「春の雨」



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 霧雨の中を歩きながら、さすがに卓海は自己嫌悪に陥っていた。
 大っ嫌いは大人げなかった…、と、卓海は思う。いつからか降り出した霧雨が全身を濡らして、余計に卓海を落ちこませる。だからといってすぐに引き返すには気まず過ぎ、結局卓海は当てもなく広大な庭をさすらうはめになっていた。
 側近として良識ある行動ばかりしている卓海だが、結構大人げない面も実は多い。ただ年上に囲まれ、高度な判断を必要とする場所にいれば、否応なく沈着冷静を常としなければならないのだった。だがここに来てからどうにも調子が出ない、溜め息と共にそんなことを思う。
「それにしても、どこだここ…」
 しかめ面と情けなさに落ち込む顔を入り混じらせながら卓海は途方に暮れる。一向に門が見えない。屋敷も遠い影である。本気でここは広すぎた。同時にこの広大な敷地の屋敷が、紛れもなく史郎のものだと言うことが、余計に卓海を落ちこませる。
 卓海は史郎の父親に誉められるのが嬉しくて、ここまでやってきた。地位や名誉は結果として付いてきたもので、正直卓海は自分が側近筆頭まで上り詰めるとは思っていなかった。史郎の父親が死んでから腑抜けた卓海は、まわりの助けなければ側近の座からも消えていたような状態で、この頃やっと落ち着いてきたのである。もし今の卓海の行動を誰かに知られれば、クビも当然と言われて仕方ない。無責任で分をわきまえないことをしてしまったのだった。
 ―――― トロイメライの、静かなメロディ。それはまるで春の雨のように物憂げで、夢見た子どもの頃を懐かしく思い出させる。
 史郎が言ったように、それは彼の父が得意な曲だった。
 しかし。卓海には誰にも話したことがない卓海だけの理由があって、その曲が特別なものになっている。
 卓海にとって、それは史郎の父親の前に、兄が好きな曲なのだった。
「卓海!……卓海、卓海…!!」
 傘も差さずに走ってきた男が卓海の腕を掴む。春とは言え雨で冷えた空気に、白い息が現れては消える。
 掴まれた腕が熱かった。…抱きしめられたが卓海は抗わなかった。その温もりはなぜか懐かしくて、切ない。
 いつだったかこんな風に自分も春の雨の中を走ったことがあったと、卓海は漠然と思い出す。史郎の温もりは、卓海がどうこうと思う前に心地よくて、卓海はしばらく史郎の好きにさせたのだった。



「史郎さん、いちいち水のあるところまでお玉で灰汁を運んでいたら効率が悪いとは思いませんか。ボールにでも水を入れて、そう。その方がいいと思います」
「あ、うん、そうだな、うん、すまない」
 まじめ腐った顔で台所に立つ史郎に指示を出しながら、卓海はフライパンに胡麻油とバターを引く。
 さすがの史郎も料理を全くしたことがなく、卓海の指示にもオロオロするばかりだ。本当は自分一人でしたほうが早くできるのだが、卓海は邪魔の一言を堪えて史郎に手伝わせる。そうでもしないと気まずさに窒息しそうだった。
 雨の中から連れ戻された卓海は無言でシャワーを浴び、鍋のことを思い出して夕食を作りますとだけ史郎に言った。史郎は手伝うと宣言して一歩も引かなかったので、卓海は渋々手伝いを了承した。おそらくはダメと言っても、近くから離れようとはしなかった。お互いに何か作業があれば、口を開くきっかけもあり、気まずさも和らぐ。結果的にどちらにとっても良い選択だった。
 卓海は、筋を取ったセロリと湯に通したイカをフライパンに入れて炒める。史郎はちまちまと灰汁取りをしながら、そんな卓海の手元をほれぼれしたように見つめた。
「手際がいいんだな」
「子どもの頃からしていれば、さすがに」
「親父に作る前から、してたんだ」
「家の会社が倒産した挙げ句、父母が事故死して、貧しかったですから。…唯一の身内だった兄は、かなりの無器用でしたし」
 卓海は言いながら微笑んだ。昔のことを思い出して気が和らぐ。史郎なら幾度か説明すればある程度はこなす。しかし卓海の兄は本当に不器用で、放っておけば間違いなくレトルトさえ扱えずに飢えただろう。
「兄は超絶な不器用だったんです」
「…………」
 卓海の笑みをためらいがちな視線で見つめた史郎は、灰汁の溜まったボールの水をざん、と流しに捨てる。
 新たに水を入れながら史郎は卓海を見ずに口を開いた。
「……卓海。さっきは本当にすまなかった。卓海の気持ちを考えてなかった」
「…………」
 卓海は醤油、日本酒、みりんで味付けした中に、皮を湯剥きしたトマトを加える。さっと混ぜて、一瞬ぼうっとフライパンを見つめた。
 史郎の言葉をゆっくりを考える。
 確かに史郎は思慮が足りない部分があっただろう。卓海は自分も良くなかったと思う。だから、史郎の謝罪で卓海は怒りは水に流す。
「……どうして、今なんですか。それに今までそんなに史郎さんと関わった記憶がないんですけど」
「親父が死んでごたごたしてる頃、卓海はサラダを作ってくれた。責任とか義務とかそんなことばっかり言って、俺自身には誰も見向きもしない中で俺を気遣ったくれた。…これはなぜという理由にはならないと思うけどね」
「……サラダ、ですか…」
「……そう、あのさ、卓海、…焦げてない」
「え、わ、うわっ。史郎さん、もう少し早く言って下さい…っ」
 危ういところで火を止め、卓海は一息つく。大した被害を出さずに済んだ料理を、ブラックペッパーを振りかけて仕上げ、レタスを敷いた器の中に盛った。油がはぜて、レタスの上に広がる。食欲をそそる香りが辺りに広がった。
 続けて史郎から鍋を預かり仕上げに取りかかりながら、卓海は封じ込めてしまった記憶の中を漂う。
 史郎の口にしたセリフを卓海は反芻する。
 昔。史郎の父親が逝ってしまった頃…。
「史郎さんは、兄さんと同じ匂いがしたから…」
「?」
「……、昔、史郎さんといた時間は心地よかった気がします。わたしは泣いて、…。皆を困らせてきたあなたは嫌いですけどね」
「手強いな、卓海は」
 期待させる言葉と突き放す言葉を織りまぜる卓海に史郎は苦笑いをうかばせ、卓海も微笑した。
 史郎は嫌いだと卓海は思う。
 けれど憎み切れないとも卓海は感じている。少なくとも雨の中を走ってきた史郎は本気で心配していたし、格好良かったとも思う。それに史郎の温もりは嫌ではなかった。
「でも、ですから、使用人の手配のこと譲歩はしませんからね。…万が一でも出来たら、少しは史郎さんのことを認めますけど」
「はいはい、万が一にもね。側近の癖に態度が大きいよなあ、卓海は」
 史郎のため息混じりのセリフに卓海は笑む。史郎がそれを本気で言っていないことが穏やかな口調から分かったからだ。
「さあ、夕食にしましょう」
 甘やかしてはいけない流されてはいけない、信じ切ってはいけない。相手はわがままの限りを尽くしてきた、史郎なんだから。
 史郎より一つ年上なのだという、少しばかりの優越感と共に卓海は思う。卓海の気がつかないところで、卓海の中の史郎の位置は微妙に変わり出しているようだった。



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