「春の雨」



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 何もしなくていいと命じられた卓海は久しぶりにぼうっと時間を過ごした。
 深見は史郎に言われるまでもなく用があるからと午後になる前に帰り、卓海はいつも忙しくしている時間が空いて手持ち無沙汰になってしまった。気を紛らわそうと掃除をしたり、庭の木に水を撒いたりしてみたが、どうにも広すぎて手が付けられず、結局卓海は無難に夕食の支度をすることにした。
 ……史郎さまは何を考えていらっしゃるんだろう…。
 野菜の皮を剥きながら卓海はそんなことを考える。昔ならともかく最近になっては考えたことのないことだった。
 ここに来てからの史郎は無茶な夜遊びに出かけようとしない。使用人を全て帰したりと相変わらず奇抜なことをするが、それは他人に迷惑をかけてのことでなく、それどころか、再就職先の面倒を見るなど、きちんとしていたことを卓海は知らされている。
 どうしようもないバカ息子と思っていたけれど、それは違うのかもしれない。そんなことを卓海は思った。
 適当な形に切り揃えた材料を鍋に入れ、弱火に欠けた卓海は手を洗って時計を見上げる。これで後はしばらく煮込まないといけない。また暇になったと卓海は小首を傾げ、掃除の途中に音楽室を見つけたことを思い出した。
 とにかく広い屋敷だ。ミニコンサートなどを催せるようにかお飾りに近い状態のグランドピアノやバイオリンまである。少しは時間潰しになるだろう…、そう考えた卓海は、鍋を火から外してオート式の調理器に替え音楽室に向かうことにした。



 シューマンのトロイメライ。
 閉め損ねたドアから流れるピアノの音に卓海は驚いた。それは懐かしい音色で卓海は一瞬、もういない存在を思い出して動揺した。
「に!…あ、し、史郎さ、…ん」
「…卓海?」
「すみません、邪魔してしまいました…」
「今の親父も得意だった曲だよ」
「……そうですね、社長もとてもお上手でした」
 演奏を止めてしまった気まずさに苦笑してみせ、卓海はゆっくりとピアノの傍に近付いた。史郎は不穏な視線をうかべていたが、卓海が傍に寄ると視線を柔らげ目で追う。そんな視線に気が付かないように、卓海は無邪気にピアノの傍を見渡す。
 楽譜が立てられていないことからして、史郎は今の曲をそらで弾いたのだろう。そう難しい曲ではないとは言え、卓海は素直に感心する。楽器をうまく弾きこなせる者に対して卓海は無条件に尊敬する癖があった。
「お噂には聞いてましたが、史郎さんはピアノがお上手なのですね」
「卓海はピアノ、弾くのか?」
 人差指で鍵盤の一つに触れ戯れのように音を出した卓海は、苦笑と共に首を横に振る。
「…いいえ、下手の極みです。でも少しは手慰みになるかと思って。史郎さんは?」
「気分転換」
 やはり朝食時に言ったことは本気なのかと顔を曇らせた卓海の腕を、史郎が取る。そのまま前に引かれ、卓海はバランスを崩して史郎に抱き止められた。
「な、あ、ちょっ、し、史郎さん…!」
「あのさ、好きなんだって気付いてる。俺、卓海が好きなんだよ」
「…………」
 ご冗談を、と、卓海は否定できなかった。
 今までの行動に解答を付けるなら、それは分かりやすい答えであるし、熱っぽく寄せられる史郎の視線を嘘だ冗談だと言い捨てることが出来ない。一方で信じ切ることもできない卓海だった。
 史郎は卓海からすれば恋多き男で、今まで真摯という言葉の欠片もない生き方をしてきたのだ。
「信じられない?」
「…質の悪いお遊びをしていると思っても、仕方がないことだと思います。史郎さんは気紛れだから」
「その、今まで気紛れみたいにしてきたことは、全部卓海の気を引きたかったんだっていったら笑う?」
「…………」
 戸惑いと共に卓海は史郎の顔を見上げ、伏せた。
「…笑いはしませんけど、そんな事実は嫌です。…素晴らしい社長になってくださるなら、少しは史郎さんのことを認めましょう。でもそれは受け入れるということとは別です」
 冷ややかなセリフに戒めの力が弱まる。卓海の言葉は史郎にとって打撃だったらしい。力の抜けた史郎の腕から抜けだし、卓海は手早く乱れた髪を整えた。信じる信じないに関わらず史郎の言ったことも、卓海に衝撃を与えていた。
 気を引きたいが為に何億という負債を出されては堪らない。そんなことが事実ならば卓海は史郎が許せなかった。
「卓海、手が震えてる」
 相手の心理を慮らない指摘に卓海の眦がつり上がる。動揺が卓海から冷静さを失わせていた。
「僕は社長のお為になりたかったのであって、あなたにまで仕えるつもりはなかった!僕は、わたしは、史郎さんなんか、大っ嫌いです!!」
 伸ばされた手を振りきり卓海は部屋を駆け出す。自分の立場や追いかけようとする史郎のことなど、もう考えられなかった。



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