「月吹く風と紅の王」



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 長い裾を引きながら、花青官に手を取られて歩く。
 回廊の片側に設えられた窓から乳白色の光が射し込んで、床や天井に色石を並べてつくった画がふんわりとうかびあがっていた。射し込む光の加減を見越して描かれているのか、微妙な色合いの差や、文様の組み合わせで様々な景色を描き出す。
 今の今まで床に伏せっていたとはいえ、もうだいぶん調子は良く、髪を結い上げ帯をきつめに締めると、不思議と頭がすっきりして、体も軽く感じられた。
 ツィーツェが選んだのはふだんよりずっと色を抑えた衣装だった。
 黒に近い枯葉色の内衣に朱金の糸を混ぜた星織りの布を重ねた上品な装いで、違和感がない程度にルシエを大人びさせる。髪に挿したかんざしは木を削りだして飴色に塗った素朴なもので、ごく小さくつややかな白い貝殻石がはめこまれているのが唯一飾りらしい飾りだった。
 一見重たくなりがちな装いだが、襟周りに朝雲から抜いたようなやわらかな淡黄色の布をあしらってあるので、若々しいやわらかさもある。
 年齢や性格もあって落ち着いた装いには注意が必要であるものの、ともすれば違和感をもたらしかねない暗い色合いさえ、花青官の手にかかれば魅力を引き出す要素にかえるようだった。
 私室である上層階の端から端へといったような移動のため、城勤めの者ともさほど出会わない。それでも稀に行き合った者たちは人形の姿を呆然と、あるいは気圧されたように見惚れてから、慌てたように脇に避けて頭を垂れた。
 おおげさだな、とルシエは思ったが、見慣れない人形の存在自体が彼らをそうさせるのかもしれない。
 ほどなくして目的の部屋に辿り着くと、余分なことはすみやかに押し出されてかき消え、ただ真っ直ぐに扉と向き合った。
 部屋の向こう側とこちら側を遮る扉。ここをくぐって奥へ進めば、客と、エルシェリタが待ち構えている。ルシエはきゅっと唇を引き結んで、対面に備えた。



 ドルテはルシエが入ってくるのを見ると、座っていた椅子から立ち上がり、軽く膝を折った。彼は竜種なので精霊の礼をとる必要はなく、人形に対しても同様だったが、その動きにためらいはない。礼節に通じた者らしい品の良さがあった。
 人形の場合これに挨拶を返さないのが通例なので、ドルテの姿を視界に入れたまま、部屋の側面に沿う形で設えられた席に向かう。このあいだずっと俯き加減で歩かねばならないので、手を引くツィーツェの存在は重要だ。
 ルシエの席はエルシェリタの隣に用意されている。床に直に座って、という形はこの辺りではあまり好まれないらしく、きちんとふたりぶんの椅子が置かれていた。
 ドルテとエルシェリタとの間には遮るものは何もなく、段差などもない。それは互いが対等な相手であるという証だろう。
 ルシエが着席するとドルテもまた腰を落ち着け、エルシェリタが頃合いを見計らってルシエに声をかける。こうした場でも人形から口をひらくことは出来ないから、それは決められた手順のひとつだ。
「ルシエ、ドルテ殿にご挨拶を」
「はい」
 ドルテの金色の瞳と目を合わせ、居住まいを正す。
「一の宮の壱、風のルシエと申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
 通常なら客から人形への手の甲へと挨拶を受けるものだが、竜種と精霊のように立場が違う間柄ではお互いの習慣を取り入れ合うものである。これは竜種側にならった作法で、ルシエは視線をぴたりと合わせたまま短く挨拶を述べた。
「ドルテと申す。風のルシエ。お会いできてうれしい」
 それに応えるドルテの声はびりびりと空気がわななくような響きのある声だった。
 はじめて出会った時にあったような狂気の影はみじんもない。さすがに黙って座っているだけでも大型の竜種らしい圧倒的な存在感を放っているが、決して攻撃的ではなく、むしろ大人しすぎるほど静かだ。
 ついまじまじと相手の姿を見つめていると、隣から苦笑するような気配がある。
「許可します。お求めあれば答えるように」
 先んじてそう許し、主人の許可がなくても会話が成り立つようにしてから、エルシェリタは妙な言葉を付け加えた。
「ルシエ、目眩や頭痛は?動悸などはしませんか」
「…いいえ」
 唐突な問いかけに、ルシエはエルシェリタの言っている意味が分からない。
 ルシエの体調なら本人よりも詳しく知っているはずだった。花青官からの報告を受けているエルシェリタが今のルシエの体調を聞き直すのは、いったいなぜか。それでつい伏しがちだった目線を相手を向けたが、相手の姿を見てルシエはたじろいだ。
 黒地に銀糸の蔦が絡むような縫い取りを施したあでやかな長衣は、エルシェリタにふだんよりも硬質な印象を与えていた。ひとまとめにして背に流した髪からこぼれる銀の髪はよりいっそう映え、どう見ても人形より目立っている。
 ルシエと同じ暗い色合いの服。生地、仕立て、意匠も似ていた。
 認めたくはなかったが、誰が見ても揃いの衣装に見えるだろう。
 あからさまに似せた格好に動揺して、ルシエはぱっと視線を外した。
「ほんとうに?」
「体調は、良いです」
 相手との兼ね合いで、仕立てを似せたものを身にまとうことはある。
 ただそれは、ある程度の釣り合いを考えてのことで、全く同じ意匠というのはない。主人ひとりに対して複数人形がいるものなので、ひとりだけ似せるといろいろと問題があり、かといって全員がそうしたらただのお仕着せだ。
「…………」
 斜め後ろに控えたツィーツェを見やり、ルシエは眦をきつくした。
 ルシエとエルシェリタの身支度を調えるのは花青官の務め。主となって動くのはツィーツェだ。だからたまたまなどということは有り得ず、必ずそこにはツィーツェたち花青官の意思が加わる。
 通例から外れ、揃いの衣装を用意した意味。
 ツィーツェからエルシェリタ、ドルテの方を少しずつ見てその理由に気づいたルシエは、険しくさせていた眦をさらにきつめて、不機嫌な顔つきになった。
 ドルテへの牽制。
 彼個人に何ら含むところはないとしても、彼の向こう側にはリリクがいる。装いひとつで、ルシエを欲しがったリリクに対して"付け入る隙などない"と見せていた。主人と人形の息のあった雰囲気、完成された1枚の絵。そういったものを思わせるための装いだった。
 ルシエはリリクについて行かなかったが、それはエルシェリタを選んだから、というわけではない。そのことをツィーツェは理解している。だからこそ、こうした演出を施して、誰が誰に属しているのか明確にしたのだろう。
 ルシエがリリクに付いていかなかったのは、簡単に言うと知らない相手だからだ。
 リリクがどのような考えであのような誘いかけをしてきたのか理解できなかったし、何せその日会ったばかりの相手である。幾ら同じ狭間の中にいたにせよ、何もかも気持ちが通じ合うほどのことはない。
 売り言葉に買い言葉というのもあって、それなら連れて行ってみろというも状況としては有り得たかもしれないが、ルシエとしてはそれをするぐらいならひとりで出て行く。たとえそれが生命を脅かすことになっても、そうすることこそが望みだ。
 それなのに、今更こういった形でひとまとめにされるのは困る。
 好きだから選んだ訳じゃない、と今すぐに叫びたかった。だが、そんなことを言えば体よくいなされるに決まっている。
 言いようがない苛立ちのまま、ルシエはおもむろに胸もとに手をかけた。ためらいなく上に羽織る形で身にまとっていた星織りの布を外す。
「ルシエさま」
 ツィーツェがルシエに声をかけたが、邪魔しようというわけではないらしい。近付くな、とルシエが声を荒げる前に自ら手伝いに入った。
 人形の身支度を力任せに除こうとしたら、紐が絡んで解けなくなるか布が裂けてしまう。今のルシエではどちらもやりそうだったから、正直ツィーツェの協力はありがたかった。
 もともと脱ぎ着がでるようにしてあった重ね衣だが、それを外すと肩が剥き出しになる。星織りの布が持っていた華やかさがなくなった分、さっぱりとしたルシエの気性が全面に押し出されて、傍らの落ち着きある装いとはまったく釣り合いがとれなくなった。
 脱ぎ終わるとツィーツェは長手袋をルシエに見せたが、それを拒む。用意がいいのは花青官だから、というより、あらかじめ想定していたことだからだろう。
「ルシエ、それでは寒いでしょう?」
「いいえ。ちょうどよいです」
 屋外に出れば暑いぐらいである。体質的にそれほど暑さ寒さが気にならないほうだし、人前で礼儀がどう、人形の決まり事がどうと言わないはずだという考えもあった。
 そしてその通り、つんと顔をそむけたルシエに、エルシェリタは薄く苦笑っただけで言葉をおさめる。
「お恥ずかしいところをお見せしました。この通りの跳ね返りで。ご容赦ください」
「いや、気にしてくれるな。見た通りの儚げな方でないと知って、感心しているところだ」
 言葉通りドルテには人形の非礼を咎める素振りは全くない。人前で服の脱ぎ着をするなんてとんでもない、という常識を踏まえた上でまったく動じないようだ。さすがにリリクのような男と付き合いを続けていけるだけあって、たいていのことには慣れっこになっているのかもしれない。
 相手を不快にさせたのでは、と、内心どきどきしていたルシエは胸を撫で下ろした。しかしそれを知られるとせっかく張った意地を台無しにしてしまうので、苛立ちをにじませた顔のまま、横を向いておく。
 ひそやかなルシエの努力を見て見ぬふりをして、エルシェリタは紅い瞳をやわらげた。へそを曲げた相手に困惑する様子もなく、ごく自然に話を変える。
「ルシエ、ドルテ殿と向き合われた時、何かしらの違和感を覚えませんでしたか?圧迫感のような」
「…………」
「申し訳ない。目を合わせた時に一瞬、我の気を解放させていただいたのだ」
 はじめに体調を尋ねられた理由もそこにあるらしかった。
 不機嫌になったことそのものを忘れたかのように、ルシエは2人の話に耳を傾ける。
 ドルテが語ってくれたことによれば、簡単なことだった。なぜエルシェリタがルシエの体調を聞いたのか、その答えが分かる。
 竜種の強大な気にあてられて、まいってしまう精霊は多い。か弱いものならそれだけで消えてしまうし、同時にそれは恐怖心となって、相手の精神を痛めつける。
 ルシエは人形である前に、ありふれたただの精霊に過ぎず、竜種と対抗できるような力は持っていない。
 ドルテはルシエとの面会を望んでいたが、むやみやたらに怯えさせるのは本意ではなく、ここへ来るのもはじめは遠慮していたらしい。だがエルシェリタはためらいなく彼を招いた。
 竜種、それもヴィエンドルが来る、ということを表だって言えば騒ぎになるから、その辺りは伏せるにせよ、エルシェリタは同じ竜種であるアンセルとの付き合いも長いし、何も気にする必要はない、というのが言い分だった。
 そう言われれば拒む理由もなく、ドルテは城へと上がった。だが、ルシエと直接話すことなどできないだろう、と彼は思っていた。相手の立場、自身の身の上を思えばそれが当たり前である。しかしエルシェリタはそれを認めた。次の瞬間には日時の提案に移るような早さだった。
 おかげで自分で自分の危険性を訴える、というおかしな目に遭ったというのは、ルシエが後で聞いた話である。
 結局、はじめて会ったときは平気だったこと、アンセルに対しても全くと言って態度を変えなかったことを踏まえて、一瞬だけ素の力を解放してみることになった。
 押し殺すことのない圧倒的な竜種の力を見せつけられれば、主人の客だからとやせ我慢しているのか、本当に平気なのかが分かり、その程度なら体への害もない。
「ルシエ殿。我慢することはない。本当に何もないか?」
「はい、大丈夫です」
 気負うことのないルシエの応えにドルテはほっとしたような小さな微笑みをうかべた。
 優しい人柄なのだと、ルシエは思う。
 大型の竜種で、おもねることもない。だが相手をいたわれる。あのリリクにはもったいない人だ、と思ったが、こういう人柄ではないとリリクを受け止めることもできないのだろう。
 ぼんやりとそんなことを思っているルシエの前でドルテはうかべていた笑みを消すと、唐突に居住まいを正した。
「ルシエ殿。先日我が友をお救いくださったこと、改めて礼を申し上げる。我が罪にて友に科した災いだが、ルシエ殿のおかげで逃れることが出来た。ありがとう」
 ためらいもなく深々と頭を垂れた相手に、ルシエは驚きと戸惑いがない交ぜになった顔をうかべた。
 リリクはどこを切っても問題が発生するような厄介な男である。だが、それは別にドルテが詫びなければならないようなことではない。
 それでも、ルシエは小さく頷いた。
 彼が想う相手を救う手助けをしたこと。そのことについて言っているのなら、それはルシエが受け取るべき言葉だった。
「どういたしまして、と…言えるほどのことはしていませんが、でも、おふたりのお力に少しでもなれたなら、それが嬉しいです」
 ものごとの当事者同時では解決できないこともある。
 たまたま巡り合わせた誰かがきっかけとなって、変化することもある。
 あの時のことを言うのなら、そういうことだった。少なくともルシエはそう思う。
 あっさりとしたルシエの言葉に穏やかな笑みをうかべて、ドルテはもう1度だけ、礼をこめた仕草で頭を垂れる。
 しかしこれで話が済むなら、この席が急に設けられることにはならなかったはずだ。ルシエの体調が完全に回復した後、などと、先延べすることはできたはずで、その方がお互いにとっても都合がよい。
 ルシエの気がかりを見越したようにドルテは口を閉ざし、やや間を置いてから真っ直ぐルシエの方を見た。
「ルシエ殿」
「……はい」
「恩人であるそなたにこのようなことを伝えるのは我が不徳の致すところであるが」
 金色の瞳にわずかなかげりを乗せ、わずかに肩を落としたドルテを、ルシエは不安な面持ちで見つめる。しかしそれが相手の負担になってはいけない、と思い直して、表情を取り繕った。
「何を伺っても驚きません。…リリクのことですか?」
 彼がルシエに話さなければと思うことなら、そのことしかない。
 そうあたりをつけたルシエにドルテは沈黙を返す。そうだ、とその沈黙が語っていた。その上でどう話すべきか良いか迷っている気配が感じられる。
 ややしてから、金色の瞳が真っ直ぐルシエを見つめ返した。
「…まさしく、我が友リリクのことだ。彼は先日目覚めてから、至る所へ出かけるようになった。あの見た目からでは想像がつきにくいだろうが、彼は風よりも速く移動することができる。短い間で様々なところへ赴ける力がある」
 黙って佇む可憐な姿からでは、確かに想像しにくい。口をひらけば毒をはらむが、それと備わった力とは関係がない。
 しかし、それも有り得るような気がした。少なくともリリクの能力はルシエを遥かに凌ぐ。
「付いて歩ければ良かったのだが、もとの形に戻らねば我が友の速さに適わず、戻ればおいそれと移動するわけにもいかぬ。そのため詳しいことは分からぬが、彼は王都へと赴いていたらしい」
「王都…に…?」
 竜種にも王はいるし、都もあるが、リリクの一族はどうなのかは分からない。一般的に王都と呼ばれるのは精霊王の住む都だ。戸惑うルシエにドルテは頷きを返す。
「王都とは精霊王の住まう地。我が友は精霊王に会っていた」
 ドルテはそこでふっと口を噤んだ。
 あっけにとられ、まじまじと顔を見つめてくるルシエがその話をのみ込むのを待ってのことだろう。
 王都に行き、精霊王と会う。
 いかにあのリリクであっても、その行動はまったく予想がつかないものだった。
 もと人形だと考えれば、多少の関わりはあるのかもしれない。それでも会いたいと思ったからと言って簡単に会える相手でもないだろう。
 ルシエはここから遠く離れた王宮を思い、そこにいる王の顔を思い出して顔をこわばらせた。王は嫌いだ。恐いと言ってもいい。しかし怖がっていては先に進めない。どうにかそれを押し殺し、ルシエはドルテの顔を見上げた。
「なぜ…、リリクが……、王に?」
 それに答えるドルテは淡々としている。
「なぜと我も思ったが、我が友は王にあることを願い出たのだと答えた。シーゼルエント大公に新しい人形を用意すべきだと申し上げ、その許しを得たのだと。今、我が友はこの地に数人の人形候補を連れてきている」
「…………」
「ウィフィール家のナナシア、エイディオン家のセージュ、マウスルテル家のシィリア。かつて大公の人形候補だった方の姉弟だ」
 ドルテはあっさりと名を並べ、小さく息を吐く。精霊の家についてなど全く興味もないはずだが、すでに調べてあるのだろう。その名が持つ背景を知っているに違いなかった。
 エルシェリタはルシエを迎え入れた際に、すでに名があがっていた人形候補、殆ど確定だろうと言われていた者たちを正式に選から外し、そのことで出た問題、あるいは苦情について見事としか言いようがない采配をふるった。
 全てルシエの知らないところで行われ、今もルシエはそういうことがあったらしい、としか知らない。
 人づてに聞いたところによれば、候補にあがっていた人たちは、彼らが一の宮に入れば先々まで名の知れた后になっただろうと言われるぐらい優れた人だちだったようだ。容姿に優れ、生まれ育ちも良く、才知にも長けていた。
 何拍子も揃った人物の兄弟姉妹。貴族に疎いルシエには顔も分からないが、それだけでも魅力的な人物であることが伺える。
 エルシェリタはすでにこの話を聞いていたのだろう。だからその表情にはまったく変化がない。
 部屋の隅に控えていたツィーツェをこっそり伺ってみたが、いつもの通り静かな面差しを晒した相手では、驚いているのかいないのかも分からなかった。
「ルシエ殿。我が友は大公に新しい人形を与え、ルシエ殿を手に入れたいと考えているのだろう。むろん、大公がやすやすと我が友の策にかかるわけがなく、選ばなければ済む話である。だがそれらを除けても、広く市井から新しい人形候補を募るかもしれない。シーゼルエントの君主にこの土地から新しい人形を、そう呼びかけただけでかなりの人数が集まってしまう。精霊王の認可を得ているのだから、我が友の言葉をむやみに退けることは出来ない」
 たったひとりでそんなことはできないが、リリクにはできるかもしれない。
 浅い付き合いしかないルシエでもそう思えた。もし本気でエルシェリタのもとに新しい人形を送り出そうとしているなら、彼は手段を選ばないだろう。
「…ドルテ様」
 早鐘のように打つ鼓動を堪え、静めようと浅く息を吐きながら、ルシエは軽く手のひらを握った。
 ルシエには新しい人形を拒む権利もその意思もない。
 人形ではなくなり、自由の身になること。その手助けをリリクがしてくれるというのなら、ルシエはそれに協力するだろう。
 けれどその代わりにリリクに従うということは選べないし、人形であるルシエが主人の意思に逆らって、新しい人形候補を拒むことはできない。
「その方々や、他の方が望んで来られるというのなら僕は快く迎えます」
「無理に連れてこられた方々ではない。それは我も保証しよう」
 その言葉に少しほっとしたが、安堵の息は吐けなかった。
 待ち望んでいたはずの変化の訪れは急すぎて、理解が追いつかないのかもしれない。エルシェリタが興味が新しい人形へ向く可能性がでてきたことを思うと、妙に胸がざわついて落ち着けなかった。
 ドルテはルシエの言葉に驚いた様子はなく、静かな眼差しでルシエを見つめていた。
 ルシエはまだ若い、すでにある程度の年月を生きたドルテにしてみれば、幼いといっても良いような精霊だ。
 彼から見れば吐息ひとつでかき消えてしまいそうなほどか弱い精霊。そのルシエはしかし、彼であっても救い出すことが出来なかったリリクの意識を狭間から引き上げ、体に生を戻した偉業を成し遂げたその人だ。
 それがただの偶然や運の良さで片付けられないことであることも、ひどく困難なことであったということも、当事者であるがゆえにドルテは正しく理解している。
 ルシエ自身がどう思おうと、ドルテはその行為の価値を充分認めていた。だから小さな風の精霊に対して敬意を払う。ドルテは戦士である。本来むやみやたらにその力を発揮することはしないが、やすやすと頭を垂れることもしない。
 相手がルシエだから、ドルテは慎重に言葉を選び、反応を待つ。
「リリクがどういうつもりであろうと、すでに別の方を巻き込んでいる。このまま見守るのが良いのではないでしょうか」
「それが望みか?」
「…望み?」
 ドルテの切り返しにルシエはぎくりと肩を揺らした。
 よい子の答えをしたつもりはある。このこととは関わり合いたくないと、自ら線を引くやり方だ。
「いかに幼き精霊であろうと人形であろうと、望みはあるだろう」
「あります。でもこのこととは…」
「関係がないと?」
「…………」
「そなたに恩がある。我にできることあらば何なりと言ってほしい」
「………考え、させてください」
 すべてを飲み込んでしまいそうな烈しい輝きをうかべた金色の瞳。見つめ返すには勇気が必要だったが、ルシエはどうにかそれだけを口にした。
「ドルテ様が恩と感じてくださるのでしたら、僕もきちんと考えさせていただきたいです」
 拒むことも、応じることも出来ない。
 それが答えだったが、それでは相手は納得しないだろう。
 真正面からリリクが切り込んできたなら、どんな形であってもルシエも向き合わなければいけない。
 それはルシエも分かる。けれどルシエにはひとつ気がかりがあって、答えを先延ばしにすることしかできなかった。
 そっとエルシェリタの方を見るが、新しい人形の話がでたときも、ドルテが力を貸してくれると言ったときも、和やかな顔つきのままだ。それが分からなくて、なぜ何も言わないのかも理解できない。
 リリクと対峙したときのエルシェリタはさんざん理由を付けてルシエをそばに置こうとしたものだが、新しい人形というもっと大きな事柄に対しては、まるでどうでも良いことを聞くような態度である。
 心配ないと言って欲しいわけではない。
 けれどエルシェリタなら、いやみのひとつやふたつ言いそうなものだった。
 ルシエの視線に気づいたエルシェリタが微笑む。ルシエは眉をひそめ、顔をそむけた。ばらばらに千切れたように定まらない気持ちが息苦しい。
 戸惑い、答えを先送りにしたルシエに焦れた様子ひとつ見せることなく、ドルテは頷きを返す。
「厳しいことを申しあげた。すまない」
「いいえ。…」
 ゆるく首を振ってから、ルシエは改めて気づいたことに小さく唇を噛んだ。
 我が友と口にするが、リリクはドルテの想い人だ。
 いがみ合って別れたわけではない、一方的なリリクの宣言と事故。それが彼らを隔てただけだった。そのリリクが誰かを欲しがる。
 大切な相手が望むならそれに応じたい。けれど、応じることは苦痛を伴う。
 その上でドルテは恩人であるルシエを尊重してくれているのだ。それがありがたくて、同じだけ辛かった。
「誰にとってもいちばん良い方法があれば良いのだがな…」
 何かを憂えるように呟かれた言葉にルシエは小さく俯く。
 本当にそうだと思い、そしてそんなことはないのだ、とルシエは思う。おそらくそれは、この場にいる全員が知っていることのはずだった。



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