イヴァンは不機嫌だった。 眉間にはきつくしわが寄り、刺のある気配が全身から漂っている。たぶん、今のイヴァンには誰も近づきたがらない。僕も、出来ることならこの場から逃げ出したかった。 人目があるところでは落ち着いて話もできないので、取り敢えず会場だったホテルの一室に移ることにした僕の前には、イヴァンと、赤毛の男とが並んで座っていた。 所作の1つ1つからも機嫌の悪さを感じさせるイヴァンとは違い、赤毛の男は堂々としたもので、さっきからずっと、会場の中から持ってきたらしいケーキを摘んでいる。 真向かいのソファに座った僕の視線に気づいたのか、男はにっこりと親しげに微笑んだ。 まるで光の粉でも散っているような、華のある笑み。…魅力的な人だと、否応にでも思わせる人だった。 だからといって。僕までが彼を気に入るわけではないことは、当たり前だと思う。けれど、赤毛の人はまるで僕を好いているみたいな人懐こい顔で、僕に自分の食べているケーキのお皿を差し出した。 「好きでしょ?食べる?」 「……いいです」 イヴァンの新恋人かもしれない相手に、僕はどうすればいいのか分からない。そもそも僕はイヴァンと2人になりなかったのに、そうはならなかったことに困惑していた。 1度会場に戻ってきたアルヴィンは、少し別室で話がしたいと望んだ僕に、この部屋を用意してくれたのだけれど、赤毛の彼も当たり前のように、アルヴィンはこの部屋に案内してしまったのだ。僕の知人たるイヴァンの連れとして、普通の対応なのだろうけれども…。この状況は、とても話がし辛かった。 「彼は」 「彼?」 「黒髪の」 僕の斜め向かい、赤毛の人の隣のソファに腰掛けたイヴァンが口を開く。僕はフェルディナン?と思いがけない存在に首を傾げながら、イヴァンを見つめた。イヴァンが突然、何を言い出したのかが、分からない。 「どういう人だい?」 「…どうって、同級生で」 「ただの?」 「?…そうだけど」 多少、悪友の位置にはあるけれど、ただの同級生には違いない。…ふと、僕は気がついた。これはまるで、僕が責められているみたいだ。フェルディナンとの関係を、いかがわしげな理由で。そんなばかみたいな疑いに、僕は多少ならずともむっとする。 「イヴァンこそ」 「こそ?」 臆面もなく赤毛の人と一緒で、少し、少しぐらいは、言い訳してくれたり、ためらってみせてくれたり、してもいいはずなのに。 僕はもう、どうでもいいってことだろうか。僕がどう思おうとも、どう感じようとも構わないということだろうか。 イヴァンは僕のことを気にかけ過ぎるほど気にかけてくれていた。とても大切にしてくれていて、僕はそれが嬉しかったし、少し照れくさかったりもして、…。 今はもうそれも、なくなってるなんて、信じたくはないけれど、でも、…それが事実なのだとしたら…? 僕の中で全てが壊れていくような予感がする。いくら僕が願おうとも、好きで居続けても、もう駄目なのかもしれない。 体中から、力が抜けていく気がした。 「……もういいよ、もう僕…」 「……、和史…?」 「…厄介だもんね。僕は、イヴァンの迷惑になるに違いないし、それに、全然恋にも慣れてなくて…」 「和史?」 幾筋も涙が頬を伝った。止めようと思って瞼をぎゅっと閉じたのに止まらない。そういえば小さい頃は泣き虫だった。そんなまるで関係ないことが、思い出される。もう当分、悲しくて泣くことなんてなかった気がする。けれどかつては、僕が泣く度に、家族は右往左往したり、慰めに色んなことをしてくれたものだった。 でも、もうそんな時代は遠い。止まらない涙に更に瞼の上に手を乗せて、我慢しようと、こういうのはやめようと。こんなみっともなくて、迷惑をかけるような終わらせ方は嫌だと、涙を我慢しようとした僕に、そっと手が触れた。 顔から手を剥がされて、微笑まれた。 「ばかだね、もう。そんなに泣いちゃ、ジョセフ辺りはショックで寝込むよ?」 意外なことに、微笑んでいるのは赤毛の人だった。ジョセフ、と親しげに呼ばれた兄の名に、僕は首を傾げる。同時に、目の前の相手が憎らしくも思えて、放っておいてと叫ぶ前に、優しく口を開かれた。 「あのね、エセルレッドだよ。おれ」 「…………」 名前なんて聞かされても嬉しくない。 僕は憮然とする。どうして、この人に慰められるような状況にならなくてはいけないんだろうか。慰められたくなんてない。少なくとも、この人には。 小さく苛立つ僕に、イヴァンがおろおろとした顔で席を立った。僕の傍に寄り、足下でひざまずいて僕を見上げる。 イヴァンは僕の手を取り、まるで王女様に告白をするような真剣な目で僕を見つめた。僕はイヴァンのしようとしていることが分からなくて、ただぼんやりとそれを目で追う。 「和史、説明するまでもないと思って、言わないでいたんだよ。でも、それで和史を苦しめてしまったとしたら、本当にどう懺悔しよう」 「ユークはまだまだお子様だ。特に恋に関してはね」 「…………」 イヴァンにとても優しい顔で見つめられて、僕はどきりとする。僕の中に渦を巻いていた不安を根こそぎ奪ってしまうような、とろとろに甘い目だった。やっぱり僕は好きなんだよ、と思うより前に心音が跳ね上がる。 もしかして、…もしかして、彼とは何とも?僕のことは、まだ、好きでいてくれている? その問いを声にする前に、イヴァンは僕に驚くべきことを言った。 「和史。彼は…、エセルレッド・ルグリ。つまり、君のお兄さんだ」 「…………。え、ええっ?」 思わず、僕は素っ頓狂な声をあげていた。 そんなばかなこと、あるわけが…。 「嘘ではないよ」 「……見覚えない」 「名前は?エセル兄さんって、和史は呼んでいたと」 「…………」 確かに、何となく、そんなふうに呼んでいた記憶はあるような気がした。けれども、そう呼んでいた兄は…。 納得できないでいる僕の前で、赤毛の人はポケットから取り出した小さなスプレーを自分の頭に噴きかけた。何をしているのだろうと見つめる先で、髪はみるみるまにショッキングピンクに染まっていく。それを見て、僕はああっ、と声を上げた。 「ピンクの兄さん!」 「はいはい、そうそう。今度会うときは何色でも、ちゃんと見分けてね」 「……ご、ごめん…」 項垂れる僕にエセルは笑って、額にちゅっと口付けてくれた。僕はやっと、思い出していた。エセルは放浪癖があって、僕は数えるぐらいしか会ったことがない兄だ。だから、しょっちゅう忘れてしまってはいる自覚はあったのだけれど、顔を見て分からなかったなんて、申し訳ない。放浪から戻ってくる度に聞かせてくれる話を、小さな僕は楽しみにしていたりしたのだ。 「謝らないで。悪いのはこの不実な兄だから。さあ御邪魔虫は消えるから、後は2人で話をね。イヴァン、ユークを頼むよ」 「はい、すみせません、ありがとうございました」 イヴァンが深々とエセルに頭を下げて、エセルは部屋を出ていく。そういえば、兄とイヴァンはどういう知り合いなのだろう、という疑問がうかんだけれど、聞く必要はないような気がした。 イヴァンが僕を、優しくて熱くて、あたたかな目で見ていたから。もう僕はそれだけで、何もかも良いような気がしていた。 |