「青く沈む」



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「信じているか?ええ分かっていましたよ、あなたがそうお訊ねになるだろうとはね。自覚がないのだから、疑うしかない」
「……自信たっぷり言って貰っているところ申し訳ないんだけど、尚人くん聞いてないよ」
「…………」
「というか、もうここにはいないし」
 あらかじめ用意してあった篝火に火が入り、辺りが照らし出される。まとわりつく負嵐を適当に祓い退けながらそっけなく応えた史行に、男は開きかけた口をぴたりと閉ざした。
 自分からすすんで声をかけたはずの人物は男の台詞に耳を傾けるどころか、返答を待ってさえいない。意気揚々といってもいいぐらいの勢いで姿を見せた根津は、致命傷は負わせられなくても動揺を与えられたに違いないと胸膨らませていただけに受けた衝撃も並ではなかった。
 根津の周りを覆う黒い影が揺らいで濃淡を作る。墨色の炎をまとわりつかせた男の姿は前よりも少し膨らんで見え、暗い色をうかべた双眸は濁りがあった。
 たとえ負使いであっても許容しかねるほどの負を操っているせいだろう。少しずつ負の気に冒されているのが伺えた。
「どういうことだ…?」
「弁明させて貰うと、連れて行ったのはふたりの従兄。尚人くんの意志じゃない」
 星明かりが消えたのに合わせて尚人は航市の背の上に抱えられ、隣には防御壁を張りながら走る宗主がいたのである。尚人にとっても予想外の展開だった。
「素晴らしいぐらいの連携作業だったよ。ひとりが尚人くん不意をついてぐらつかせ、崩れかけた体をもうひとりが背負い、揃って走り出しながら進行方向の負を祓い、気付いて文句を言おうとした尚人くんを視線ひとつで黙らせる息の合いよう」
「どこだ…!どこにいる…ッ」
 笑みを張り付けていた顔を引きつらせて男は叫んだ。
 気が狂ったように叫ぶ男に眉を寄せながら、史行は別の方向を指し示す。
 男からはだいぶ離れていたが、社の影から湖面へとこぎ出した小さな舟に目当ての人がいた。
 舟の上にいるのは尚人、宗主、航市の3人だ。
 有無を言わさず抱え上げられて移動することになった尚人は従兄たちを見上げて不満げな顔だった。
「…僕が声をかけたのにその場にいないって間抜けじゃないですか」
「あのねえ、尚人…ああいう手合いの打ち明け話は総じて長いんだよ。いちいち聞いていたら、日が暮れるでしょ」
「でも聞かないわけにもいきません」
「事情聴取は後できちんとやる。優先順位を間違えないで」
 宗主の言い分はもっともである。
 真相の解明を求めた尚人に対し、彼らが選んだのは危険の回避。尚人の安全だ。
 戦力にはなれなくても足手まといにはならない。それぐらいには快復したと胸を張れれば良いがそうではない。それにこの山のこともある。
 航市の術によって壊れた箇所が一時的に修理された舟は、ごくゆっくり湖の中央へと向かう。男の大音声が洞窟の中に反響してよりうるさく聞こえたが、舟の上の誰も気に留めなかった。
 尚人が舟のへりを指先でなぞると触れたところからもとの木肌が現れ、すぐに組み直される。いたずらに張り巡らせた術を掻き壊す尚人を、航市は微苦笑をうかべて見下ろした。
「そんなにむくれるな、俺が悪かった」
「むくれてない。航市も、僕のことをまるで荷物みたいに。先走ったのは認めるけど、それでもあれはないよ」
「戦わせたくなかったんだ」
「どうして」
 航市は答えず、櫂を操る手に力を込める。
「ゆるしているからだよ」
 口を噤んだ航市にかわって答えた宗主を、尚人は不思議そうに見上げた。話の流れが理解できない。
「尚人は真知をゆるし、あの男をゆるしてしまっている」
「攻撃なら出来ます」
「違うよ。必要だと認めれば、尚人は自分や相手を傷つけることを厭わない。でもすでにゆるしを与えている相手を害せば、罪悪感を覚えずにはいられないよね。そんなものを抱かせずに済ませられるなら、航市は幾らでも悪役になるんだよ」
「これは俺のエゴです。あなたが語るとまるで美談だ」
「なら言い換えてもいい。従弟を守るのはあたりまえだっていう、お兄ちゃん心の成せる技だ」
 善人に仕立て上げられるのを拒み、鋭く反応した相手をからかい口調でいなす。尚人を弟のように思い、大切に思っていることは事実だったので、航市は反論しなかったが少し不服そうだった。そんな航市を余所に宗主の視線は再び尚人に向けられた。
「怒りを長引かせることなく、恨み続けることもなく、心広く生きて、清濁併せのんで。それは素晴らしいことだと思う。でもね、それで尚人は本当に良いの?私の目には誰かをゆるし、受け入れ、あるいは諦めるごとに尚人自身が自分の望みを見失っていっているように見える」
「尚人を苦しめている張本人のひとりであるあなたが、そんなことをおっしゃって良いとお思いなんですか。尚人がそうであるなら、一因はあなたにある」
「航市っ、…っ」
「たとえ尚人がゆるしても、俺はあなたをゆるしません」
「やめて、航市、それ以上言わないで」
「言わせればいい。航市には航市の言い分があり、わたしにはわたしの言い分がある。尚人、おまえにもあるのだからね」
 己に戻った矛先を尚人は戸惑った面持ちでふたりの視線を見返す。
「……僕は、…」
 身の回りの人々を、大切に思ってくれる人を大切にしたい。
 尚人が意志を持って貫くのはただその為だけだ。
 手のひらから滑り落ちていった穏やかな日常とささやかな幸せ。でも今が不幸なら、それ以上辛い目に合わないかというとそういうわけではない。
「僕は憎まずに済むのなら、幾らでも…ゆるします。それができなくなったら、悲しいから」
「……尚人、…」
「僕がすべきことを言って下さい、宗主。このままでは負が狂います」
 湖の中央で舟は止まった。
 あらかじめ宗主に指定された場所に舟を止めた航市の強張った顔に微笑みかけて、尚人は宗主から視線を逸らすことなくいつまでも見つめ続ける。
「よろしい。服を脱いで、尚人」
 宗主の求めに尚人は無言で従った。




 肌を圧す凍えるような冷たさに、こぼれかけた息を飲み込んだ。
 上も下もなく、暗さも明るさもない。
 足掻いた手足が大量の水を掬い、蹴散らして、ほんの少しの揺れが生まれたがどうにもならない。深く沈むごとに人ひとりの抵抗などささやかなものなのだと思い知らされる。
 ごくわずかにあった青い輝きは黒い光にすり替わり、目の前どころか何もかもを闇で塞いでいた。
 人には浮力があり、体にはなんの重石も付いていなかったが、水温の低さはなけなしの体力も奪う。意識を失わないように気をつけながら、尚人は教えられたばかりの言葉を胸の中で丁寧に紡いだ。
 言葉を紡ぐごとに体の奥底がじんわりと熱を持ち、水の中に沁みだしていくような感覚に囚われる。
 瞼を伏せた尚人の全身が仄かな光に満たされていく
 水上で光を捉えた宗主は尚人が紡ぐ音のない力ある言葉を耳にしているように、それに合わせて声を重ね、力の環を描き出す。
 突然船上から広がった光の螺旋に男たちは動きを止めた。
「なん、だ…?」
 根津は闇の中に輝く光の眩さに目を細めたが、白い輝きは水面だけでなく水中にまで広がり、とても瞼を開けていられなくなる。
 光は水面を揺らして、波音が立つ。
 前もってどういった現象が起こるのか聞かされていた真知たちにとっても、それは驚くべき光景だった。
 尚人を殻にして浄化の力を水の中に満たしていく。
 そのようなことが現実に可能なのか。誰も口にはしないが疑っており、そして恐らく為すのだろうと感じていたが、目の前の光景は想像以上のものを孕んでいた。
 白い光は眩いが指先がほっと温もるような力が混ざっていて、何もかもを光で包んでいった。
 光は地下水脈を通り、山全体へと伝わっていく。
 光の道で繋がったふたりは的確に術を紡ぎ、山を覆っていた負を祓っていくのである。誰もが出来ることではない。ふたりの息がどんなに合っても、ひとつが間違えば術は崩れる。複雑に絡み合い、寄り添いながら、ふたり分の力がひとつの術になっていた。
 すべての負を祓うのにかかった時間はほんの数分だろう。
 あっというまに術を終えたその光景に呆然と立ち尽くす人々の中、宗主は水中の中からゆっくり浮上してきた体を細い両腕でしっかり捉え、再び星明かりの差し込んだ洞窟内を見回す。
「…宗主!」
「尚人!無事か!」
 入口からなだれ込んできた人々の先頭に立つ男たちは、湖にうかぶ小舟に目的の人の姿をみとめて、自ら湖に足を踏み入れた。
「尚人。…尚人!」
「圭也、上着を脱いで。尚人の体温が下がってる。東伍、尚人を外に」
 岸辺に接岸した小舟に差し出された圭也の手を取り、勢いよく舟を下りた宗主は、今までの大がかりな術の疲れなどどこにもない顔で、てきぱきと指示を出す。
 彼らの後ろから優雅な足取りで湖のもとに入った美矢は、周囲の喧噪には全く構わず、真っ直ぐに主人の孫息子のところへ向かって、山を下りる一団にまざった。
 宗主介入という大仰な結果と共に、ほんの数日間だった修行日は呆気なく幕を閉じたのだった。



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