「恋人」



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 ガラス張りの箱が、吹き抜けになった社屋の中を滑るように降りていく。
 ジョセフといた部屋を後にした僕は、良く外の見える、透明なガラスに包まれたエレベータを使って、地上へと向かっていた。社内用の殺風景なものとも、社長室専用の、やたらセキュリティが厳しいものとも違い、このエレベータは開放的な感じで、僕は好きだった。だから、ジョセフと会った帰りは、いつもこれに乗っている。それにこのエレベータは、いかにも装飾用的な見た目や、一基しかないという不便さからか、あまり人が乗ってこないというのも都合が良かった。直通のエレベータなどに乗って、そこから降りたところを人に見られるのはマズイし、社内用に乗るのも何だか気が引けるから、僕にはこれが1番なのである。
 エレベータからは、オフィスの中を行き交うたくさんの人たちが見える。活気に溢れたたくさんの表情は、どれだけ見ようとも何度見ようとも、飽きない。僕はエレベータから見える景色を、ぼんやりと眺めていた。
「今日はこれからお仕事の方に?」
「うんん、休みにしたから、…人と会う予定」
 ふと話しかけられて、僕はすぐ隣を振り向いた。
 傍らにいるのは、アルヴィン。家付きの、僕担当執事である。
 良く引き締まった痩身に、鮮やかな金色の髪で、老年では決してなく、壮年とも言い切れないような、どこか年齢不詳であるアルヴィンは、その生真面目そうな顔を僕に向け、僕の言葉に小さく頷いた。
 あの冬の日、イヴァンの屋敷から日本へ行くために旅券の手配を任せ、自らやってきたアルヴィンは、僕のお目付役兼子守だった。主にルグリ家の末っ子たちの面倒を任されていて、僕と親しい。僕を1人で帰すことを危ぶんだジョセフは、保護者役としてこのアルヴィンを呼んだのだった。もう小さな子どもではないのに、とは思ったけれど、来てくれたアルヴィンを追い帰しては申し訳ないので、一緒にいた。途中で帰すと兄さんの雷が彼に落ちてしまう。
 アルヴィンの問いに答えた僕は、ちょっと嬉しくなって、顔いっぱいの笑顔をうかべてしまう。今日は午後から、イヴァンと外で会う約束をしているのだ。
 もともと今日、イヴァンが休みなのは知っていたから、ジョセフの電話の後、折り返しイヴァンに連絡をして、食事をしよう、ということになったのだ。
 アルヴィンは僕の満面の笑みを受け、多少面食らったような顔を見せたけれど、すぐにそうですか、といつも通りの真面目な顔をうかべた。
「この時間ですから、昼食はその方と?」
「うん」
「もしお食事の場所など決まっておいででないのでしたら、手配致しますが」
「大丈夫。気にしないで」
 食事をするといっても、一緒に外で食材を買い、イヴァンの家で食べるのだ。僕はそのあまりの楽しみさに、笑むことを抑えられない。
 イヴァンは料理が作るのが上手で、僕はイヴァンの手料理が何よりも好きだし、調理場に立つイヴァンを見るのも好きだった。野菜を刻んだり、盛り付けたりする器用な指先の動きは、まるで手品を見ているようで楽しい。
 多少の料理は出来る僕だけれど、あんまり味付けが上手でないので、イヴァンが作る美味しい食事を味わえるのは嬉しかった。
「ああ、…例の方とお会いになるのですね」
「み、皆には内緒だよ」
 薄々僕とイヴァンとの関係を気付いているらしいアルヴィンの呟きに、僕は慌てて釘を差す。唯一イヴァンとの面識があり、頻繁にイヴァンと会っていることを知っているアルヴィンは、気付かずにはいられないような状態なのだ。アルヴィンの口の固さを疑うわけではないけれど、万が一ということもある。そしてもし知られたら…さっき会ったジョセフなどは特に、大問題にしてくれるに違いない。
 けれども僕のそれは、失言だった。
「…和史様にそのようなことを言われるのは、心外です」
 いつも殆ど変わらない無表情の中で、ほんの僅かに眉が寄せられる。その小さな動きに、僕は僕の失敗と、アルヴィンの落胆と憤りを見せつけられたようで、慌てた。僕は、アルヴィンの子守役としての誇りを傷つけてしまったらしい。
「ご、ごめんなさい。僕、まだ、ほら、色々と不安で…まだ、僕は」
 少しの間しか、イヴァンと一緒にいないから。
 アルヴィンに気付かれてしまうのは仕様のないことにしても、出来るだけ誰にも知られたくなかった。知られれば知られただけ、波風が立つだろうから。僕は、イヴァンとの2人きりの世界を維持したい。だからって、アルヴィンを傷つけてしまうのは本意じゃないし、僕は彼をとっても信用してる。僕の言葉が不味くて誤解されるのは、あからさまに僕の落ち度だ。
 だから懸命に弁明を続けようとした僕は、アルヴィンの肩越しから、ふと目の端を過ったものを見て、出かけていた言葉をごくりと飲み込んでしまった。思わず、声が止まる。僕は、社屋に差し込む昼の陽射しの中に、見覚えのある影を見てしまっていた。
 銀の光。美しい銀色の髪。…銀髪の人なんて、他にもたくさんいたのに、どうしてそうと思ったのかは分からないけれど。
 一瞬、胸に充ちた嬉しさが、僕に彼だと思わせたのかもしれない。…見慣れた横顔。すっきりとした背。一階のホールを横切っていくイヴァンが、僕の目の中に飛び込んでくる。僕はぱあっと破顔しかけ、そしてそのすぐ後に、顔が強ばるのを僕は止められなかった。
 イヴァンの隣。
 その長身の背に並ぶようにして歩く、人の影があった。
 華やかな雰囲気の、赤毛の男。知らない、人。
 遠目であるために、はっきりとした顔は分からない。ただ、決して醜い男ではないことは何となく分かる。でも相手の美醜が分かったからといって、僕の受けた衝撃はかわらない。
 僕の目を釘づけにさせたのは、赤毛の男がイヴァンの傍で、必要以上にイヴァンに触れていることだった。そしてそれを、イヴァンが嫌がってないということ。
 ずきりと、胸が痛んだ。未だ感じたことのないような、良く分からないものが僕の中に充ちようとする。
 もう少し僕が恋に慣れていたら。
 もしかして、今日もイヴァンは仕事と聞いていたら。そうとは思わなかったかも知れない。それは嫉妬だよ、と思えたかもしれない。
 けれども僕は、僕の中に濁り水のように広がる心地の悪い何かを知ることはなく、彼を仕事の知り合いと割り切ることも、込み上げるもやもやした感情に思い切ることもできなかった。
 僕は、だから、当たり前のように、ある1つの思いつきの中に捕われてしまったのだった。
 ……イヴァンは、格好がいい。
 惚れた欲目を差し引いても、それは事実だろう。
 見目が良く、充分な資金力もあり、お洒落なイヴァン。そんなイヴァンがもてないはずはないし、あのごく普通なバーで僕に声をかけてきたぐらいなのだから、たくさん、そういう付き合いもしてきただろう。ちゃんと聞いたことはないけれど、でも、それは感じられる。何もかも不馴れな僕を、イヴァンは巧みに導いてくれるから。
 だから。だから例えば、彼がかつて、イヴァンと恋人だったとしても、もしかすれば、今も、そうだったとしても…不思議はなかった。
 僕は、それを疑えない。そんなことあるわけがとは、思えなかった。
 思えば僕は、1度だって、イヴァンに恋人だって言ってもらったこともなければ、僕はそれを口にしたことも、ないのである。今までそんなこと、考えもしなかったけれど…始まりは、一夜のアバンチュールのはずだったのだから、僕が恋人という確証もなかった。
 その事実に、僕は愕然とする。
 イヴァンが僕を想ってくれているのは分かってきたけれど、僕がイヴァンを好きなことも伝わっていたと思うけれど、だからって、恋人というわけじゃ、ないのかも、しれなかった。
「和史様…?」
 気遣うような声に僕はハッと我に返り、アルヴィンの固い顔を見上げた。
「どうかなさいましたか?」
「…う、んん。何でも…」
「…………」
 僕は、じわじわと込み上げてくる不安を、どうすれば良いのか分からなかった。うかびそうになる涙をただ一生懸命、抑えこむことしか出来ない。
 イヴァンは好きだし。…好かれていると思う。
 でも、そもそも、ずっとそうだなんて、言えない。
 いずれ僕は負担になる可能性さえあることに、僕は気付く。僕の名の重さに、イヴァンは迷惑に思ったり、嫌気が差すことも有り得るのだ。
 今すぐにでもイヴァンが僕を嫌うのでは、もしかすればもう…、そんな不安に、僕はかられてしまっていた。



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