イヴァンの屋敷は、ひっそりとした林の合間にあった。日付がもう少し過ぎれば、辺り一面に雪が降り積もるらしい。 赤煉瓦造りの洋館は、古く荘厳な雰囲気で、歴史映画にでも出そうな感じもする。 イヴァンが運転する車から降りた僕は、ロンドンの街よりずっと冷えた空気に凍え、居間の暖炉で部屋があたたまる前に風邪をひかれては困ると、浴室に追い立てられた。 贅沢で広々とした浴室だった。ジャグジーやらテレビやらが付いていて、近代的ではあるけれど、要所要所に彫刻の入ったしっかりとした造りは、この屋敷の格式の高さを伺わせる。 用意されていたふわふわのバスローブを着て、浴室から出ていくと、暖炉にあたためられた部屋は、ほんわりぬくかった。 石の床に敷かれた毛脚の長い絨毯が、素のままの足を優しく包んでくれる。暖炉の前に向かい合わせで置かれたレザーのソファの1つに座ると、びっくりするぐらい体が沈んだ。 「ブランデーだよ」 「…ありがとう」 イヴァンが渡してくれたグラスを受け取って、口をつける。 体の奥から、ふわりと熱が生まれるようだった。許容量を越えないように注意しながら、僕はそろりとアルコールで舌を湿らす。 イヴァンは僕の真向かいにあるソファに腰をおろし、僕を見ていた。しつこくもなく、かといって主張がないわけでもない、イヴァンの眼差し。 静かな、部屋だった。人の声も、獣の声も、機械の音もしない。ただ、薪が燃える音がやわらかに満ちている。 照明が落とされた部屋の中で、僕は軽くまわったらしい酔いに息を吐き、火照る顔を冷やすつもりで前髪を掻き上げた。 「美しい、屋敷ですね」 「古いばかりの屋敷だよ。曽祖父から継いだんだけど、不便でいっぱいだ」 文句を言っている割りには、あたたかな口振りに、僕はイヴァンがこの屋敷を気に入っていることを察する。僕は苦笑して、イヴァンを見やった。 「少しぐらい、不便でないと住んでいる気がしませんよ。どこそこの戸は、やや浮かせてでないと、いけない、とか…そんなことが、愛しくなるんです…」 「この屋敷は気に入ってくれた?」 「……好きです。落ち着く、場所ですね」 僕の声に、火がはぜる音が重なる。 部屋に満ちているのは、ぬくもりと、木の香り。それと、2人分の息遣いだけ。 酔いがまわったのか、それとも、この屋敷の雰囲気にのまれたのか、僕は気分が高揚していることを感じていた。 イヴァンの顔に暖炉からの明かりが映って、とても綺麗に影が揺らぐ。 「……、イヴァン…」 思いがけず掠れた僕の声に、イヴァンがゆっくりと立ち上がる。飲みかけのグラスを僕から受け取り、イヴァンは、壁の傍に置かれた棚の上に、グラスを置いて、僕の傍に立つ。 僕はイヴァンを見上げて、頬に触れた手の上に手を重ねた。 「イヴァン。僕はあなたに、言わないといけないことが、あるんです…」 視線だけで、イヴァンが僕に続きを促す。 一度口を閉ざした僕は、再び口を開くのに少し勇気がいって、僅かに戸惑う。でも、僕は言わなくちゃいけなかった。僕を選んでくれた、イヴァンに。 「……僕は、初めて…なんです」 緊張に震える声で、僕は打ち明ける。 僕はイヴァンを騙していたような気分になって、身を竦めた。一夜のアバンチュールの相手が、物を知らない未経験者では、インチキなようなものに違いない。この後に及んで何を、と、僕を責めるに違いないと思った僕は、おそるおそる顔をあげる。けれど見やったイヴァンの顔は、予想に反して楽しげだった。 「大丈夫。わたしに任せて。和史の欠けているものを埋めてあげる、約束だよ」 「イヴァン…」 心臓が壊れそうなぐらい、鼓動を跳ね上げた。今まで生きていた中で、一番緊張していたと思う。 おりてくる吐息に僕は、ゆっくりと瞼を閉じた。 暖炉の中で、火がはぜる。 僕はあがる息に顔をしかめながら、ソファの背に縋り付いていた。 「も、いい。やだ、もいい…」 「だめだよ、2人で気持ち良くならなくちゃ」 汗のうかんだ首筋に口付けられ、僕は背を捩る。ソファに膝立ちした格好のまま、僕の体の中で、長い指先が滑らかに動いていた。 「……っ、ァ…」 その異物感には慣れてきていたけれど、でも、苦しいことに変わりはない。やわらかに与えられる刺激が耐え難くて、高鳴ったままの鼓動が苦しくて、僕はもう、愛撫なんてやめてほしかった。 僕はそう訴えるのに、イヴァンはやめない。僕の体は、まだ開き切っていないから。 「初めてなのは、男も、女も?」 「……う、…」 2本の指で押し広げられて、僕は息をつめる。そのままイエスと頷いて、息を吐いた。 「君の容姿だったら、誘いは山ほどあったろうに」 「き、気分が、のらな、くて…。や、イヴァン…!」 ある一点に触れられた瞬間の、震えるほどの陶酔感に僕は身を捩る。咄嗟に救いを求めるようにイヴァンの名を呼ぶと、頬に涙が落ちた。 「うん、この辺だね。だいじょうぶ、だいじょうぶだよ、和史」 やわらかな囁きとともに、耳朶をそっと噛まれ、舌先が這う。指の動きはやまず、時折、一点に触れて僕は身を捩る。 持続する快楽の波に、僕はだんだんと頭の中がぐちゃぐちゃしてきて、何がなんだか分からなくなってくる。思い切り泣き出したいような、考えただけで顔が赤くなるようなことを、叫んでしまいたくなるような、何とも言えない焦燥感に僕は苛まれた。 口付けの音、濡れた響き。イヴァンの手が、固くなった僕の自身にそっと触れ、先を撫ぜた。 「ァ、…っ」 濡れた部分を擦るように指が動いて、強く押される。はっきりとした快感に、僕の意識が捕われる。手は滲み出した雫を弾きながら、強く揉みしだいて、舌先は耳たぶから首筋におりていく。 いつのまにか指の本数が増えていたことに、僕は気づいていなかった。体中を覆う火照りに僕はそれどころじゃなく、恥ずかしい声をあげないようにするのに、精一杯だった。 不意に僕は、指の抜けた奥の窄まりに、指よりもずっと熱いものが触れていることに気がついた。思わず、息をのむ。 「ごめん、…少し早いけれど……」 指先が襞に分け入り、上擦ったイヴァンの声が耳をなぶる。 イヴァンの固くそそり立つものは、その熱を感じるだけで怖くて、無理だとは思ったけれど、僕ももう、我慢が限界だった。僕は、いつのまにか強ばらせていた体から、力を抜く。 内壁がイヴァンの指に絡みつくのが、分かる。恥ずかしさに居たたまれなくなるけれど、もう自分の意志じゃ、どうにも出来なくなっていた。イヴァンは蠕動する内壁を押し広げて、先端を襞の入り口に押し当てる。 「あ、ああっ」 「息を吐いて。和史、…」 押し入ってくる熱とその大きさに、体が震える。痛みと、熱さ。今まで感じたことのない強い圧迫感と、存在感。 「……ぅ、」 強烈な熱。その熱にうかされている間に、体が馴染んでいく。イヴァンはそのタイミングをよく心得ていた。緩やかな動きで、イヴァンは僕に押し入れたものを少し引き出しては、入れる。 「ン、や、あああ…ッ」 身を捩り、首を振って、僕は咄嗟にイヴァンから逃げようとしていた。僕の体を掴まえて、イヴァンの動きが激しくなっていく。 「や、ああ…っ、ああ!」 涙が頬を伝う。もう、声を我慢してなんか、いられなかった。僕はソファに縋り、促されてイヴァンと口付け、より一層深まる接合に体を震わせて快楽を受ける。 幾度達し、幾度熱を受けたか分からない。僕はやがて意識を失わせたまま眠りについてしまったらしかった。 やわらかな枕の感触と、心地いいシーツの肌触り。軽く重ね合わされたキスで目覚めた僕は、朝陽に照らされたベッドの上で、恥ずかしさに小さく笑んだ。 「もっと一緒にいたかったけれど、仕方ないね」 「すみません、思い立ったらと思って」 2人で用意した朝食の席で、僕は小さく笑む。スライスしたフランスパンにジャムを塗りながら、僕は少し申し訳なく思ったのだけれど、イヴァンが不快そうな顔をしていないのにホッとする。したいことがあれば、何なりと、と申し出てくれたイヴァンに、僕は予定が出来た、と、その誘いを断ったところだった。イヴァンはそれに小さく苦笑して、仕方ないねと、さっきのセリフを言ってくれる。朝起きてからの僕に、何か察するところがあったのかもしれない。 「日本へ、行くことにしたんです」 「日本へ…?」 僕は頷いて、朝食を食べた後の予定を、日本行きに決めた理由を話す。体はちょっとだるいけれど、気分は爽快で、僕の口は軽い。 「すごく印象的な人が、いると言ったと思うんですけど…」 イヴァンは僕を見やって、優しげに目を細め頷く。続きを促すように笑まれて、僕は勇気付けられる。 「弓をひく姿がとても印象的で、きれいで。…今朝起きたとき、ふと、思ったんです。彼のこと、好きだったんだって」 「初恋、だね」 イヴァンは微笑み、手にしたフォークでくるっと円を描いてみせる。 「いつも健康すぎて、風邪を引いてもなかなかそれと気付かない人がいるように、和史は恋をしたことに気付きにくいタイプだったんだ」 「……、ええ、たぶん」 僕は嬉しさに口元を緩めたまま、スープを口をつける。恋をしていたこと、それに気付けたことが、僕は嬉しかった。 ずっと僕は寂しかった。恋をしない僕に、欠けているものを感じていた。けれど、もう、そんな寂しさはない。 「埋めて、貰いました。イヴァンに。愛されて恋を知ったん、です」 自分で言ったことに、僕は顔を赤らめる。セリフの恥ずかしさと、昨日のことを、思い出してしまって。それに気付いてだろう。イヴァンはからかうような視線を僕に向けると、僕に流し目を向けた。僕はその色っぽさにどきりとしてたじろぎ、イヴァンの笑い声を誘った。 「恋を知れて良かった良かった。じゃあ、日本にはその彼に会いに?」 「はい。…せめて、嫌いじゃなかったって、言ってあげようと思って。僕は、彼に誘われたとき、拒んだから」 僕のセリフに合わせるように、呼び鈴が鳴る。朝食の前に僕がかけた電話で、人が来たんだろう。イヴァンが席を立ち、玄関に行くのに僕も続く。 扉を開けると、遠い門の前に止まった車と、その傍に立つ男たちの姿が見える。イヴァンはやや仰々しい迎えと、鮮やかな仕種で一礼した金髪の男に驚いたようだけど、あまり表情には出さなかった。 「リファール様ですね。朝早くに申し訳ありません。和史様をお迎えに上がりました」 「アルヴィン。パスポートを持ってくるだけで良かったのに」 「そうは参りません。日本まで付いて参ります」 頑として言い張るアルヴィンに僕は苦笑して、肩を竦める。アルヴィンは僕が小さい頃から面倒を見てくれている人で、僕に過保護なところがある。僕より一回り年上なので、僕もあまり強く歯向かえなかった。 慌しくなるけど、仕方ない。外で彼等を待たせておくわけにはいかないし、中に招き入れてもらうのも、何となく僕が嫌だ。…情事の名残を悟られそうで。 僕は気分を素早く切り替えて、イヴァンに向き直った。 「ごめんなさい。このまま行きます」 「……そう。また来てくれるかい」 僕は頷いて、頬にキスを受け、キスを返す。 引き際を良く心得ているらしいイヴァンは、無駄な問いをしない。 出来ることなら、ちゃんとしたキスで別れたかったけれど、観衆付きでは、そんなことは出来なかった。僕の羞恥心が勝ってしまう。車のドアを開けるために先に行くアルヴィンを追おうとした僕は、さりげに腕をとられて立ち止まる。 「イヴァン…?」 振り向きざまに口付けられて、イヴァンが笑んだ。 「フルネームを教えてくれる?」 「……、和史」 僕は少し考えてから、久しく紡いだことのない名前を加えた。 社長秘書では全然そぐわない名前だから、あまり好きではないのだけれど。 「和史・ユークリッド・ルグリ」 本名から言えば、これが僕の名だった。色々面倒だからあまりこう名乗ったことはない。 「いつもは、真野和史と言ってます。本名は厄介なので」 僕は微笑む。イヴァンは僕の名に何かを気付いたらしかったが口にはせず、また後で、と、別れの挨拶を囁いた。 「昨日はありがとう。素敵な時間でした」 「わたしもだよ」 アルヴィンが僕の名を呼ぶ。僕はイヴァンから離れて、門に向かう。 冷んやりとした朝の空気と、かすかに残る霧の残滓が、肌の上を過ぎていく。 日本に行って彼と会うその時を想像するのは、覚えたばかりの恋するようで、どきどきして楽しい。見送ってくれているイヴァンに手を振って、僕は車に乗り込む。出会ってすぐに体を重ねた相手だけれど、不思議と旧知の仲のような気がして、僕はイヴァンに親しみを覚えていた。 車は、緩やかに発進していく。 もう僕は、恋をしない寂しさを抱えて、あの古めかしいジャズの流れる店には行かないだろう。けれども、もしかして胸の高鳴りと共にまた、あの店を訪れるのかもしれなかった。ほんの一時で恋に落ちたことを話したい。僕は僕の中にそれがあるのが分かる。気付くことが出来たばかりの初恋のように、僕は彼のことが、好きになっていた。 |