「恋人」



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 最新の設備と、斬新なデザイン。某有名企業、某社屋、最上階。ガラス張りの壁を背後に、その部屋の主たる金髪の男が、そのいかにもやり手めいた顔を思いきり破顔させる。
 僕は焼き立てのスコーンを目の前に、その男の眼差しを余所を向いたまま受けた。彼が取り寄せた自慢の焼き菓子は、ふんわり良く焼けて、優しい匂いを漂わせている。…ビジネスの気配が濃い、この社長室にはものすごく合わない代物。でも、当の社長はそんなこと、まるで気にしていないようだった。
「ユーク。ラズベリーとか、サワークリームとか。アプリコットとか」
「……アプリコット」
 手にしたスコーンを半分に割り、僕は差し出されるジャムを塗り付ける。ソースの類はたっぷり塗るのがお好みな僕は、思うたけ塗りたくる。それがおかしいのか、楽しいのか、小さく男に笑われた僕は、ほんの少しむくれた。
 微笑ましそうな男の声に、自分の行動を子どもっぽいと笑われた気がして、恥ずかしさが込み上げる。そんな羞恥を感じたのが腹立たしくて、僕は半ばむきになりながらジャムを塗りまくった。
 けれども、さすがに塗りたくりすぎたらしい。口に運ぶとジャムが顔に付く有り様に、僕は辟易した。はっきりいって、ものすごく食べ辛い。
「スプーンで掬えばいい」
「…………」
「いるのはこの兄だけなんだ、意地を張ってどうする」
 苦笑されて、僕はしぶしぶ差し出されるスプーンを受け取った。塗りすぎたジャム掬って食べる。甘党な僕は、もうそれだけで思わずにこっ、としてしまった。おいしいんだなあ、このジャム。
 目の前の男は僕の兄だった。若い、というには年を食っているけれど、歴史ある大会社の社長としては異例に若いのだろう兄は、誤って僕の頬に付いたジャムを指ですっと拭うと、当たり前のようにそれをぺろりと舐めてしまう。さりげに濡れタオルまで持ち出して頬を拭くのも忘れない。そのまま満足そうな足取りで僕の真向かいの位置にあるソファへと腰を下ろした。
 いかにもエリート然とした顔立ちにかかわらず、所帯じみた感のある兄は、僕がその席へと放り出していた上着とネクタイを丁寧に畳んで傍らに置く。
 ここの社員たちが見れば驚くに違いないそんな姿は、僕にしてみればごく自然な姿だった。兄はもうずっと昔から、それこそ僕が物心付いた時には、こんな感じ、なのである。
 世話焼きで、僕に甘くて、若年寄みたいな…さすがにちょっとそれは言い過ぎかもしれないけど、でもそれが、この兄だった。
「ユークと会社でお茶が出来るなんて、夢みたいだ」
 夢見心地な顔で兄が言う。
 僕は呆れた。
「…、良く言うよ。顔を出さなきゃ、SPを向かわせるって脅したくせに」
 今日の僕は、いつものように仕事をしているはずだった。それを、大事な用があるからと急な電話で寄びだされて(いざ来てみれば、ただ別荘の壁紙の色をホワイトにしようかベージュにしようか、というだけだった)渋々、ここに来ることになってしまったのだ。下手に拒めば、本当に迎えを寄越しかねなかったので、僕は逆らえなかった。
 むくれる僕に、兄はそんなことを一向に気に留めるふうもなく、まるで大好物を前にした小さな子どもみたいに浮かれた顔で、にこにこ僕を見やった。
「ユークはちっとも来てくれないからなあ」
 だからって、会社にSPを寄越す、と言ったり、ど派手な高級車で迎えに行って、わたしの大切な弟を、とか呼び出すぞ、と言うのは、どうだろう。立派な脅しではないだろうか。
 僕は、ルグリ一族の人間ではないと振舞っているのに。
 不満を顔いっぱいにうかべながら、僕は兄を睨みつけた。
「そうひょいひょいと会いに来れるわけがないよ。兄さんは大会社の社長で、僕は一介の平社員。誰かに一緒にいるところを見られたら、大事なんだから」
「ばれてしまえばいい。今のユークはユークではない」
「兄さん」
 むっとして眉をひそめる僕に、兄は大きく溜め息を吐いた。僕の目を兄のきつい眼差しが射る。
「ユークはこの私の弟で、ルグリの子なんだ。ユークはその立場を忘れているのではないか?」
「……それは、…」
 にこやかな顔を一変させて苛立たしげな様子をみせる兄ジョセフを、僕は戸惑いがちに見上げた。機嫌の良いときはただの過保護な兄でも、決して怒らないわけじゃない。そして、怒れば、容赦なかった。大企業を背負う社長としての威厳、というものがあるのなら、これをいうのかもしれない。はっきりいって、僕などが太刀打ちできる相手ではなかった。
 それでも、どうにか食い下がろうと口を開きかけた僕は、目の前に小さな×マークを指で作られ、わざとらしく疲れた顔をうかべた兄…ジョセフに首を振られた。
「ノ。悪いが兄さんには言い訳を聞く耳はない。そもそもユークは少し前までは、家に戻ってもいいと言っていたのに、急に態度を変えて。皆困惑してるんだ。…さあ、スコーンが冷める。紅茶は入れ替えてあげるから、ちょっと待ってなさい」
「…………」
 僕は何も言い返せなくて、ただ押し黙る。ジョセフの言ったことは他の家族からも言われていることだったけれど、こうして目の前で咎められると、威力が増した。胸に重たい鉛を投げつけられたような、そんな感じがしてしまう。
 兄が苛立つ理由が、僕も分からないわけじゃなかった。確かに僕は、いるべきでないところにいる、と言われても仕方ない部分がある。僕はそもそも、ルグリ家としての一面を担うことを期待されてきたし、今まではいつかそうなることを受け入れてきた。どうでもよかった、とも言える。でも最近になって急に、家に戻らない、と強固な態度を見せて、家中から反感や不安を買ったりしているのだ。
 兄や僕がその中に名を連ねるルグリ家は、世界でその名を知らない者はいないほどの、大きな一族。気ままと言えば聞こえはいいけど、身の安全もきちんと取れないような僕の行動に、一族から心配の声があがるのは当然のことだった。
 席を外し、自ら慣れた手つきで新しく紅茶を煎れ始めるジョセフの姿を、僕は沈んだ顔で追う。ジョセフは僕の腹違いの兄で、一族系列のこの会社を早くから継ぐべくして継いだ人だった。
 軽やかな金色の髪に青い目。黒髪黒目で、東洋系の顔立ちをした僕とは明らかに違う兄の容姿。父は恋多き人で、僕には何人もの母と、たくさんの兄姉たちがいる。ジョセフのように僕にとって母が違う兄というのは、別に特別なことじゃなかった。恋多き父への溜め息は日常茶飯事でも、家族の中での泥沼な諍いなんてものはない。不思議と均衡を保った家族がルグリ家だった。
 ジョセフはそんな家族の中でもいっとう、僕に甘く、僕もいっとう、好きに思っている兄。だから、そのジョセフに責められることは、かなり辛い、ことだった。
「みんな、ユークを心配している。家から出すべきじゃなかったというのもいるぐらいだ」
「……名前を隠して家を出ているのは、何も僕だけではないし、放浪しっぱなしで…全然、連絡がとれない兄弟だって…」
「あのばかのことを言っているなら、ユークと比べものにならない」
 ルグリの家は家族が多いので、時々、家族会議なんかで頭数が足りず、誰がいないのだろうと首を傾げてしまうこともある。僕が持ち出したのは、忘れる筆頭になりがちなジョセフの実弟のことだった。あれのことなんか言うな、と今にも怒り出しそうなジョセフに苦笑しながら、僕は小さく目を伏せる。
 やたら家族が多い中でも、なぜか僕は家族全員の目が向く存在で、…末っ子である僕がルグリにとってのかすがいなのだと皆は言うけれど…僕はいつも一族から離れることを是とされなかった。素性を隠して働くことも、大反対の上でのことだった。
 それでも、今僕が好き勝手にひとりで暮らしているのは、家族が僕に甘いのと、いずれは戻ってくると思っているから。現に、僕は家族の願い通り、いつかは家に戻ろうと思ってきた。それが僕にとって自然なことだと分かっているから。
 けれども今は、今は。僕はただの和史としてイヴァンと一緒にいたかった。ルグリの人間としての、ごたごた厄介なものを抱えるユークリッドなどでなく、ただの僕として。
 …イヴァンは、新鋭の実業家で。だから、やたら大きいルグリの名は、イヴァンの仕事の妨げになるのは間違いないだろう。イヴァンは僕の本名を聞いたときも平然としたものだったし、今もまるで気にしたふうがないけれども、僕はイヴァンの側にいればいるほど…ルグリの人間である僕を気にしないではいられなかった。
 ……今までは、家の名のことは、結構割りきってこれていた僕だ。でも、イヴァンを好きになって、一緒にいたいと思うようになって…僕は、ルグリの人間じゃなければとさえ、思うことがある。そんなこと、家の人間には決して言えないことだけれど…。
「ユーク、そんな顔をしないでくれ…。ひどく苦しそうな顔だ…。…きついことを言うこの兄のことなど、ユークは嫌いになっただろう…が、…どうか、明るい顔をしてほしい…」
 悲壮なジョセフの声に、僕は顔を上げた。ジョセフは今にも倒れそうなほど蒼白な顔で僕を見ていて、僕は慌てた。
「ジョセフのこと嫌いになんかならないよ。僕のこと、兄さんは心配してくれてるんだって、分かってる。すごく、有難く思ってる。何があったって、ジョセフへの好きは変わらない」
「最高に可愛くて、最上に愛らしい、私のいとしいユークリッド、兄さん惚れ直してしまった」
 ……その盲目っぷりがなければ、良いのだけれどと内心苦笑しながらも、僕はいれたての紅茶をテーブルに運び、そのままべったり抱きついてくる兄をそのままにした。
 僕がイヴァンを好きなように。兄さんが好きなように。ジョセフが僕のことを好きに思ってくれるのは、とても嬉しい。
 家のことは、イヴァンとのことは、今は目の前のことだけ見させてもらおう、と僕は思った。それが本当に一時のことになるとは、思いもよらないまま。



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