さまも、僕にはそんな感情は抱いていなかったと思います」
 優秀だったとは言え、突然中学生の少年を屋敷に連れ帰れば誰だって何事かと思うだろう。屋敷に卓海を置くこと対し反発から邪推する者も多く、当初は卓海への風当たりは厳しいものだった。
 卓海は昔を思い出す。長い時間過ごしたように感じるが思えば史郎の父親とは、たった3年ほど共にいただけだった。
「……史郎さんは寮生でしたから、あんまりご存じないと思いますけど、僕を屋敷中、一族中の方が嫌悪されてました。それらを緩和するために僕は側近としての教育を受けたんです。主に外国の学校に通うようになったのも、余計な波風を立てないためでした」
 卓海の説明に史郎は怪訝な顔をする。卓海が外国で過ごしていた時間が長いのは知っていたが、それは優秀なためだからと史郎は思っていた。
「別に卓海1人屋敷に入れたって、どうってことないだろう。わざわざ側近になる必要も嫌う理由もないはずだ」
 卓海は首を横に振る。…普通の環境にいた子どもなら、そうかもしれない。義則の遊興で人1人養うなど容易いことだっただろう。だが卓海の場合、そうはいかなかった。
「仕方ないんです。僕の兄は、義則さまに買われていた男娼だったので…」
「!」




 しばらく史郎は言葉を失っていた。
 なにと反応すればいいのか分からなかったからかもしれない。あまり父親のことを知らない史郎は、父親にそういった好みがあることも知らなかったのかもしれなかった。
 卓海はいたずらに草をむしって風に投げる。
「……貧しいからもありましたけど、兄は自分の仕事が好きでした。ひたすら無邪気な性格で快楽に正直で、兄が体調を崩して僕がかわりに店に出たりすると烈火のごとく怒ってましたけどね」
「……あ。だから、素人ではないって…」
「大人びてはいても子どもですから、せいぜいメッセンジャー程度ですけどね。兄の相手は大抵が良識ある資産家たちだったので」
 華やかで淫靡な兄の世界。
 兄弟2人切りの生活は卓海の全てだった。兄がしていることが誉められたことではないのは知っていた。けれども少なくとも生活がかかっていたし、兄にはそれしかなかった。卓海が気がついた頃にはそうした商売をしていたし、兄自身がそれを天職だとも思っていた。
「立場や出会いはどうあれ、義則さまと兄さんはすごく幸せそうだったって、聞いたことがあります。兄はよく義則さまのことを自慢してましたよ。…実際の付き合いは一応商売ですから、僕は見ることは出来なくて、知らないんですけど……」
 素敵な人なんだと何度聞かされたことか。スーツ姿が凛々しくて、話す声が良くて、アレも巧いんだよっ、と、嬉しげに何度も何度も話されて卓海は兄は幸せなんだと感じていた。子どものような純粋さで義則を慕い、事あるごとに義則との事を報告してくれる度、いつまでも続けばと卓海は願った。
 いっそのこと囲ってもらえばいいと卓海は思ったものだ。自分のことなんて忘れて、仕事からも足抜けして2人だけでと。…まだ卓海はそれだけの夢を見れる子どもだった。
「でも兄たちはささいなことで喧嘩して、義則さまが気がついたときには兄の体は今までの無理がたたって…、」
 卓海は両手で顔を覆う。
 卓海が初めて史郎の父親に会ったのは兄が入院した病院だった。駆けつけたと思しき義則は髪が乱れ、スーツもしわくちゃでお世辞にも恰好良いとは言いがたかったが、義則と会った時の兄の嬉しげな顔を、卓海は今でも忘れられない。
「最期は義則さまに看取られて兄は幸せそうでした。…義則さまは兄への償いを込めて最後の最後まで兄が気がかりにしていた僕のことを、引き取ったんです」
 兄を捨てたと思った義則を1度は憎んだ。だが兄を看病をする義則と嬉しげな兄の姿を見ると、憎しみはなくなった。
 引き取ってくれた義則に卓海は感謝している。共に過ごした時間で卓海は義則の何処に兄が惹かれたのか分かった気もした。卓海は小さく笑んで、言わなければいけないと思うことを口にする。
「……もし僕が史郎さんに応えでもしたら、結構大騒動ですよ。僕は兄を使って義則さまに取り入り財産を乗っ取ろうとしていた娼夫だと、今でも奥様は思われてますし…。だから史郎さん、くだらないことは忘れていただくのが幸いだと、僕は思います――」



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