「月吹く風と紅の王」



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 懐かしい記憶を見ていた気がする。
 浅く吸い込んだ息を熱とともに吐き出し、ルシエはうとうととした眠りから覚めて体をもぞつかせた。
 気づいた花青官に助けられながら重たい体を寝台の縁にもたれかからせ、差し出された水差しの吸い口に唇を付ける。
「ルシエさま、何かお食べになりますか」
「ん、いい…」
 軽く首を振ったルシエから果物を盛った籠を遠ざけ、ツィーツェはルシエの額に触れてから掛け布を引き寄せる。
 開けはなった窓から、涼しげな風が入り込んで巻き上げた天蓋の布を揺らしていた。
 弱った体を冷やすのは良くないが、風はルシエを癒す。その為、すすんで窓をあけ、他の部屋にも風の道が通るようにしてあった。
「そうだ…ツィーツェ、もしこのお城にあったら…だけど、飛行術の本はあるかな…」
「飛行術…ですか?」
 唐突な申し出にツィーツェは内心首を傾げたが、ルシエは真剣な顔で頷きを返す。
「そう…あったら、読みたいんだ…」
「どのようなものでもかまいませんか」
「うん…」
 できれば初心者向けと高度なものと、2種類あれば良いが、来たばかりの城にどのような蔵書があるのか分からず、できるだけ数を揃えて欲しいとだけ告げる。
 分かりましたとツィーツェはそれ以上は何も言わず、あっさり請け負った。それぐらいのことなら何てこともない。他の人形に対してなら理由を探っただろうが、こうしたことを言い出すのも、ルシエに関しては珍しいことではなかった。
 請け負ってくれたツィーツェにほっとしながら、ルシエは外から入ってくる風に目を細めた。
 ルシエの視線を追いかけ、外へと視線を投げたツィーツェは何事もないことを確かめてから、向き直る。万が一にでもふたたび攫われるようなことはあってはならないので、安全の確認は最優先事項であった。
「どうされました?」
「ううん、…」
 なんでもない、と応えようとして、小さく息を吐いた。
「風の色が、きれいだったから」
 素直に告げると、納得したように頷きがかえる。
「まことに良い風が流れておりますね」
「うん」
 風の民のような力は持ち合わせていなくても、それぐらいの目利きはできるのだろう。
 ツィーツェの見立てには間違いはなく、ただルシエの目にはもう少し違ったものが映っていた。
 ゆるく頷いて応え、ルシエは寝台の中に体をうずめこむ。
 ひとりひとりなら他に紛れてしまうが、まとまればある程度はっきりとしたものをつくる。
 その風には覚えがあった。家族の気配だ。
 熱のせいか感覚が鈍っていてはっきりとしたことは分からない。それでも風の中にあるのは覚えのある気配。
 旧王家からエルシェリタへと政が移り、閉ざされた街から、自由に行き来できる街へと移り変わるシーゼルエントへは、行商人も旅人も徐々に増えていると聞く。
 むろん外郭より内側へ入ることは出来ないし、遠くから臨むことぐらいしかできないが、それでも王宮の奥深くにある花青宮のことを思えば、驚くほど近いところまで迫っていた。
 大きな風の流れに紛れ込むことなく家族の気配を伝える近さ。
 今更ながらそれを知ってルシエは落ち着かない気分になった。
 ウィレクにある幻獣の森で無理をしたのが祟ったのか、シーゼルエントに入るなり体調を崩したため、ろくに街の姿も見ていないし、与えられた部屋から外へも出ていない。
 たとえ体調を崩していなくても、広く大きな城の中を調べ尽くせる機会はめぐってこないだろう。そんなに長くは滞在しないだろうし、自由に歩き回る許しも得ていない。ただ、ずっと伏せっていると無性に歩き回りたくなるものだ。
 そうしたところへ、思い切って飛び出せばすぐそこに家族がいるかもしれない、という思いが過ぎれば、どうしたって胸をしめつける。つとめて意識をそらし、気持ちを落ち着けて、窓から広がる庭に目をとめた。
 ルシエに与えられた部屋は城の奥まった場所にあるので、窓辺から街の姿を臨むことは出来ず、丁寧に整えられた庭が広がるばかりである。ここシーゼルエントでは冷気をしのぐために人の住まいを上の階につくるのが定番で、ルシエやエルシェリタの部屋も城の上部に位置するのだが、それを感じさせない広さがあり、そのような造りにもなっていた。
 たとえばルシエが外を眺めれば、そこに広がるのは丘である。
 庭であることには間違いがないが、土を入れ緑を整え、まるで野山の中にいるような開放感があった。
 さながら空中庭園である。これほどの庭をつくるのにどれだけの精霊が携わったのか、ルシエにはちょっと想像が付かない。それほどの数の精霊が従う王の威光、あるいは力というものが改めて感じさせられ、肝がすっと冷える気がした。
 伏せっているのにも飽き、しばらく体を起こしているつもりなのを悟って、ツィーツェが背もたれをつくりなおす。それに小さく礼を言って息を吐くと、ツィーツェの顔がルシエを振り返った。
「ルシエさま。窓辺に鳥が来ていますよ」
「…………」
 ツィーツェの声に誘われて顔を向けると、手のひらに乗りそうな大きさの鳥が窓枠に止まっているのが見える。
 ふっくらとした丸みのある体に茶色の羽。ところどころ雪のように白い羽が混ざっている。ルシエは口もとにうっすら笑みをうかべた。
「リントウだ」
「庭の果実を食べにきたのでしょうか」
 夏は食べものが豊富だから住まいにしている山の辺りでも充分過ごせるはずだが、この城の庭には山鳥が好んで食べる花木が揃っている。それに誘われてここまで来たというのは有り得る話だ。
 ルシエはそうっと腕を伸ばした。
「風の同胞よ。よろしければ中でひと休みなさいませんか」
 唄うような声で小さく呼びかけ、小さな瞳と見つめ合う。害意がないこと、歓待する気持ちがあること、親しみを込めて呼びかけるのも懐かしい。空の上ではともに飛ぶことも、ともに休むこともあったので、馴染みの群れなどもいたものである。
 リントウはきゅるりと喉を鳴らして、ルシエの指先に留まった。
「水を…、あ、果物の方が良い?」
 水差しから水をわけようとしたが、肩先に移ったリントウは別の方が気になるようである。脇に避けたくだもの籠を見て取り、ルシエは手で皮がむけるものを選んで、食べやすい大きさに分けた。
 手のひらに載せた果実を真っ直ぐに伸びたくちばしを使って、あっというまに平らげる。ルシエはもうひとつ手にしたが、リントウはきゅるきゅると嬉しげな声で鳴いて、あっという間に入って来た窓から飛び立った。
 リントウが飛び去った空の方を眺めていたルシエは、雲ひとつない薄い青色に過ぎる点を見つけて目を奪われる。
 大きな鳥だ。長い尾羽に入った黒色が目を引く。
 風の上を滑るように行き、悠然と舞う鳥の姿にルシエはしばらく見入った。
「立派な鳥ですね」
「うん…」
 気づいたツィーツェが驚いたように口をひらく。ルシエはは半ば心奪われたまま、ぼんやりと頷いた。
 ゆっくりと上空を旋回する大きな鳥はやがて視界から消えたが、しばらく目の中に影が残る。
 ツィーツェが差し出した布で手のひらを拭い、わずかに傍を離れる。ルシエはおもむろに寝台から降りた。
 ゆっくりと足の感触を確かめるように部屋を横切って窓辺に立つ。風に乗った大きな鳥はもうずいぶんと遠くまで行ってしまったらしい。
 城からでは姿を見て取れない。
 追いかけてともに飛びたい衝動に駆られながら、ルシエはそれを堪えて、体の底からふわりと風を流した。
 空の高いところを飛ぶ鳥には届かない。せいぜい近くにある木の葉を揺らすぐらいだ。しかしそれは他の風と混ざり合い、空を渡っていく。もしかしたらその風を家族が感じ取ってくれるかもしれない。
 今行くことは出来ない。
 けれど風ならば辿り着けるかもしれなかった。
 しばらく風の流れを見つめていたルシエはなぜかふっと父の姿を思い出し、小さく口もとをゆるめた。
 リィジアは風を使った遊びがうまく、幼い頃はうまく力が使えなかったルシエも、リィジアが戯れに使う風の中でその使い方を学んでいった。
 生まれた頃からルシエたちには風の力が備わっているが、その使い方、あるいは楽しみ方は人それぞれによって違う。
 リィジアはちょっとしたことも楽しみながら行う人だ。それはたぶん、エルシェリタや、リリクもだろう。
 彼らのことが思いうかんで、ルシエは少し戸惑った。
 狭間の中でリリクと出会い、久しぶりに存分に風の力を使った。
 それはほんの短い時間だったが、あの時、ルシエは人形のしがらみにも渡り風の決まりごとにも囚われていなかった。ただ夢中だった。
 もしかしたら、とルシエは思う。
 人形でも、そうでなくても、自分は自分で、以前とはあまり変わっていないのかもしれない。リリクの振る舞いに怒り、昔のように風を使えた。人形になったからと言って、風を使う爽快感を失ったわけではない。
 そう思えることが気持ちを穏やかにする。熱の残るぼんやりとした意識でも、とても前向きな、明るい思いを過ぎらせた。
 窓辺から吹き込んできた風が髪をふわりと浮かせ、ルシエは瞼を伏せる。
 熱に火照った体を冷ます心地よい風だった。
 それを存分に浴びてから寝台に戻るためにきびすを返したのだが、ルシエがもと通り体を横たえる前に、再び起き上がるはめになった。急な伝令が届き、ツィーツェがいったん他の花青官と入れ替わりに外へ出る。
 そうして戻ってきたツィーツェは、ルシエのもとに思いがけない報告を運んだ。
「ドルテが…来てる?」
「お会いしたいと言っているそうです。…いかがなさいますか」
 聞けばドルテひとりで、リリクの姿はないという。
 ルシエはそれを怪訝に思って、ツィーツェを見上げた。このまま休んでいるべきだと思っているのが分かったが、その顔にはルシエの応えを待つ用意もある。自分が決めて良いことらしい、というのを感じ取って、ルシエは頷いた。
「会う」
 それがリリクなら断っただろうが、正気を取り戻したあのヴィエンドルの青年なら、おいそれと訪ねてくることはしないだろう。
 その返答にツィーツェは頷き、急ぎ支度を調えるため、ルシエの手を取った。



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