花の透かし模様が入れられたランプシェード。薄い陶磁器で作られた舶来の照明から、淡い光が洩れる。ひっそりと照らし出された枕元で、形の良い瞼がゆっくりと開かれた。 「気がついた?」 甘く優しい声が、鼓膜を震わす。開けた目をぼんやり彷徨わせ、映は幾度かの瞬きを繰り返した。暗さに慣れていないせいか、周りがはっきりと見えない。映は小さな不安に駆られて、掠れ声を上げた。 「……、さ、ん」 思うように体が動かなかった。起き上がろうとしているのに、ただもたもたとベッドの上で身じろぎしているだけになる。それに焦れながら、映は傍の人影に目を凝らした。朧な視界の中でも、ここが千波の部屋だということは、分かる。だからたとえ声だけでも、傍にいるのが千波だと確証が持てていた。千波は映以外を部屋に入れない。 「……ち、なみ…さん」 「ここにいるから。慌てないの」 耳慣れた千波の声に、映は小さく息を吐いて、焦る気持ちを抑える。慌ててもどうにもならないと、気づいたのだ。 千波の腕をかりて、映は体を起こした。細い指先が、小さく跳ねた映の髪を梳く。 映は思い出していた。少し前まで、菱の間にいたのだ。吉江に渡された薬は、視覚を奪う。今まわりがはっきりと見えないのは、その効力が僅かに残っているからだろう。 「千波さんの顔、見たい…」 「もう切れるから」 悲しげに呟いた映を慰めるように、千波が映の額に口付ける。そのぬくもりが嬉しくて、擦り寄ろうとした映に千波の手が伸びた。掛け布団の合間から、手が滑り込む。服を着ていない映の素の肌を千波の指が伝う。悪戯するような動きに映が耳元を微かに赤らめると、小さな囁きが千波から洩れた。 「皆、映を気に入ってくださっている」 「…………」 「また今度、とおっしゃっていた」 気に入られように。少なくとも嫌われないように。映はそれをいつも気にかけている。だから、気に入ってもらえているのなら、嬉しかった。でも同時に悲しさも込み上げてきてしまいそうで、映はぼんやりとした視界の中に夢中に手を伸ばす。千波の首に両手を絡めると、深く唇を重ねられた。舌を受け入れて、映は千波に縋った。 太腿を冷んやりとした手が滑り、ぞくりと背筋が震える。赤らんだ目の端に、唇が降りた。千波の笑みが、耳元をくすぐる。 千波は楽しげな様子で、口を開いた。 「今日は、吉江と見惚れるほど仲睦まじい様子だったらしいね。何をしていたの?」 「写真、見せていただいていたんです。千波さんの子どもの頃の」 「写真?じゃあ、吉江の古い写真は見た?」 「隠そうとされましたけど、偶然に」 色の褪せ始めた写真の幾つかに、まるで舶来の陶磁器で出来たような美貌の少年が写っていた。自然と目を引いて、どなたですかと尋ねた映に、吉江は明らかに動揺して、返事を聞くまでもなかった。 「今まで気付かずにいたのが、信じられないです。吉江さん、すごく綺麗な人なんですね」 「今はちょっと歳も食って、雰囲気も性格も、大人しい感じになったから。でも昔は、とにかく気が強くて、兄さんも手を焼いてたんだよ」 「……反省したそうです、暴れすぎたって」 映はそれを言った吉江の声を思い出して、小さく笑い声をたてた。毎日大騒ぎしていたんです、と、吉江は恥じ入った。今ではまるで想像がつかないことだが、少年の頃の吉江は、まるきり暴君のような振る舞いだったのだという。 「あれでいて吉江は人見知りが激しい。映は、仲良くなれたみたいで良かった」 首筋を指が滑る。びくんと体を震わせた映に、含み笑いが落ちた。 「…でも、あんまり仲良くしすぎられても、嫉妬してしまう」 「……、ん、…っ」 つつ、と下りた指が、鎖骨を辿り、乳首を摘む。菱の間で散々なぶられたそこは赤く腫れ、鋭敏になっていて、思わず映は、指を退けようする。その手を、逆に捉えられた。ひとまとめに握られた手に、舌が絡む。指の根元から、丁寧に舐められる。微弱な刺激のもどかしさに、映は見えない千波を切なく見上げた。 「映」 「…………」 「好きだ、映」 「…っア」 膝でやんわりと固くなり始めたものを揉まれ、乳首に指を立てられた。離されないままの手の先が、甘く痺れる。 熱い息と共に、涙がこめかみを伝った。 好きと言う千波の声に、わけもなく心が震えて、映は身を縮めた。 切ないとか、いとしいとか、はっきりしない気持ちに、映は押し迫られた。まるで映は、慣れない恋に振り回されているようだった。 涙の痕に口付け、千波が映の手を離す。 映は、千波の体温を失ったのが悲しくて、自ら開放されたばかりの手を千波へと伸ばした。手探りで背中に腕を回し、胸に頬を押しつける。千波はそんな映を片腕で支え、バスローブを脱ぎ捨てた。 「…眠るのは、もう少し後、ね」 深く唇を重ね、舌を絡め、千波は映をベッドの上に押し倒す。薄明りの中に、まだ若い2人の影がしばらくの間、揺れた。 視力が戻っていることさえ気付かずに悶え泣いた映は、千波の腕の中で、小さな寝息を立てていた。 菱の間に行かせた後、映を抱いてしまうのは、千波の悪い癖だった。映が客に自分の見たことのない姿を見せただろうことが悔しくて、つい手を出してしまうのである。気を失った映を連れ帰り、体を洗ってやるのは千波なので、そのまま寝せてやったほうが良いことは誰よりも良く分かっていても、やめられなかった。 千波は映を手に入れたばかりで、自分の感情に自制が利かない。映がそれを拒めばまだしも、映もまた、そんな千波を受け入れてしまうから、まるきり留め金が外れてしまっている。千波と映はまだ、お互いしか見えていないの蜜月の中にいた。 疲れきって眠る千波の瞼に口付け、そのやわらかな髪を撫でた千波は、するりとベッドから下り、浴室に向かう。 お湯を浴びて居間に入ると、すでに似たようなバスローブ姿をした兄が、ソファでひとり、ゆったりと洋酒を楽しんでいた。 「吉江は」 「眠っているよ。…飲むかい?未成年」 琥珀色の液体が入ったグラスを掲げられて、頷く。真向かいのソファに座ると、新しく同じ色の液体を注がれたグラスを出された。四角い氷が、中で揺れる。 「まだまだだね、千波は。今日ぐらい、休ませてあげればいいのに」 「…分かってる。…でも、兄さんにも、身に覚えがあると思うけど」 「あれはじゃじゃ馬。映くんは可憐」 「良く言う。…昔の吉江なら、間違いなく骨董の壺が空を飛んだ」 「はは。…ま、拗ねても怒っても、あれはあいらしいから」 惚気めいた兄の言葉に大きく笑って、千波はグラスに口をつけた。広紀と吉江の間には、千波には分からないものがある。千波には通じなくても、2人の中では確固としたものがある。多分それが、彼らがうまくやっている証なのだろう。 千波はゆったりとしたソファに体を預け、軽く目を閉じた。 映と出会ったのは、ふと立ち寄ったサロンでだった。一目見たその時から、千波は映が欲しかった。彼が自分の傍にあるべき存在だと思った。 どこの誰であろうと構わなく、見れば見るほど、話せば話すほど、惹かれた。 すぐに相手を調べ、手に入れられるだけの手筈を整え…、映がこの家に来たとき、柄にもなく千波は浮かれた。嬉しかったのだ。映が傍にいること、映が自分を受け入れてくれたこと。何もかもが嬉しかった。 アルコールがもたらす軽い眩暈に身を委ね、記憶の海に漂っている千波に、広紀の声がかかる。その声に、千波は顔を上げた。 「映くんは、慣れたのかな?」 「……菱の人として、映は充分にやれてないとでも?」 「まさか。言いたいのはね、千波といることに慣れたか、ということ。外出には付き合わせてないみたいだから」 「…別に、ぼくは兄さんみたいに、映を外の仕事で使おうとは思ってないから」 やや言い訳がましく、千波は口を開いた。 本音を言えば、千波が映を外出に連れていかないのは、ただ人に映を見せたくないからだった。誰かが映に興味を持つのが嫌なのである。見知らぬ他人の目に映を晒すのも嫌だった。幼稚な独占欲だと思うのだが、今しばらくはそれを主張したい千波だ。 その千波の心情に気付いてか気付かずにか、広紀は目だけで笑んで、口を開いた。 「吉江のことなら、あれは予想外。別に秘書にするつもりはなかった。今でも父上はあのはねっかえりが、と笑っているぐらいなんだから」 言われて、千波は苦笑う。 確かに、はじめから吉江を仕事に使おうなど、誰一人考えられないに違いない。国本家に来た頃の吉江が出来ることといえば癇癪を起こすことと、物を壊すことぐらいだった。 千波は吉江に子守りされる度に、ただ座って何もしないでほしい、と願ったものである。吉江はそれこそ玻璃を繊細に彫り上げたような、類い稀と言うべき美貌の持ち主だったものの、掃除と言って廊下に水を撒いて床を駄目にするのは序の口、3歩歩いただけで、小火騒ぎ、警察沙汰など、不思議なぐらい常に騒動の種になった。人の言うことを大人しく聞くような質ではなかったし、すぐ何らかのこと腹を立てて破壊魔に早変わりするのだから、手のつけようがない。 あの頃吉江は、広紀のせいだ、広紀なんか嫌いだ、と悪口雑言吐いては地団太を踏んで怒ってばかりだった。 千波と同じように昔のことを思い出してだろう。広紀は苦笑をうかばせてから、千波をにこりと見やった。 「隠しておきたい気分になるのは分かるけど、ほどほどに、ね。どんな些細なことでも、大切していくことが重要だから」 「…それが、円満でいる秘訣なわけ?」 「じゃじゃ馬ならしのこつ、さ」 千波は一笑いしてから、真面目な顔で小さく頷いた。 |