「恋人」



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 杏型の瞳が僕を見つめる。光沢のある美しい栗毛に、引き締まった体。僕はうっとりとその場に佇んでいた。
「本当にその馬が好きだね、和史は」
「イヴァン」
 後から歩いてきた銀髪の男を振り返り、僕は蕩けるように甘い笑みをうかべた。今までで充分心地よかった気分が、更にぽわんぽわんと上がり調子になっていく。
 彼は、僕の好きな人。
 彼が傍に居るだけで、僕は何だか嬉しいのだった。
 そんな僕の前で、イヴァンは薄い灰色の目を細め、僕の傍にいる馬の腹を前から後ろへと大きく撫でた。
「わたし1人の時は傍にも寄れなかったのに、一目で意気投合してしまうとは。馬が好きなだけある、という感じなのかな」
「ベスがこんなに気を許しているのを見るのは、何年ぶりでしょう。お連れ様はかなり気に入られたようですね」
 馬の世話をしている男が微笑ましげに言い、イヴァンが肩を竦める。僕がベスと相思相愛の眼差しを交わし合っているのはともかくも、僕が来るまで、それはこっぴどくベスに追い払われていたのがほんの少し、いただけないらしい。
 ベスは美しい馬だ。常連客のイヴァンも、1度は乗ってみたいと思う馬だったのだと思う。けれども気性が荒くて叶わずにいたのを、初めて来た僕があっさり乗ってしまったので、溜め息の1つも吐きたくなっているのは、僕にも良く分かることだった。ベスは本当に、素晴らしい馬だから。
 僕は苦笑しながら、こっそりイヴァンのその上品な英国英語に聞き惚れる。はじめ爵位を持っていても不思議はないと思ったぐらいのイヴァンは、とても凜とした言葉を話すのだ。僕はそのイヴァンの声が好きで、聞いても聞いても、ちっとも飽きない。
 出会って、数ヶ月。
 日本から戻った僕は、イヴァンとふたり、休暇を楽しんでいた。





 乗馬に。釣り。
 自家用の船の上で早めの夕食。
 その後は、イヴァンの屋敷へ。
 あまり大っぴらに人前や街中には出たくない、という僕の希望に応じての、デートコース。
 何度も来ているせいか、自分の家、といった気分でイヴァンの屋敷に来た僕は、暖炉の前のソファに、だらんと寝転んだ。1人がけだったソファは、いつのまにか3人用の広いものに変わって、僕1人くらいなら楽に寝転べる。僕は天井を見上げながら、朝から赴いた馬場のことを思い出して、上機嫌に口を開いた。
「またベスに会いたいな。あんなに綺麗な馬、初めて見た。走りもすごく良くて」
「馬は、小さな頃から?」
「うん。赤ん坊の頃からねだって乗っていたとか言われてる。…さすがにそれは冗談だとは思うけど、昔から好きだよ」
 母は日本人だけれど、父はイギリスの人間で、僕はふたつの国を行ったり来たりして育った。実際のところ、日本人的な見た目に反して、僕は父の国にいる方がずっと長いのだけれど。ただここ数年余りずっと、日本にいた。最初はほんの気紛れ…そのままずっと居続けてもいいと思っていたし、帰って良いとも思っていた。就職してみて、赴任という形で渡英することに時も、それならそれでいいと軽い感じだったように思う。
 ソファの背もたれに腕を置き、上から覗くようにして僕を見下ろしたイヴァンは、へえ、と相槌を返しながら僕の髪に手を伸ばして小さく摘んだ。その手触りを楽しむように、指先で梳いたり、撫ぜたりする。母の血を濃く引いた僕の黒髪が、イヴァンは気に入っているみたいだった。
 僕はどこにいても同じと思っていた。僕は変わらない。何も違わない。日本に戻ったことも、渡英することを決めたのも、些細な思いつきだった。でも、ここへ来て、イヴァンに会うことが出来た。こんな幸せなことはないと今は感じている。
「そうだね。また一緒に会いに行こう。なかなか休みが合わないのが残念だけれど」
「夏の、休みは?」
「もぎ取るから、大丈夫。そうだね、夏は…外国に行くのはどう?…例えば、日本とか」
 すごく暑いよ、と僕が笑うと、イヴァンはなぜだか何かを思うように黙り、怪訝がる僕を見て、そっと僕の耳元に口を近づけた。
 その時、僕は深くイヴァンを突き詰めて、何を考えていたのか聞き出すべきだったのだろうけれど、僕はイヴァンといることに浮かれていて、そこまで気が回らなかった。それを後悔するのはずっと先のこと。耳元でそっと紡がれたイヴァンの囁きに、僕は怪訝に思ったことなんて、忘れてしまっていたのだから。
 イヴァンは僕の耳に唇を寄せ、甘く耳朶を噛む。こそばゆさに抗う僕の逃げ場を塞ぎながら、かすかな笑い声をたてた。
「浴衣とか、脱がせてみたいんだけどね」
「イ、ヴァン…!」
 それだけで背筋が痺れてくるような、低い色気のある声。思わず顔を真っ赤にさせた僕に、イヴァンが満面の笑みをうかべて、ソファと僕の体との間に手を差し込んだ。え、と思う間もなく抱え上げられる。
「まずは、シャツから、ということに」
 恥ずかしさに動揺した僕を、イヴァンはさっさと寝室に連れ込んでしまって、翌朝僕は、かなりバタバタを出社する羽目になってしまったのだった。思う存分お楽しみなイヴァンもイヴァンだけれども、そうなることを拒まなかったのは僕だから、どっちもどっちに違いない。



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