「映くん。今日は和食にしてくれる」 「あ。はい。ええと、広紀さんはお刺身が苦手なのですよね」 「そ。だから、焼魚とか、お願いね。いちおう、千波の意見も聞いて、でも和食で」 「はい。いってしゃっしゃいませ」 広紀の傍らに立つほっそりとした秘書の男に鞄を渡し、映は背広姿の彼らを見送る。石畳の道には、うっすら朝もやがたちこめていた。まだ、夜が明けたばかり。辺りはしんとして、鳥の声さえ遠い。重役出勤で遅く出るのは良く聞くことだが、幾千にも及ぶ系列会社を継いだばかりの若社長の朝は、驚くほど早かった。 広紀を乗せた幅広の高級車の姿が見えなくなると、映は広く古い屋敷の中に素早く身を戻す。つい数日前、映は家政夫としてこの屋敷に入った。2人の主人しか住んでいないせいか、住み込みの使用人は映と、今の秘書しかいない。だから、通いの者が来るまでにも、やることは山ほどあった。飴色の廊下を、抑えた足音で駆ける。まずは広紀の弟、千波を起こし、学校に送り出さなくてはいけない。 夕暮れとは言え、微かに和らいだだけの夏の陽射しを避けながら、映は川縁の道をゆっくり歩いていた。適度に物を詰められた籐の買い物かごがきしきしと鳴る。町で、映は買い出しを済ませてきたところだった。 「映」 ちりりんと軽快にベルが鳴らされ、振り向いた映の前で自転車が止まった。春陽のように整った明るい顔が、映を見つめて笑む。驚く映に、少年は長葱の飛び出たかごを嬉しそうに見た。 「映。今、帰り?」 「千波さん」 色の薄い茶色の目。やわらかそうな猫毛が、ふわふわ風になびく。黙っていれば繊細な美貌の持ち主だが、人懐こい笑みで誰からも好かれる、国本家の次男だった。映とはひとつ違い。年上の、17。学校帰りらしく、地元では知らぬものはいない、有名私学の詰襟が凛々しく目に映る。 「夕飯の材料を買ってきたところです」 「ふーん」 頷きながら、千波は映の手から買い物かごを取り、自転車の前かごに乗せた。恐縮する映と対照的に、買い物かごはどっしりと自転車に居座る。先住者である黒い学生鞄が、肩身の狭そうに隅に寄った。サドルから降り、千波は映の歩く速さに沿うように、自転車を押して歩き出す。 「映。どう。仕事には慣れた?」 「はい。あの。千波さんには感謝してます。あのままだったら、きっと路頭に迷っていたから」 「…お父さんは、どう。連絡は?」 「父は、大丈夫です。皆様に可愛がられていると思います」 嫌悪とも悲しみともとれる目で複雑に笑んだ映は、千波と共に歩く。 川から涼しい風が吹いて、丁寧にアイロンをかけた映の白いシャツを揺らした。臙脂に近い千波の黒の詰襟に、夕陽が射している。金色の釦がきらりと光を弾いて、映は黒い目を細めた。 「父はいつまでも華族の人間なんです。生活に困るぐらい没落しても、自分で服も着ない」 「…映。ぼくは映と出会えて良かったと思ってる。映と国本家の一員として一緒にいたいとも思う。映は、ぼくと家族のようになるのは嫌?」 「そんなこと。勿体無いぐらいの、お話です」 家族のようにと言ってくれる千波が嬉しくて、映ははにかむように笑んだ。良くは知らない映だが、国本家は古い家にありがちな閉鎖性で、謎めいた部分を多く持っている。そんな国本家の人間である千波が、快く映を受け入れようとしてくれるのは、嬉しかった。 映の答えに、千波は満足そうに目を細める。同時に何かを考えるような色を見せた千波だが、映は気にしなかった。偶然の出会いで映の困窮を知り、雇えるよう手回ししてくれた千波に、映は本当に感謝している。だから、映は千波のために、自分の出来ることを精一杯したいと思っていた。 |