「月吹く風と紅の王」



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 薄暗闇が残る朝はやく、高々と伸びた壁の切れ目から大小の影が寄り添うように現れ出た。
 裏門近くで待ち構えていた小ぶりの俥が彼らをのみこんで、ゆるりと走り出す。
 この辺りで使われる俥は4つの車輪に屋根や幌があらかじめある箱形のものが多い。俥は中に仕込んだ素石の働きで、ゆっくり歩くのと同じぐらいで走った。街中で使われる俥がたいていそうであるように、こういったものは歩くのが億劫な者や時間を気にせずのんびり行きたい者が使う。
 ぎい、と軋んで俥が狭い道を曲がっていく。この辺りの道は狭く入り組んでいるから、度々そうやって曲がらなければいけない。
 一通りの講釈を受ければ誰でも動かすことができる町俥とはいえ、操り手によってはひどく揺れた。御者台に座るのは城勤めの者が贔屓にしている俥屋の者で、口が堅いことに定評がある。幸いにもさほど揺れもせず、俥はするすると道を進んでいった。
 夜明け前に来て欲しい、などという無茶な頼みにもふたつ返事で請け負ってくれた俥屋には感謝している。
 顔を隠していた布を払い落とし、傍らに控えたツィーツェに乱れた髪や裾周りを直してもらったルシエは、目の前に座る青年に向かって小さく頭を下げた。
「オーファさま、結局、つきあわせてしまうことになって…申し訳ありません」
「お気になさらず、ルシエさま。こういったことには慣れておりますから。それよりも、わたくしのことはどうぞオーファとお呼び下さい」
 品の良い笑みでオーファは気安く応える。
 ルシエは申し訳なさげに眉を寄せ、感謝をこめてもう1度頭を下げた。
 このような突発事態に慣れているというのも苦労が偲ばれる。いつだって彼らの主人は気まぐれなものだが、だからといってそれが許されると思っては困るのだ。小さなため息を吐いて、ルシエは斜め前に座る男をじっとりとにらんだ。
 何事もなかったような顔つきで美しく微笑みかけるエルシェリタに、新しいため息がこぼれそうになる。
「付いてこないと言ってたくせに」
「言いましたか?」
 言った言わないなどという押し問答はしたくない。
 こういった事態を予想しなかったわけではないが、希望は抱いていたのだ。エルシェリタ抜きで出かけられる機会なんて、これを逃せば2度とないかもしれないと思えば期待はよりふくらむ。
 それをあっけなく打ち砕いてくれた一言にルシエは盛大に眉をひそめたものの、ここにいる残りのふたり、オーファとツィーツェは文句ひとつ言わないで支度をし直してくれた。それに報いるためにも予定通り出かけなければいけない、とルシエは思う。
「僕は僕のやりたいようにやる」
「ええ、止めなどはしませんよ」
 いけしゃあしゃあとしたエルシェリタの微笑みが、ルシエにはうっとうしかった。




 思わぬ話を運んできたドルテと別れた後、ルシエはまず城を任されているエルシェリタの側近、オーファに面会を申し込んだ。城の主はエルシェリタだが、これまでこの城と土地を任されていたのは彼である。どこの誰よりもこの地のことに詳しいのは彼なので、外へ出られる出られないに関わらず、彼に話を聞いておいた方がいい。
 ルシエは第1王子の壱の人形、といった立場であり、王子の側近とも一応面識があったが、ただそれは挨拶をしたことがある、といった程度で殆ど初対面に近い。
 緊張した面持ちで話を切り出したルシエに対し、彼の態度はとても好意的で、ルシエをほっとさせた。
 穏やかな物腰で受け答えをし、ときおり茶目っ気も見せる彼は付き合いやすい相手で、打ち解けるのも早かった。ひとりで城へ寄越されているだけはあって若いながら有能であり、エルシェリタに可愛がられているというだけあって、機転も利くオーファはこの上なく頼りになる。
 どのようにしたいのか、というルシエの意図を汲んで回答も明確で、オーファの力添えがなかったら、ルシエは今こうして外へ出てこられなかっただろう。
「時間があればここの名物料理をご案内いたしましょうか。おいしい食べものがたくさんあるんですよ」
「名物…料理」
 機嫌の良い主人に反比例するように、斜め前にいる人形の機嫌は急降下中だ。
 それを見かねたように、あるいはまったく気にしていないような気軽な口調でオーファが口を挟む。
 もの思いからはっと戻り、苛立ちを忘れてゆるみそうになる頬を引き締めて、ルシエは居住まいを正した。ここで食べものにつられてしまったら、エルシェリタの思い通りになってしまう気がする。おいしい名物料理と聞くだけでお腹が空くような気がしたが、ぐっとこらえた。
 ようやく熱も下がり、体調も戻って、今まで通り食事をおいしく食べられるようになったのは良いのだが、それでいきなりこの外出なので少々慌ただしい。
 気分を変えようとルシエは傍らにある小さく区切った四角い窓を見て、視界を塞ぐ布をそっと引いた。
 丁寧に石畳が敷かれた道と雪色の石を重ねた家々は、話に聞いていたよりもずっときれいだ。ずらりと並んだ三角屋根は少し角が欠けていて丸みがあり、石を重ねた隙間に草花が根付いているのか、灰色がかった白ににじむ緑がところどころ見える。
 街の至るところに紅色の布がはためいていた。城に大公が入っていることを示すものだと、傍らのツィーツェが教えてくれる。
「白壁に紅が映えますでしょう。ここでしか見ることができない光景です」
「…………」
 どこか嬉しげにそえたオーファの言葉にうまく息ができないような胸苦しさを覚えて、ルシエは窓布を握った手にきゅっと力をこめた。
 雪灰色にぽつりぽつりと落ちた紅の灯火のようで、祭りのような華やぎと高揚感が伝わってくる。
 街のひとびとがどれだけエルシェリタの、シーゼルエント大公の帰城を望んでいたのかが途切れなく目に飛び込んでくるようだった。
 じっと食い入るように窓の外を見つめるルシエにオーファは小さく目を細め、自らも布をめくって外をのぞき込む。
 この時間はまだ人通りがないが、もう少したてば朝市を用意する人の影や買いもの客が賑やかに行き交うようになる。かつては見られなかった光景であり、エルシェリタが力を尽くしてきた成果がそこにある。
「ここは今でこそこのように穏やかですが、少し前までは争いが絶えない国でした」
 教師に応える生徒のように、ルシエははい、と大人しい返事を返す。
 ウィレクについての勉強不足でだいぶツィーツェから絞られたため、シーゼルエントに関しては真面目に説明を受けていた。
 旧王家と呼ばれるかつての施政者は火と石、ふたつの血を持つ。石の精霊ではあるが、火に変わりやすく、いわば燃える石のようなものである。彼らは焔石の精霊、と呼ばれていた。
 石の精霊はおおむね変化を好まずゆったりとした気質の持ち主が多いと言われているが、これが火の性質とかけ合わさって、激情家でありつつ極めて頑固な考え方をする、なんとも面倒な性質を生んだ。
 もちろん全員ではないが、全員ではないがゆえにお互いの間にいさかいが生まれる。
「この国の民はみなどこかしら焔石の気質を持ち合わせています。持っていたとしても争いを好むわけではありませんが、余所から人が入りずらい土地柄もあって、いちど争いが起きると、それを止める者がおらず、ずるずると長く続く傾向がありました」
 深い谷と切り立った山々に囲まれたシーゼルエントは、飛行力のある精霊でもなければなかなか辿り着きにくい。そしてこの辺りにはそういった力をもつ精霊が少なかった。
 それだけでなく、日頃から争いが多い国ともなれば自然と人が近付かなくなっていく。そのため、ここは孤立していたようだった。よそ者が入りづらい土地というのはどこにでもある。けれど土地の者が争いあうのはあまりない。たいていはよそ者との関わりを拒むぐらいで、その分、同族の結束がつよいものだが、ここは少し違ったのだといえる。
「旧王家はどうしていたのですか?争いを止めようとはしなかったのでしょうか?」
 国を治める者なら、なるべく己の国が豊かで平穏であることを願うだろう。
 当然国の中で争いが起これば止めに入ったと思い、尋ねたルシエにオーファは淡く苦笑いをうかべて首を振った。
「争いの種は旧王家側から広がることが殆どでした。内々の揉め事をどうにかするので精一杯で、止める余裕などなかったのです」
「…………」
 ありがちな話だとしてもそれに巻き込まれる方としてみれば、たまったものではない。そう口にしたルシエにオーファは、ええ、と続ける。
「それでも、旧王家は民に受け入れられていました。かつてはそこここで崩れた建物があったものですが、人々はそのたびに石を積み直し、元通りにしてきました。それは王であっても変わりません」
 頭に血が上って街を壊し、それを直しながらもふたたびいさかいあう。もともとの争いの種も、ささいなことがこじれただけだった。だが、それはすでに第三者の手を借りないとどうにもできないような袋小路に入り込んでしまっていたのだと言える。そしてそのことに気づき、受け入れるまでにはまた少し時間がかった。
 争いの続く土地で生まれた当代の王は、当時起きていた争いごとを収めて貰うのを条件に精霊王のもとに下ることを決めた。焔石の精霊たちの歴史を変える大きな決断だったと言えるだろう。そしてそれは、少なくともこの景色を見る限りでは、正しい判断だったように見える。
「焔石の王は変わることを望み、精霊王はそれに応えました。ですがもともとこの土地には町並みしかり、料理しかり、長く守られ続けられたものがあります。そしてそれは今も、守られ続けています」
「エルシェリタは…確かに争いをなくしたみたいだけど、…。…」
 大きな力のうねりにのみこまれて、たとえ望んでいなくても、変わらずにはいられないこともあると思う。抗い続けることに疲れ、あきらめて受け入れることもある。
 それが良いとか悪いとかではなくて、ただそういったことがあるということが、ルシエにはどことなく息苦しい。精霊王はあまねくすべての精霊を守り司るが、別にすべての精霊が精霊王と足並みをそろえなくてはいけないわけではないのだ。
 各種族の精霊、たとえばかつての焔石の王のように、精霊王とは一線を画した日々を営む種族王たちは多い。種族王と精霊王は持っている力も違うし、背負っている断りも違う。どちらがどう優れているというわけではないが、やはりどうしたって精霊王の力はつよく、配下に入ることはそれだけで膝を屈し、服従することと同じのように感じてしまう。
 少し幼く、素直なルシエの戸惑いだった。オーファはほほえみをうかべた。
 ルシエをとりまく風は伸びやかで、ばねがある。そこにどことなく不安がにじんでいても、ちょっとしたことで良い方に向かうような前向きさがあった。だが時にはそれもぶれることもあるだろう。
 傍らのツィーツェは静観する構えで、エルシェリタも口を挟むつもりはないようだ。それを見て取ったオーファは少しの間、じっとルシエを見つめて考えるような素振りになる。
 俥がふたたび曲がる。かたかたとわずかに俥が揺れた。
「ルシエさまはずいぶんとたくさん飛行術の本を取り寄せられていましたが」
「あ、はい」
 飛べるのに飛行術の本とはおかしく感じられたのかもしれない。唐突な話に驚きながらもルシエはうつむいて、こみ上げる気恥ずかしさに手のひらを開け閉めした。すべてを読んだというなら自慢もできるかもしれないが、今回はろくにひらけてもない。
「実は、まだ殆ど目を通せていなくて…」
 飛行術の本が読みたいと口にしたルシエにツィーツェはすぐ希望のものを揃えてくれたのだが、思っていたよりも種類も数も多く、正直圧倒されていた。オーファが頷く。
「驚かれたのではありませんか?城にあれほどの種類の多い蔵書があるとは思えませんし」
「はい、…とってもびっくりしました」
 ルシエの素直な反応に眦を細めて、オーファは小さな笑みをうかべる。片目をつぶり、少し茶目っ気を含んだ声で続きを口にした。
「あれは学園から取り寄せたものなのです。ルシエさまはかなり高度な本もお読みになると伺っておりましたので、城にある分では到底足りないだろうと、至急手配させていただきました」
「…学園の、ですか?」
「はい。大公が整えられた学園のことはご存じでしょうか」
 どうやら奇異に感じていたわけではないらしい、と思いながら、ルシエはこっくりと頷きを返した。
「少しだけ。王都にある学術院のようなものなのだと聞いています。花青宮にある学処を大きくしたものだと」
 話は聞いているが、正直ぴんと来ないルシエである。
 ルシエの一族はは方々を渡り行くため、どこかに腰を落ち着けて学問所へ通う、ということはあまりない。基本的なことは村で教わり、行く先々でその土地の知者に教えを乞う。
 花青宮には人形を集めて歴史などを教える学処と呼ばれる場所があり、必要と思われる者にはそこで教育を受けた。ルシエも最初の頃は学びに通ったのだが、他の人形のやっかみがきつく、すぐに行くのをやめていた。
 幸いにも術組みについてはそこへ来ていた教授の目にとまって、個人授業を執り行って貰えることになったが、大勢でひとつの講義を受ける、といった経験には恵まれておらず、多少の憧れめいたものがある。
 ルシエは勉強があまり得意ではない。術組みに関することだけできる、といった、偏った知識の持ち主である。本気で打ち込めばもっと伸びるだろう、とは言われていたが、そうしたやる気が出ないのだから話にならない。学問が得意な者の中には渡り風でも渡りから抜けて、学術院にまで行った者もいたが、ルシエのそれは当てはまらなかった。
 たとえ行けることになったとしても里から出るつもりはなかったし、空を流れていく暮らしを気に入っていたから、特別そういった場所へ行きたいと焦がれたことはない。それでも、街の子らが行っている場所には興味があった。
「興味がおありですか?」
「はい、そのように大きな書庫があると知ったら…よけい気になります」
「よろしければそれも、後でご案内いたしましょう」
「はいっ、よろしくお願いします」
 勢い込んで応えてからルシエははっと斜め前を盗み見た。
 これではまるでエルシェリタの仕事を見に行くようだし、その上それを楽しみにしているように見えてしまう。まったくその通りであるのだが、そう思われるのはしゃくだった。
 時折ルシエの視線を捉えてはやわらかに笑みをうかべる。ずいぶんと機嫌がよいことは分かるのだが、妙に静かで落ち着かない。違うから、と言い訳がましく呟いてから、気恥ずかしくなったルシエはぷいと窓の外へ視線を逃した。
 人形は主人に従うものである。たとえルシエが、ドルテの友人リリクを説得しようと思っても、主人の許しがなければ外に出ることも、招くこともできない。
 結局の所、エルシェリタが良いと判断したからこうして外へ出られているわけだが、これはルシエ自身が考えて決めたことだった。じぶんで決めたのだ、と思うことはルシエに自信と喜びをもたらす。
 だが、こうしていつも通り美しい双眸に見つめられていると、まるでその手のひらから一歩も出ていないような気がして、じわりといやな汗がにじんでくる。大丈夫だ、とじぶんの気持ちを落ち着けなくてはいけなかった。
 今回のことで、ルシエはエルシェリタに直に願い求めるようなことはしなかった。それをわざと避けたと言ってもいい。
 リリクと会いたい、会わせてほしい。そう告げることは簡単である。エルシェリタは事情を知っているし、竜種であるドルテから正式に助力を乞われた、という形をとれば、それに協力するのは精霊王の子としての義務になっただろう。
 しかし今回は非公式であるし、ドルテはただ話を持ち込んだだけだ。
 リリクとのことはルシエとの個人的なことで、新しい人形についての話が表立てばルシエは身動きが取れなくなる。人形についての采配は主人が決めることであり、ただの人形であるルシエには黙ってそれを受け入れることしかできない。
 そうなるのはいやだった。何かじぶんで動いておきたいと感じた。
 だが、それには人形の決まり事が邪魔をする。
 今まではそれで何もできなくなってしまっていて諦めるより他はないと思っていたが、気持ちを切り替えることにした。何もしないうちにそう思うのは性に合わない。少なくともかつてのルシエなら迷いもしないことだったはずだ。
 ルシエはさっそく、今まできちんと目を通したことがなかった規則の詳細に目を通すことにした。命じられれば掟はそらんじられるが、すべての意味を理解しているとは言い難い。
 実際に目を通してみると色々と発見があり、自分がらみのことだと思うと気持ちが滅入るところもあったものの、術書のひとつだと割り切ればなかなか興味深かった。
 それで知ったのは、自ら考え動くことなどできないと思っていた人形にも多少の自由がある、ということである。
 オーファやツィーツェとも相談しつつ、結局、ルシエがとったやり方は、泰平祈願。
 そんなことで良いのか、という何ていうことはないものだが、主人を取り巻く世界の平穏を願う、というのは人形としてごく自然な振る舞いであり、ここが主人の領地であるのも都合がよい。またそうしたことは人知れず行うことが多く、あまり仰々しくするのは好まれないから、言葉はおかしいが堂々とこっそり動けば良かった。
 また旅の最中に人形がはめを外すこともままあり黙認されているというのも、ルシエの行動を後押しした。花青宮内にいるときはそれようの場所もあるから容易に外へ出ることは適わないものの、こうした旅の間だけは街へ出て息抜きすることがゆるされる。
 調べようとしなければ知らないまま旅を終えていただろう。ルシエは人形らしく暮らすことに何の興味もなければ、人形に与えられる恩恵にも目を向けたことがない。こうして欲しいと言うことはあるが、前もってどれぐらいのことができるのかきちんと確かめたことはなかったので、こうしたことを知るのは新鮮な驚きがあった。
「まずは祈りの宮まで行っていただかなくてはいけませんが、時間はたっぷりありますから。どこへでも、ルシエさまのお好きなところへ行きましょう」
 エルシェリタが付いてきたというのは少々予定外ではあるものの、それぐらいのことならば対処のしようがある。オーファが言外に含めた励ましに、ルシエは、はい、とほほえんだ。
 泰平祈願という名目を済ましさえすれば、あとはリリクに対峙するのも、学園に行くのも美味しいものを食べるのも、ルシエが決められる。そう思うことは気持ちを晴れさせ、否応なくルシエの心を浮き立たせた。



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