「恋人」



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 偶然、イヴァンを見かけたよ。赤毛の人と一緒にいるところ。彼、今一緒に仕事している人?とても親しいの?
 ……そう聞けたら、どんなにいいだろう。でも。
 知っているならちょうどいい、わたしの恋人だよ。とか、言われたら…?
 僕は手にしたカクテルのグラスを回して、中の液体をぐるぐると渦巻かせる。こんなことやめようと思うのに落ちつけない。
 結局僕は、イヴァンとの食事をキャンセルしてしまった。イヴァンは少し訝しげだったけれど、急な仕事が入ったと言う僕の台詞を、すんなり信じてくれたようだった。
 でも、それ以来、イヴァンは忙しいらしくて、僕はろくに会えないでいる。だから余計に、僕はおかしなことばかり考えてしまっていた。
 ただ忙しいだけなはずなのに、避けられているのではと…。僕に嫌気が差して、会う気がなくなったのかもしれないと…。
 この前も、旅行の話をしようとしたら、やっぱり日本行きはやめよう、とか、不意に言い出され、その理由を聞こうとしたら、微妙にはぐらかされてしまったのだ。僕はますます不安になる。悪いことばかりを、考えないではいられない。
 ため息を吐いて、僕はまだ少ししか飲んでいないグラスをテーブルの上に置いた。今お酒を飲んだら、悪酔いしてしまう。
「どうかなさいましたか?」
「何でも無いよ、…でも、もう帰りたいかな…みたいな…」
 壁際からすかさず歩み寄ってきたアルヴィンに、僕は目で懇願する。今、僕は一族が持つ財団関連のパーティに引っ張り出されていた。出るはずだった親族の1人が急に駄目になって、半ばむりやり、出席させられることになったのである。
 落ち込み気味なのを慮り、気を紛らわせてくれようとしてパーティに連れ出してくれたらしいアルヴィンの気遣いは嬉しいけれど、僕としては有難迷惑なことだった。今日こそはイヴァンとゆっくり話そうと思っていた休日なのに、これでは丸潰れ。イヴァンも僕も休み、という貴重な日だったのに。
 僕の願いに、アルヴィンは無情な仕種で、首を横に振った。
「なりません。和史様がお帰りになられてどうなさいます。そもそもそんなふうに人を避けるようにいらっしゃっては、後々お笑われますよ。ルグリのご子息らしからないと」
「…………」
 ルグリ関連のパーティで唯一ルグリの人間であり、直系である僕が、率先して社交の中にいなくてはいけないのは、分かるけれど、でも、僕は、御世辞やお追従に付き合う気分じゃなかった。
 そもそもこのパーティは僕が出なくても良いはずのもの。たとえ急場凌ぎに引っ張り出されたとしても、開式の挨拶さえ済ませてしまえば、お役ごめんになっても良いはずだった。なのに僕が引き留められるのは、僕を励まそうという、アルヴィンの思惑があるから。
 アルヴィンには悪いけれど、もう仮病でも使って、むりやり帰ってしまいたい。そんなことを思っていると、不意に肩をぽんと叩かれて僕は振り向かされた。朗らかな声が頭の上から降りてくる。
「ユークリッド!珍しいな、お前が外に出てくるなんてさ」
「…フィルディナン?」
 僕は現れた男の名を、かすかな驚きを込めて呼んだ。
 最近よく見る若手デザイナーの服を華やかに、それでいて品良く着こなした相手は、僕の顔を覗き込むようにして小さく笑う。それは僕が英国の高校に編入した頃からの友人、資産家の放蕩息子フェルディナンだった。
 僕の目をまんまるにするような眼差しに、フェルディナンは声を立てて笑う。
「ったく、ユークが来ているなら、遅刻なんてするんじゃなかった。たまには家孝行しろって、まわりが煩くてさ、嫌々来たんだよこれが」
 茶目っ気な目をうかべ、頭を掻く。その姿を見上げて、僕は小さく苦笑した。彼と会うのは何年ぶりかだけど、ちっとも変わってないらしい。記憶とかわらない旧友の姿に、僕は少し嬉しくなった。どんなときでもこういうのは、いやたぶん、落ち込んでいる今だから尚、友人の登場に心が休まる。それを察してか、やや離れた場所に移ったアルヴィンも少し安心したような顔で、僕はほっとした。心配をかけたままなのは、心苦しかったから。僕は旧友の顔を見つめ、破顔した。
「だろうね。フェルディナンは一人っ子なのに、家、空けすぎだから。みんなやきもきもするよ」
「ははは。それにしても、いいねえ、そそる」
 ほんとうに、何も変わってないらしい。あやしくなりだした風向きに、僕は軽く頭を抱えた。にやついた顔が見ているのは、僕の首筋である。
 それを咎める前に、襟首から指を入れられ、首筋を撫でられて、僕はぞわっ、とそそけだった。きつく相手を睨み付ける。相変わらず、この男は。と、思いはしたものの、僕はパーティの会場という公的な場を慮り、なるべくやんわりとした手つきで、その手を除けた。
 堅い黒髪をこざっぱりといった様子で切り揃えたこの旧友とは僕も随分、色んなことをしでかしたけれど、その頃からセクハラが好きな問題男なのだった。
「つれないなあ。いつものことながら」
「そのエロ手、ブラックリストに載ってるんじゃないの」
「レッドデータブックの間違いだろう。大切に保護されているんだから。…そう、ユークみたいに固い蕾もパラダイスへ連れて行けるぐらいに」
 耳元に口を近づけての囁きに、思わず学生の頃のように足が出かける。
 懲りないと言うか。
 学習能力がないと言うのか。
 僕はそういうのは大嫌いだ、というのを、よっぽど教え直してもらいたいらしい。
 けれども、僕はそれを教えなおすことは出来なかった。フェルディナンも、途中で止めざるを得なくなる。
 勢い良く片足をあげた僕は、そのまま唖然とフェルディナンを見上げ、フェルディナンも、何が起こったのか分からないよう間の抜けた顔をして僕を見返した。
「失礼。つまずいてしまった。サー、お怪我は」
「…いや、怪我は。ユーク、水は滴ると良い男になれるらしいが、酒ではどうだい?」
 ぽたんぽたんと雫の落ちる髪をざっと掻き上げてみせながら、フェルディナンが格好を付ける。僕は苦笑した。
「ばかいって。アルヴィン。フェルディナンを」
 どうしようもないセクハラ好きの助平だけど、グラスの中身を頭からかけられて平然とおどけてみせる余裕さは凄いというか、何と言うか。僕は呆れながらも感心して、遠目で良く状況が分かっていない他の客たちが騒ぐ前にと、フェルディナンをアルヴィンに押しつけた。頭からシャンパンだか白ワインだかを被ったフェルディナンは、僕の指示に従いながら、濡れ鼠にしてくれた男を振り返った。ちろと片眉をあげてから小さく肩を竦めてみせる。
「退散させていただくよ。…邪魔みたいだから」
「ええ、そうしてください」
 アルヴィンに促され、フェルディナンは悠々とした足取りで会場の外に出ていく。ふざけた性格も変わっていないけれど、度量は広い男なのも、学生の頃から変わってない。僕はそれが少し懐かしくて、小さく笑んだ。ほんと、あのセクハラさえなければ、良い男なんだけどな。
「和史」
 張りのある声で名を呼ばれて、僕は同級生の後ろ姿から視線を外す。穏やかだった心臓の音が一気に跳ね上がるのを感じながら、僕は、傍らの男を見上げた。


 彼は、フォーマルな格好も、すごく良く似合っていた。明るい灰色の生地が、銀色の髪とあいまって、上品な雰囲気を感じさせていて。紳士というのは、彼のことを言うんだろうと思わせる。
 僕は心がけて落ち着いた声を出そうとしたけど、ほんの少し掠れたふうになってしまうのは止められなかった。僕は、ひどく緊張しながら、彼の名を呼んだ。
「……イヴァン」
「今日は、休みだと」
「……イヴァンも、そう言っていた」
 僕はつとめて冷静に、冷静になることを何度も繰り返して、口を開く。
 もし、ここが誰もいない場所だったら、イヴァンの姿に歓喜したかも知れないし、逆に、怒ってみせたかも知れない。
 けれども僕はそのどちらも出来なかった。
 イヴァンの隣には、あの赤毛の男が、立っていたから。



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