「硝子杯」



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「カオル、帰ってきタよ」
「…ん?」

 柑橘類はあまり好きではないのかもしれない。そんなことを考えながら眞知の手元を眺めていたので、良くは聞いていなかった。それを見て取ってか、食べ終えた皿を種類ごとにまとめながら眞知が繰り返す。

「カオル。帰ってきタ」
「…ああ、薫留か」

 一箇所にとどまる事が出来ない災難体質の顔がうかんで、月緒には悪いが困惑する。感情過多で冷ややか。極め付けの鈍さでありつつ敏い、傲慢な男。はっきり言って苦手だった。月緒の力にはなってやりたいし、夏燐はかつて見た目の歳が近かったので親しみを覚えているようだったが、こちらはそうは行かない。はじめて会った時の薫留は、ただのいけ好かない子どもでしかなかった。

「嬉しいか?」
「え?」

 考えても、思ってもいなかったことを言われたというように、反射的な眞知の笑みがうかぶ。

「……何でもない、すまなかった」

 その笑みに気まずさが押し寄せる。まだ妬いていたのかと自分で思って呆れた。
 薫留の保護者をしていた眞知の、彼ら二人だけの秘めやかな時が昔、嫉ましかった。割り込むことも引き裂くことも雑じることも出来ないからこそ、薫留から眞知を奪いたくて画策したこともある。結果は眞知の逆鱗に触れ薫留には嘲笑われるという最悪ぶりで、かえって繋がりの深さを思い知った。押し黙ったのを、何か悟るものがあったのだろう。片づけをする手を止め、眞知は恐ろしいほど艶然と笑んだ。勝ち誇っているようなからかうようなその笑みは、確かに薫留の育て親なのだということを思わせる。

「謝ラないといけないンだ?まだヨシハルは」
「…あの災難体質が帰って来るとなったら、二つや三つ騒動が起こるだろう。その対策が悩ましいと、言ってるんだ」
「ふウン」

 片言のどこか稚い発音が逆に恐ろしい。この国の言葉でさえなければ、眞知は静かな物言いをした。見た目と片言の言葉に学のない子どもと判断する者もいるが、それは大きな間違いなのだ。1つの言葉が片言だからといって全てが覚束ないわけでもない。そうでないことは底が抜けそうなほど大量に集めた本に目を通せることからも言える。一体眞知がどれぐらいの言語を用いられるのかは、もしかすれば本人さえも把握し切れていないほどの数かもしれなかった。
 眞知は薫留と二人きりの時は薫留の国の言葉で話す。史機との間でも同様に、耳慣れない古い言葉で話す。この国で生まれ育った者相手では、片言の現地語を。たまに違う言語で良いから、含みを省いた片言でない言葉で話して欲しかった。会得しようと思えば流暢に話せるようになるのをそうしないのは、眞知の意地悪なのだろう。それがなぜなのかは知らないが。

「…明後日ぐらいにでも顔を見に行くか」
「ウン」
「いや、向こうから挨拶に来るか」
「カモ」
「月緒が好きな林檎煮でも作っておくか」
「とリのマルやきト餡もちモ」
「…そりゃ薫留の好物だな。俺が作るのかよ」

 思わずぼやくと、眞知は楽しそうに口元を綻ばせ席を立った。器用にも全ての食器を手にしようとするので半分奪う。薫留が来るとしたら夏燐もやって来るだろうが、史機は夏燐の口にするものにうるさい。舗からでも食材を分けてもらう算段をつけておいた方が良いだろう。薫留の好物は眞知がよく知っているが、眞知に作らせるのは腹立たしいし月緒も落ち込む。自分が食べるものは自分で作らせるのが一番いい。

「夏燐だけは、鬱陶しがられても俺が監督だな」

 でないと台所が使いものにならなくなるからどうしようもない。史機は微笑ましく眺めるだけに違いないから役に立ちやしないだろう。振る舞う食事について思案をまとめて落ち付く。これで明後日のもてなしは充分だろう。各々、食べ物さえあれば文句を言わなかった。

「ったく面倒な」

 薫留が帰ってくるというだけでこの手間だ。この先どんな災難を呼んでくれるのかと思うと気が遠くなりそうだった。投げやりな呟きに、とうに台所へ着いた眞知は空にした手をぶらりと下げて、どこかつまらなそうにこちらを振り返る。

「苦労性ダね」

 労わってくれているのか呆れているのかよく分からない平坦な口振りで眞知が言う。後を追って台所に入りながら苦笑う。
 騒がしいながら朗らかで、優しく難しい同種たちの日々は楽しい。久しぶりに六人揃えば賑やかだろう。気を回し過ぎるのは性分で、それを実際はさしたる労苦とも思っていないのを眞知は見抜いているのだ。

「眞知、」

 ふと思い出して、洗い場に食器を置いて開いた手を放り出したままの外套に伸ばした。服を着替える間も無く古書を抱えた眞知を手伝ったので、ここに脱ぎ捨てていたものだ。

「ナニ?…硝子ざいク?」

 低めの眞知の目線には、硝子の花梨が月を透かすのが見えるだろう。台所の前に開いた窓から覗く月に、外套から取り出した硝子だまをかざす。入れ子になった硝子の花梨は史機と夏燐に半ば無理矢理に返されたあれだ。夏燐が引き摺られたものはとうに消してある。

 片手で硝子の花梨を持ち、もう片方の手でぼうと立った眞知を抱き込んだ。毀れそうな肩と伸びやかな背、希みに溢れた瑞々しさは長い時の中にあっても眞知の中に息衝き、年少組といえばそうあたる月緒とも夏燐とも違う華やかさがある。腕の中にある眞知の後ろから、両腕で硝子だまを包んだ。
 初めて眞知と会った時、そこには眞知と史機だけの静謐があった。
 冷ややかでも優しいわけでもなく、ただ前を見えれば後ろを振り返ればお互いが在るというだけの、沈黙の仲。脅かそうとしても融かそうとしても変わらない、唯一互いだけの空間が築かれていた。
 そこにはじめの一石を投じたのが、史機の連れてきた幼子。眞知が言うに、生まれながらにしての同種。夏燐。その後に続いたのが薫留で、眞知の目は彼を育むこと一点に向けられた。傍に在りたいと願いながら乞いながら、眞知のもとには常に他の誰かがいた。
 ようやく許されて得られた、腕に触れる温さと柔らかな髪の感触、決して逃したくないたった一つ。

 幾重にも重なった薄い硝子から、月の光を剥離させていく。手のひらに作った透明な球の中央で硝子だまの周りに、もやの環が交差する。
 力を込めた。あっけないぱきんという音で、硝子だまは一瞬のうちに形を失う。もやを散らすように消えた花梨の残滓の中でもう一度、意識を込める。成るのはいっとき。

 もやの中で淡く光が寄せ集まり、小さな粒を形作る。かと思えば粒は種のように月色の芽を芽吹き、瞬く間に葉を茂らせつぼみを付ける。
 形を失っても毀れる前を継ぐのだろう、開いた花は薄黄色の花梨の花。
 花は一呼吸するうちに掻き消える。

「…眞知」
「……、ン」

 児戯のような他愛もないまぼろし遊びだが、眞知は満足してくれたらしい。ぼうとした声を返し窓の向こうにある月を見て、きつく抱き締めても文句を言わない。

「眞知、好きだ」
「…そうダね」

 眞知が身を捩って振り向く。小さく微笑んだ顔はやはり稚いようでも大人びているようでもあって、いとしさに目を奪われる。

「僕もね」

 短く言って、眞知が背伸びをする。声音は確りして、片言さは微塵もない。ご褒美だとでも云うようにくれたものに感動してしまって、腕から擦り抜けた眞知を追う前に思わず手を口元に当ててしまった。

「はじめてミたいに」

 楽しげな眞知に開き直って肯く。どこもかしこも蜜月なのだ。こちらもそうなったって、構いはしないだろう。

「夜は長いぞ」
「あソウ?」

 惚けたって無駄だ。明後日の献立の前に今夜の企てを考えて不遜に笑い返す。楽しい夜になりそうだ。捉えた眞知の額に口付けて、取り敢えずは二人で夕餉の後片付けをすることにする。幸いなことに今夜は誰も邪魔しない夜となるに違いなかった。





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