冬のロンドンの街。日本にいたときはまるで興味がなかったけれど、この街に来てから、僕は1人で出歩くのが好きになった。 夕暮れの公園には、たくさんの人が集まってくる。僕は、ペットを連れて談笑しあう人たちの傍を通りすぎて、落ち葉のつもった道を歩いていた。 手袋はしているけど、寒がりな僕はコートのポケットに手を入れて、時折、目が合った人に笑みをまく。ここが日本で、僕が金髪碧眼だったら、きっとまだまだ不躾な視線をあびたり、変に馴れ馴れしくされたりすることもあったろうけど、この公園に来ている人は、1人で歩いている東洋人にもさりげない。 数枚の枯れ葉が、僕の足下を音をたてて通り過ぎていく。冬の気配を含んだ異国の風は、僕の体を包んで街の匂いみたいなものを思わせる。 その感覚は心地よくて、だから僕は、こうして1人外を歩いていくことが好きになったのかもしれなかった。 薄暗い空間に、煙がくゆるようにジャズの音色が流れている。 鬱陶しいほどではなく、かといって閑散としているわけでもない、この店の客の入り具合が、僕は好きだった。人が多くて喧しいのは嫌いだけど、人の気配がないのは、また寂しくて耐えられない。僕は人恋しくなったとき、決まってこの店に来る。 いつもの気紛れで外を歩いているうち、何となく自分のアパートメントに帰りたくなくなった僕は、街外れにあるこの店に来ていた。 僕を帰りたくなくならせた気分の沈みは、つまらないことだった。 僕は、秘書としてこの街にある日本企業に雇われている。仕事に不満はない。どこにでもいそうな日本の会社人間である社長はくだらないし、海外勤務を鼻に掛けた同僚は気に食わないけれど、そんなことは、別にどうだっていい。 僕の気分を沈ませているのは、仕事のことでも、冬の冷たさでもなく、もっと小さくて、つまらないことだった。 「1人?」 カタンと僕の隣のカウンタにグラスが置かれる。その小さな音とともにおりてきた声は、とてもやわらかだ。 ぼんやり顔を声の方にあげると、そこには上品な仕立てのスーツを着た、銀色の髪の男が立っていた。 男は薄い灰色の目を細めて僕を見やり、すぐ隣のスツールに腰をおろす。どうやら、僕に興味を持ったらしい。 1人でいる時に、人が、特に男が寄ってくるのに、僕は慣れていた。寄ってくるのは、ただ単に話がしたいと思ってのこともあるし、一夜限りのお遊びが目的といいうこともある。向けられる男の眼差しは、どうやら後者っぽかったけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。大抵僕は、そんな視線をくれるやつは、お門違いだって、追いやってしまうのだけれど。 いかにも紳士然とした笑みをうかべた男は、持ってきたグラスを掲げて、今更ながら、ここいいかい?と僕に聞いた。 気障な男だとは思ったけど、様になっているから違和感はない。 「どうぞ」 僕はグラスを持つ男のほっそりと長い指を見ながら、頷いた。きれいな指だった。 歳は僕より少し上、30代前半ぐらいだろうか。上流階級の育ちだと思わせるような雰囲気を持っている男だった。爵位を持っていると男が言ったとしても、きっと僕は信じただろう。そんな、どこか浮世離れした上品さに、僕の警戒心はやわらいでしまう。 男は僕の目を見つめて微笑むと、持ってきたオンザロックで唇をしめらせた。 「日本人かな」 「……ええ、…」 「背筋がすっきりしているね。もしかして、ダンサーとか?」 「スポーツは苦手です。ただの事務員ですよ」 運動全般が苦手な僕は、しなやかに体を動かせることが出来るダンサーに見えたことが嬉しくて、小さく笑む。 男は僕の顔をじっと見つめると、カウンタにグラスを置いた。 「名前を聞いてもいいかな。わたしは、イヴァン」 カウンタに落ちた水滴を使って、イヴァンが自分の名前を、ivanと綴る。僕もそれに倣って、カウンタに和史と漢字を描いた。 「かずしです」 「和史。平和の和に歴史の史だね」 名前を紡ぐ発音のクリアさに驚きながら、僕は彼が日本語に習熟しているのだろうと思って、頷いた。 「よくご存じですね。…イヴァンと、いうことは、ロシア系の方ですか?」 「…まあ、ね」 日本人が良く使う曖昧な笑みで軽く僕のセリフをやり過ごしたイヴァンは、長い指を組んでその上に顎を乗せ、薄い灰色の目だけを動かして、僕を見た。鮮やかな流し目に、僕は一瞬どきりとする。 「和史。美しい君の顔は、何に曇っていたのだろう?」 「……つまらない、ことです」 「つまらないことでも、わたしの興味をひくだけの表情を作らせた。気になるね」 的確な発音で紡がれる異国の言葉は、低く響いて、僕の全身を包むように過ぎていく。 真っ直ぐな眼差しで、イヴァンは僕を見つめていた。灰色の瞳は、僕を映したまま揺るがない。視線は僕を捕えて、離さなかった。 体の奥底に焔を埋め込むような、熱を含んだ目。僕はその熱を持て余して、イヴァンを見つめ返すことが出来ない。視線をカウンタに逃がして、僕は小さく息を吐いた。 注がれるものにあてられてか、頬が火照るのが分かる。跳ね上がる鼓動におされて、僕は言うつもりのなかった胸の内を口にしていた。 「本当に、つまらないことなんです。…今日は同僚たちの間で、恋の話になって。僕はまだ、初恋もしたことがないんです…」 小さくて、些細なことで、つまらないこと。 僕は恋をしたことがない。 そう本当のことを言うと、信じられないような顔をされるから、僕は大抵、初恋は高校生の頃、と嘘を吐くのだけれど。 これはくだらない、見栄。僕は奥手だと言われるのが嫌で、悔しくて、ちっぽけな意地をはっているんだ。僕はその嘘を吐く度に、少しの空しさを感じる。 僕はなぜ、恋をしないのだろう。 友人たちも、同僚たちも、惹かれた、惚れたと、楽しげに言っているのに。 恋をしない、僕。 ………恋は、しないけれど、人に惹かれないわけではないと思う。 人前では初恋の年になっている高校生の頃、僕は印象的な青年に会ったことがある。青年と言っても、当時僕と同い歳だったわけだけれど、弓を引く姿が、とても印象的な青年だった。 弓を引く、よく引き締まった腕。凜とした顔。ひゅんと音をたてて行く矢を追う、鋭い眼差し。普段は牡丹の花のように穏やかで優しげな青年なのに、弓を引くときだけは別人だった。一度寄せた視線が離せなくなる、強烈な雰囲気。 「…記憶の中に、住んでいる人はいるんです。そう言うと、それが恋って言われるけれど、恋じゃないんです。僕はその人が欲しいわけじゃないから」 「恋は病。病なのだから、中にはかかりにくい人もいる。風邪をひかないんだと、嘆くことはないと思うよ」 「風邪をひかないのは、馬鹿だからとも言います…」 優しい慰めを、小さな笑みをうかべて拒んだ僕は、スコッチが満たされたグラスを小さく揺らして、溜め息を吐いた。 「僕は、自分の中にとても大切なものが欠けているようで、嫌なんです。…欠けていることが、寂しくて。時々、堪らなくなってしまうんですよ」 世の中にあふれる恋の話。 僕はそこから外れている気がして、どうしようもなく寂しい気分になる。…くだらない感傷だとは思うけれど、辛いものは辛くて、寂しいものは、寂しいのだった。 「つまらない話でしょう。僕は自分でも何てくだらないことに捕われているんだろうと、余計に落ち込んでいたところだったんです」 グラスの端に口をつけて、アルコールを舌の上に満たす。普段は飲まないお酒をあおることで、僕は気を紛らわせていた。口に出したからといって、ずっと持ち続けた苦しさが消えるわけではなくて、僕の気分は沈んだまま、浮上しない。 イヴァンがカウンターに置いたグラスの中で、氷がカランと鳴った。僕はふと強い視線を横顔に受けた気がして、振り向く。射るような眼差しが、僕を見ていた。僕は思わず、その灰色の双眸と目を合わせてしまって、離せられなくなる。 「欠けているなら、埋めればいい。とっておきの夢見るような熱情で、わたしは和史の寂しさを埋めてあげるよ」 「……イヴァン、…」 グラスを持たない方の手が、イヴァンの両手に包まれる。 まるで凍えていた時に愛しい動物を抱き締めた時ような、誰かに抱きしめられた時のような、ぬくもりと安らぎが、僕を包む。僕は何かに操られるように、手にしていたグラスをカウンタの上に置いた。 「わたしの屋敷に案内しよう」 僕を促して、イヴァンが立ち上がる。寂しさの中に沈んでいた僕は、差し出された手と人のぬくもりを離したくなくて、気がつけばイヴァンの誘いに乗っていた。 |