香伊

「第1話:5時59分37秒」



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 動かない時計がある。
 多分、電池を入れ替えれば動くのだろうけれど、時計屋に持っていくのが、面倒で仕方ない。
 放っておいたら、いつか動くかもしれないし。
 もしかしたら、壊れて2度と動かないのかもしれないし。
 これがなくても、全然構わないから。
「香伊?何してるの?」
「もうご飯だよ?」
 はじめが弟。つぎが兄。
 年子の兄弟に左右から覗き込まれて、ベッドの中で固まる。手にした懐中時計を握り締めてしまって、その冷たさにどきりとしてしまった。冷たいと云うのは何て心臓に悪いんだろう。
「ほら、明日、…」
 どきりとしてしまった余り、訳の分からないことを口走ってしまった。
「明日?明日の夕食はお待ち兼ねのカニ鍋にするね?」
「葡萄アイスはちゃんと買ってくるけど。全部食べちゃったし」
 はじめが兄で、つぎが弟。
 優しそうな顔と、気の強そうな顔を交互に見やって、つい赤面してしまう。
 いや、うん、それはその通りで、全然、違ったりするんだけど…。
「あ、分かった」
 言ったのは、兄。
 言った途端、とても楽しそうな笑みをうかべる。
「明日、来るから。おじさん」
「登志オジサンね」
 顔から手から、足から胸から、ぼばっと熱が出る。
「そそそそそそ」
「そんなに赤くならなくても。良いじゃないの、好きなんだからね」
「ぼくはさー、ちょっと結構イヤだなあ。香伊をやるだなんて」
「嫁に?」
「嫁にも婿にも。やじゃない?離れて暮らすのなんてさ」
「あ、別居は認めません」
 真面目な顔で、兄が言う。
「早いよ!」
 その展開は!
 そう訴えて、どうにか赤面を引っ込める。
「誰も登志さんのことなんて、言ってないし。それに、もうずっとずっとずっと来てくれてない、明日だって来ないかもしれないんだよ」
「アレは香伊にべた惚れなんだよ、来るに決まってるじゃない」
「漸くのお役御免なんだから、まいすいーとはーと、とかうかれながら来ると思うよ」
「嘘だ。これくれてから、1度だって…!」
 5時59分37秒で止まってしまったままの時計を、見下ろす。
 3年前、中学校の入学祝いで懐中時計をくれた。中学には時計がないらしいから、って。行ってみたら、時計はあったから、これは使わなかったけれど、チェーンを付けて、ベッドの柵に掛けて、もうずっと、時間を見てた。
 この次になったら、会えるかもって。
 あと少しだけ針が進んだら、来てくれるかもって。
 でも、この間、止まってしまった。
 止まったと思ってから、ほんの少し動いたけれど、やっぱり進むと言うほど進まなくて。
 まるでそれは、諦めるよう、示しているみたいな気がした。
 登志さんは、とても優秀な人で。色んなところから引っ張り凧で。昔から色々と、僕をかまってくれていたけれども、それがずっとだなんて、思えない人だったから。
 手の上に落ちてくるものを何度もごしごし拭っていると、ああ、とか、はあ、とか溜め息が2つ落ちてくる。
「電話イヤって言ったの誰だっけ」
「手紙見たくないって言ったの誰かな」
「…………」
 言われていることがきちんと頭に入らなくて、ちょっと首を傾げると、左右から腕が伸びて包まれる。
「ああ、もー、飼っちゃいたい」
「香伊ちゃん、夕ご飯一緒に食べようね」
 すりすりすり、と2人分の頬が寄せられる。
 全く分からない。
 どうしてそうなるんだろう…。
 生まれてからずっと一緒にいるわけだけれど、なかなか僕は、2人の行動が掴めていない。
「……、登志さん、明日来る?」
「間違いなく」
「ゼッタイね」
 2人に断言されると、ちょっと安心する。
 2人の言うことは、割と当たってることが多いから。
「そっ、か。そうしたら、今から、時計屋さん、付いていって、ほしい…かも」
 止まっていたら、やっぱり会えなくなってしまう気がするし。
 まだ諦めなくっても良いなら、動いてる方が、ずっと嬉しい。
「いいよ。じゃあ電池はプレゼントしたげよう。登志一色の物なんて気に食わない」
「あ、じゃあ交換代は僕持ち」
 行きの電車代は?ということになって、じゃんけんほい。
 結果は僕。
 帰りは、というと。
 1日早く、登志さんに会った。
 そのまま、僕だけ車で温室に。
 登志さんの育てた、一面の花畑の中に。
 登志さんエリートなのに、ちょっと少女趣味なところ、あったりして。
「マイスイートハート、元気にしてたかい?楽しいことはあったかい?俺はとっても寂しかったよ、もう香伊に会いたくて会いたくて、1人交換日記をしてしまおうかと…」
「登志さん、ええと、今何時?」
 ん?と微笑んで、登志さんが僕の胸にかけた懐中時計を見下ろした。小さく摘んで、時間を読み上げる。
「9時18分13秒経過中」
 僕は登志さんの背に腕を回して、目を見上げて。打ち明けた。
「登志さん、好き」
 感激したらしい登志さんは、以降、それを特別記念時間に指定してしまった。とっておきの時間になったって、嬉しそうにする。
 一方の僕は、多分もう、時計が止まっていた時間のことなんて思い出さない。俺も、と、登志さんに言われたとき、そんな時間のことなんて、すっかり忘れていたから。



「5時59分37秒」 おわり



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