「恋人」



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 イヴァンがお湯で絞ったタオルを渡してくれて、僕は少し恥ずかしく思いながら頬の涙を拭った。
 アルヴィンがとってくれた部屋は4部屋もあるスイートで、僕とイヴァンは話をしていた居間からぼんやり外の夜景を見下ろしていた。2人きりになってから気づいたのだけれど、とても景色の良い部屋だった。壁一面の窓から、光の散った世界が見える。僕はイヴァンのすぐ隣の椅子から外を見つめたまま、ぽつりと口を開いた。
「……イヴァン、僕、もう駄目なんだと思ってた。それで、すごく悲しくて…」
「家にいるはずが、和史の知らない人といるんだから、悪いのはこちらだ」
「違う。…ほんとは、イヴァンとエセル兄さんを、前に見たんだ」
 僕は、ジョセフの会社でのことを話した。
 そこで偶然、イヴァンたちを見たこと。その時、僕が思ったこと。いつか僕はイヴァンの負担になる。イヴァンの仕事の邪魔にならないわけがない。僕は、ルグリの人間だから。そういうことも話していく。
 もし今話さなかったら、僕はもう自分からは言い出せない。そんな気がして、僕は続けた。いっときはもうどうでも良く思ったことだけど、落ち着いてみれば、そうはいかなかった。
 たとえ今は、イヴァンにしてみれば何も感じていないことかもしれない。話さなくてもまだ良いことかもしれない。けれど、いつかは向き合わなければいけないことなのだ。それなら僕は、自分から言える今この時に、話したかった。
「今日も、急にこのパーティに出ることになって、…僕は家では、社交の場に出ることが役目なんだ。だから、イヴァンが実業家として成功するためには、僕は」
 半ば恐れ戦きながら客観的な事実を告白しようとする僕に、イヴァンは厳しい目で首を横に振った。更に口を開こうとするのを、僕は固く固辞される。イヴァンを見つめ、僕は、酷く全身が強ばっているのを感じた。
 更に言い続けることで、イヴァンに嫌われたら。拒まれたら。
 でも。僕は、全部ひっくるめた僕で、イヴァンと一緒にいたい。だから、最後まで言わなくちゃ、いけない。
 懸命に何か言葉を紡ごうとする僕の先で、イヴァンはゆっくり、一言一言を確かめるような調子で、口を開いた。
「和史は、わたしを見くびっている。…確かにルグリの名は大きい。本来なら和史は遠い人だろうね。でも、わたしはそんなことで、和史を手放す気なんて更々ないんだよ」
 きつい声音で、でも僕を見る目だけはやわらかく、イヴァンが言う。でも、という僕に、イヴァンは眦を下げた。
「どうして、エセルレッド氏といたと思う?わざわざルグリ系列のパーティへ、和史に黙って来たと思う?」
「…………」
 分からない、と首を振った僕に、イヴァンは優しい目をうかべた。
 緊張して肩に力が入っている僕を和ませるように、そっと口の端を緩めてくれる。僕はイヴァンにほんの少し微笑み返して、聞く覚悟は出来ていることを示す。なぜ、イヴァンは兄さんといて、このパーティに来たのだろう?イヴァンは頷いて、ゆっくりと口を開いた。
「これでも、わたしなりにルグリ対策はしている、ということ。エセル氏はルグリの人間として殆ど顔を知られていないけれど、とても広い情報網を持っている人で、わたしと会う前から、わたしが和史の恋人だと知っていたぐらいだった」
「……旅行の取り止めも、その、対策…から?さすがにパスポートは、名前を誤魔化せないし…」
 僕の台詞に、イヴァンは曖昧に首を振った。そして小さく苦笑する。1つの謎が解けてほっとしかけていた僕は、その顔にふと、不安を抱いた。…そうだ、僕はまだ、イヴァンが僕を避けているのではという疑惑を拭えていない。ここで僕と会って、不機嫌になった理由も、本当のところは分かっていなかった。…ついさっきまで、イヴァンはとても怒っていた。こわいぐらい、機嫌が悪かったのだ。
 それに、何も理由がないはずがない。僕はまだ、そのことを教えられてはいないことに気付いて、焦った。
「フェルディナンは、彼は、ただの友人だよ。セクハラ好きはたまに疵だけれど、悪い奴じゃなくて」
「……あれは、大人げなかった。今度きちんと、謝罪させてもらうよ。…わたしは、ちょっと冷静じゃなかった」
 かすかに自嘲めいた笑みをうかばせるイヴァンに、僕は戸惑う。…フェルディナンをただの友人だと理解はしてくれたみたいなのに、それで全てが終わるわけではないようだった。僕はどんどん不安になっていく。
 何が、何がイヴァンにそんな顔をさせるんだろう。
「イヴァン、どうして。どうしてそんな顔をする。…イヴァンにそんな顔されたら、僕は、僕は…」
 目が潤む。泣きたくなんてないのに、今日は涙腺がおかしい。僕の顔を見て、イヴァンは僕の手にあったタオルを取り、それを涙のうかんだ顔にそっとあててくれた。
「これは、くだらない私情なんだ」
 思いがけず、深い何かを打ち明けるようなイヴァンの口振りに驚いて、目を丸くしながらイヴァンを見やった僕に、イヴァンは力なく肩を竦めてみせた。
 はじめてみる、イヴァンの落ち込んだ姿だった。イヴァンは窓ガラスに映る自分の姿を、皮肉げに見やる。
「くだらないとは思うよ。和史に初恋を気付かせたのは自分だし、今の和史はわたしを想ってくれているのは良く分かっている上で、こんなことを思うなんてね…」
 イヴァンはゆっくりと胸の中の息を押し出していく。その息とともにイヴァンの中から言葉が現われるのを、僕はただじっと待った。
 イヴァンは息を吐き終えると僕をちらと見やり、僕の黒髪をそっと手を伸ばす。優しく髪を弄るイヴァンの指先を感じながら、僕はイヴァンを見つめた。そんな僕から視線を外し、髪から手を離し、イヴァンはどこか疲れきったような顔で、自分の足下を見下ろした。
「日本行きの旅行をやめようと言ったのは、和史の初恋の相手がいる地だから。不機嫌だったのは、誤解してたんだよ。フェルディナン氏との親密な様子と、…黒髪に。てっきり、彼が和史の初恋の人かと思ってね…」
「フェルディナンは初恋の人じゃないよ。違うよ。それに、イヴァン、僕の初恋の人にはもう他に恋人がいるし、写真を見てもらったら分かると思うけれど、誰も僕と彼との間を疑うような感じじゃなくて」
「和史。初恋の相手は、和史の中でずっと特別な位置にいるだろう。わたしがその場所に行けることは決してない。それが、わたしには…嫌なんだよ」
「……イヴァン…」
 僕はまじまじとイヴァンを見つめてしまった。
 そんなことをイヴァンが思っているなんて、僕は気付かなかった。思いもしなかった。
 イヴァンの告白に、僕は驚く。
 確かに、僕にとって初恋の人はずっと、僕の中の特別な位置にあるだろう。何があっても、何が起ころうとも、新しく初恋、という、名を冠した人は現われないし、未来永劫、それは変わらない。そう、思う。
 けれど、けれども。
 僕はイヴァンに飛びついた。首筋に腕を回して、抱きつく。
 初恋の人は永遠にその特別な位置にいるかもしれない。
 そしてイヴァンはその場所には決して来られないに違いない。
 でも。僕に初恋の所在を教えてくれて、僕を甘い気持ちで包んでくれて、とても、とても幸せにしてくれるのは、僕が心底想うのは、ただ1人。
 驚いているイヴァンに、僕は飛び切りの笑顔で、微笑んだ。
「じゃあ、僕の初恋の人と会ったら、イヴァン八つ裂きにしちゃうかもね。仲良いんだから、彼とは」
「和史、わたしは嫉妬深いよ。そんなことを言って、…和史をまた苦しめることになるかもしれない。まるきり、考えなしになってしまうのだからね」
 憂鬱げなイヴァンに、僕は首を横に振る。
 僕が言いたいのは、そういうことじゃない。イヴァン、僕は。僕はね。
「不安だったんだ、イヴァンに嫌われるんじゃないかって、邪魔になるんじゃないかって。だから、僕、嫉妬されるの嬉しい。嫌ってないんだって、分かるから」
「和史…」
 一瞬イヴァンは呆れたような、困惑するような顔をうかべてから、破顔した。僕を膝の上にきちんと乗せ、僕の顔を下から見上げる。
 イヴァンは僕の気持ちを分かってくれたみたいだった。イヴァンの笑みからは憂いが消えて、とても素敵な顔をしている。僕は嬉しくなった。
 …たまの沈んだ顔も、良いけれど、そういう顔がいちばん、好きだよ。イヴァン。
 けれども、イヴァンは少し、僕の予想以上に本領を取り戻してしまったようだった。僕を見つめたその目の端に、ちらと策士の顔がうかぶ。
「そう…じゃあ、さっきの台詞は、わたしの嫉妬を煽るためかな。…そんなことをした報いは、受けてもらわなくては」
「…えっ」
 深く口付けられ、じんと首の後ろが痺れたようになる。舌を絡められて、口蓋を舐められ、ぞくりと地からが抜けた体を、そのまま抱き上げられた。
 イヴァンがすたすたとした足取りで向かうのは、暗く明かりを落としたベッドルーム。僕は、慌てた。
「イヴァン、ぱ、ぱ、パーティが、まだ」
「さあ和史、今夜は、やめては聞いてあげないから、ね」
 にっこりとイヴァンが笑む。顔は笑っていてもまだ嫉妬に燃えていたらしいイヴァンに、僕はその夜、信じられないぐらいたくさんの徴を付けられた。…特に、フェルディナンが触った首筋の辺りなんかは、大変で。


 だけれど…僕は同時に、嬉しかった。
 イヴァンは僕の恋人、僕がイヴァンの恋人。
 ただそれだけの事実が、嬉しくて。
 僕は、とてもとても幸せだった。





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