動かない時計がある。 多分、電池を入れ替えれば動くのだろうけれど、時計屋に持っていくのが、面倒で仕方ない。 放っておいたら、いつか動くかもしれないし。 もしかしたら、壊れて2度と動かないのかもしれないし。 これがなくても、全然構わないから。 「香伊?何してるの?」 「もうご飯だよ?」 はじめが弟。つぎが兄。 年子の兄弟に左右から覗き込まれて、ベッドの中で固まる。手にした懐中時計を握り締めてしまって、その冷たさにどきりとしてしまった。冷たいと云うのは何て心臓に悪いんだろう。 「ほら、明日、…」 どきりとしてしまった余り、訳の分からないことを口走ってしまった。 「明日?明日の夕食はお待ち兼ねのカニ鍋にするね?」 「葡萄アイスはちゃんと買ってくるけど。全部食べちゃったし」 はじめが兄で、つぎが弟。 優しそうな顔と、気の強そうな顔を交互に見やって、つい赤面してしまう。 いや、うん、それはその通りで、全然、違ったりするんだけど…。 「あ、分かった」 言ったのは、兄。 言った途端、とても楽しそうな笑みをうかべる。 「明日、来るから。おじさん」 「登志オジサンね」 顔から手から、足から胸から、ぼばっと熱が出る。 「そそそそそそ」 「そんなに赤くならなくても。良いじゃないの、好きなんだからね」 「ぼくはさー、ちょっと結構イヤだなあ。香伊をやるだなんて」 「嫁に?」 「嫁にも婿にも。やじゃない?離れて暮らすのなんてさ」 「あ、別居は認めません」 真面目な顔で、兄が言う。 「早いよ!」 その展開は! そう訴えて、どうにか赤面を引っ込める。 「誰も登志さんのことなんて、言ってないし。それに、もうずっとずっとずっと来てくれてない、明日だって来ないかもしれないんだよ」 「アレは香伊にべた惚れなんだよ、来るに決まってるじゃない」 「漸くのお役御免なんだから、まいすいーとはーと、とかうかれながら来ると思うよ」 「嘘だ。これくれてから、1度だって…!」 5時59分37秒で止まってしまったままの時計を、見下ろす。 3年前、中学校の入学祝いで懐中時計をくれた。中学には時計がないらしいから、って。行ってみたら、時計はあったから、これは使わなかったけれど、チェーンを付けて、ベッドの柵に掛けて、もうずっと、時間を見てた。 この次になったら、会えるかもって。 あと少しだけ針が進んだら、来てくれるかもって。 でも、この間、止まってしまった。 止まったと思ってから、ほんの少し動いたけれど、やっぱり進むと言うほど進まなくて。 まるでそれは、諦めるよう、示しているみたいな気がした。 登志さんは、とても優秀な人で。色んなところから引っ張り凧で。昔から色々と、僕をかまってくれていたけれども、それがずっとだなんて、思えない人だったから。 手の上に落ちてくるものを何度もごしごし拭っていると、ああ、とか、はあ、とか溜め息が2つ落ちてくる。 「電話イヤって言ったの誰だっけ」 「手紙見たくないって言ったの誰かな」 「…………」 言われていることがきちんと頭に入らなくて、ちょっと首を傾げると、左右から腕が伸びて包まれる。 「ああ、もー、飼っちゃいたい」 「香伊ちゃん、夕ご飯一緒に食べようね」 すりすりすり、と2人分の頬が寄せられる。 全く分からない。 どうしてそうなるんだろう…。 生まれてからずっと一緒にいるわけだけれど、なかなか僕は、2人の行動が掴めていない。 「……、登志さん、明日来る?」 「間違いなく」 「ゼッタイね」 2人に断言されると、ちょっと安心する。 2人の言うことは、割と当たってることが多いから。 「そっ、か。そうしたら、今から、時計屋さん、付いていって、ほしい…かも」 止まっていたら、やっぱり会えなくなってしまう気がするし。 まだ諦めなくっても良いなら、動いてる方が、ずっと嬉しい。 「いいよ。じゃあ電池はプレゼントしたげよう。登志一色の物なんて気に食わない」 「あ、じゃあ交換代は僕持ち」 行きの電車代は?ということになって、じゃんけんほい。 結果は僕。 帰りは、というと。 1日早く、登志さんに会った。 そのまま、僕だけ車で温室に。 登志さんの育てた、一面の花畑の中に。 登志さんエリートなのに、ちょっと少女趣味なところ、あったりして。 「マイスイートハート、元気にしてたかい?楽しいことはあったかい?俺はとっても寂しかったよ、もう香伊に会いたくて会いたくて、1人交換日記をしてしまおうかと…」 「登志さん、ええと、今何時?」 ん?と微笑んで、登志さんが僕の胸にかけた懐中時計を見下ろした。小さく摘んで、時間を読み上げる。 「9時18分13秒経過中」 僕は登志さんの背に腕を回して、目を見上げて。打ち明けた。 「登志さん、好き」 感激したらしい登志さんは、以降、それを特別記念時間に指定してしまった。とっておきの時間になったって、嬉しそうにする。 一方の僕は、多分もう、時計が止まっていた時間のことなんて思い出さない。俺も、と、登志さんに言われたとき、そんな時間のことなんて、すっかり忘れていたから。 「5時59分37秒」 おわり
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