「ボウシバナ」



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 間もなく、季節は秋に入ろうとしていた。
 国本家に映が来て、数ヶ月。ボウシバナの花も、もう咲き終わろうとしている。

 瑞々しい緑の葉に、鮮やかな青。舟形の苞葉に守られるように、2枚の青い花弁と小さな白い花びらが、朝陽の中に揺れていた。
 窓際の文机に用意した小振りの水差しに、そろそろ時期外れになろうというボウシバナの花を差して、映はその場に腰を下ろす。透明な硝子で出来た華奢な水差しは、陽を浴びてきらきら光る。
 充たした水の中で細かな泡がそっと硝子の縁を離れていく様を眺めながら、映は西洋式の前かけを外した。朝食を片づけた後は、映の休憩時間になる。
「映さん。今宜しいですか?」
「…はい」
 断わりを入れて入ってきた吉江の方を向いて、映は頷く。休日の今日、主人2人は外出していて、この家には使用人しかいない。主人がいなければ、映たちは割と暇だった。文机に背を向け、映は吉江を正面の座布団に招く。住み込みの映に与えられた部屋は広く、調度品も整っているため、吉江をもてなすにも何の問題もない。
「ツユクサですね」
「…はい、裏庭の方に咲いていたので、つい」
 水差しを振り返りながら、映は微笑む。そんな映に優しい眼差しをうかべて、吉江は映の前に腰を下ろした。
「花があると、部屋が澄むようですね」
「はい。それに、和みます」
 頷き合い、視線を重ねる。何となく沈黙しあって、部屋がしんとする。吉江は顔から笑みを消すと、胸元から白い薬包を取り出した。
「今夜の分です。水に溶かしてお飲みください」
「…はい」
 受け取った白い包みを文机の上の小物入れに片し、映は暗い吉江の顔を苦笑で見上げる。
 まだ、吉江は慣れないらしかった。映に薬を渡すことを、その後にあることを、割りきれないでいる。
 かつて吉江がしていたことを、映は受け継いだ。はじめこそ無理強いされた継承とはいえ、以降、映はそれを強制されたことも、拒んだこともない。屋敷の扉は常に映の好きに開けられ、外出も自由に出来る。嫌なら、いつでも逃げられる中で、映は、ここにいた。
 屋敷から、人の気配が立ち上る。通いの家政婦やら庭師やらが動き始めたのだろう。俄かに周囲が騒がしくなる。
 その喧騒に耳を澄ましながら、映は出来るだけきれいに、微笑む。心から言っているのだということが伝わるよう、映は慎重に言葉を選んだ。
「吉江さん。吉江さんは、広紀さんのために。僕は、千波さんのために。行なっていること。それで良くはありませんか」
「映さんはまだ戻れるはずです。帰ることの出来る場所が、映さんには残っている」
「…場所があるからと、それが吉江さんなら、戻れるのですか。広紀さんを置いて、戻れるのですか」
 吉江は俯き、首を振る。戻れるわけがない。かつては映と同じ状況にありながら、吉江は今もここにいるのだ。…もう手遅れなのだと、映は言外に示す。
 映には父親がいる。映の帰りを喜ぶことの出来る人と家がある。戻ろうとさえ思えば、映はこの家から出られた。映の心さえ、頷くことが出来たなら。
 悲しげに肩を落とす吉江に、映もまた俯く。
 強くは、吉江の言葉を跳ね除けられない。
 吉江がしてきたこと、映がしていくことは、尋常なことではないのだ。
 決して勧められることでも、望んでやることでもない。
 だが、やらないことは、選べなかった。戻ろうと思えないと同様に。
「僕は、千波さんが好きなんです」
 ぽつりとした映の声に、吉江が顔を上げる。それしか言いようがないのだろう映の苦しげな顔に、吉江は切なげに微笑んでから、頷いた。
 映の姿は、かつての吉江だった。頼りなげな姿に切なさが込み上げてくる。
 映だとて、出来ることならもっと普通に、いたい。
 ありふれた形で、自分の意志に忠実でありたい。
 だが、それは適わないことも、それでは満ち足りないことも、映は分かっている。だから、ここにいるのだ。
 華奢な体を抱き寄せ、震える背に腕を回してから、吉江は大きく頷いた。
 幸せも、苦しみも。戸惑いも、諦めも。皆、同じ。
 映と同じ道を、吉江は通ってきている。
「僕はもう、戻れないんです。だから」
「…分かっています。すみません、非道なことをしました」
「…………」
「わたしは、広紀さんが好きなんですから、ね」
 吉江が苦笑する。
 その吉江の腕から、いたわりが、伝わっていた。
 自分の発言で苦しめてしまったことを懺悔する吉江が、映はなぜかとても身近に思えて、おそるおそる自分も吉江の背に腕を回す。
 遠慮がちな映を、吉江は強く抱きしめる。その強さに促されるように、映は自分の腕にも力を込めた。安堵感が、映を包む。
 映にとっては吉江が、吉江にとっては映が、ただ1人の、仲間。居るというだけで救いになる相手なのだと、全身で知る。
「2人で、がんばりましょう」
 吉江の笑みにつられるように、映はいつのまにか強ばっていた顔をゆるめた。
 はい、と肯く。
「2人で、愚痴とか惚気とか、話しましょう」
 抱き合っていた体を離し、秘密の同盟です、と、吉江が差し出した小指を、映は微笑みで自分の小指と絡めた。吉江は映に、策士家の顔でにこりと笑む。
「2人で、広紀さんと」
「千波さんの傍に」
「秘密の同盟、成立ですね」
 それは、兄のように慕っているだけだった吉江が、弟のように可愛がっているだけだった映が、お互いの良き理解者であり、協力者と、なった時だった。



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