「王子と温かい森の花」



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 序章

 大きさの揃わない無数の泡が下から上へと拭き抜け、四方から叩き付けるような強い風に息が詰まる。むき出しの肌から体温が奪われていくように、何かが体の中から剥がれ落ちていくような気がした。そのことに痛みや苦しみはなく、かといって気持ちの良さも嬉しさもない。暗闇の中で眠りに落ちてから目覚めるまでの間を知らないように、それは阻まれることなく当たり前に成されていく。肌を跳ねた風に息を継いだときには、もう剥がれたことも知らない。
 いつのまにか水面の下へ、空の中へ、深く体が沈んだような薄明るい隔たりが全身を満たしていて、泡も風もなかった。身じろぎで光が揺れ、瞬きと共に温もりが肌を覆う様は穏やかで優しく、どこか懐かしい。特に何かがあるわけでもない、いずれ何かになるわけでもない、ただうっすらと何かの名残を思い出せそうな気がする場所。それはそこを去れば在ることさえ忘れてしまう小さな感覚で、目が覚めれば始めからなかったのと同じになってしまう。


「ただいま」
 見慣れた笑顔をうかべ煌びやかな格好で帰ってきた息子を、彼は大きく広げた腕の中に迎え入れた。



     [王子と温かい森の花]


 いつもと何も変わらない、ほんの少し煤けた玄関だった。
 間近で聞こえたその声に後ろを振り返って目を凝らしたが、声の主だろう昆虫の姿を目で捉えることは出来なかった。まだ少し、蝉が鳴くには早い。しばらくじっとしていても続きがないので、空耳だったのかもしれないとユツは思った。振り向いたついでに念のため、かけたばかりの鍵を確かめて庭を出る。
 左右を家に並ばれた道はひっそりと静かだった。ユツが寝坊をして登校や通勤の混み合う時間を過ぎているというのもあるだろうが、もともとこの住宅街は幼い子どもや老人の少ない地域で、普段からひと気が薄い。
「きっちゃん?」
「…ん、来たか」
「来たかって、待ってたの?」
 僅かな傾斜があるだけの短い坂を下りた先に見つけた年上の幼なじみの顔を、ユツは驚きの顔で見上げた。強面なのに生真面目な男は時間にもきっちりしていて、待ち合わせをしていても遅刻しそうになれば当然のように先に行く。それがなぜと首を捻る先で男は平然とした様子でああと肯いた。
「由都、最近調子悪そうだから、どっかで倒れるんじゃないかとな」
「…それだけで?大丈夫だよ」
「何言ってる。顔色悪い、朝きちんと摂ったのか?今日は何食べた」
「…麦茶」
「食べたっていうか、それは。どうせ遅刻なら腹一杯摂れよ」
「食欲ない」
 日除けもないバス停で待っている方がよっぽど体に悪そうだ。このバス停からユツの家までは近い。待つにしてもわざわざここで待つ理由があるだろうか。学校は違うもののお互いに同じ路線のバスを使うので待ち合わせ場所をここにしている。ただそれだけだ。倒れるのではないか朝は食べたのかと気を揉むぐらいなら、起きろとドアを叩きに来ればいい。
「待ってくれるなら、訪ねてきてよ」
「だめだ、…だめと言われている」
「だれに」
「おやじさん」
「…善弘さん?どうして?」
「どうしてもだ」
「へんなの」
 善弘はユツの養父で大らかといえばそう、又はいい加減とも言える性格の持ち主で夏になったから夏休みだと仕事を放り、まだ学校のあったユツを連れて行方をくらまして周囲から大目玉をくらったことさえある人物だった。社会性に乏しく、ふと思い出したように箸使いや言葉遣いに口を挟むことはあっても、まさか幼なじみに朝を起こしに来て貰うのを渋るほど厳しいわけでもない。
「一人で起こさせろとでも言われてるの?…あの善弘さんがそんな細かいこと」
「おやじさんは勘がよいから」
「勘?…あ、きっちゃん、僕歩いていくから」
 道の向こうから姿を見せたバスを見て、ユツはそれに背を向けた。小さな日陰を選びながら、待っていると間違われないようなるたけバス停から離れる。聞き返しはしたもののユツの意識はバスに向いて、何を答えたのか、そもそも何か答えたかさえ聞いてはいなかった。そんなことよりも、誤ってバスに止まられない方が重大だった。乗らないのにバスを止めて他の乗客に迷惑をかけてしまうことになれば、公共の場では行儀良く、という善弘の言いつけに背いてしまうようで嫌だった。
 白いベストに茶の指定鞄を背負った姿に最寄りの学校の生徒だということがすぐに分かるのだろう。ラッシュの時間を外れてからのバスの本数は少ないので、運転手が気を利かせて多少バス停から離れていても停まってくれることが良くあった。早足が過ぎて前が眩み立ち止まると、バスは横を過ぎていく。ユツはほっと胸を撫で下ろしたがその代わりというように後ろから腕を掴まれ、眉を顰めた。
「何、きっちゃん」
「何日まともに食べてない、これが異常だとは思わないのか」
「やぶからぼうに、異常なら幾ら何でも気付くよ」
 ここのところのユツは食欲が落ちて、食べたいものがない。無理をして食べると戻す。最近では喉さえ通らない。夏ばてだろうと善弘は気を遣って、今日も寝坊を起こさなかった。ユツは体調を崩しやすい質で、こういう時は静かに過ごして快復を待つ。大げさに心配されるには余りに慣れていた。
「…心配してくれるのは嬉しいけど平気だよ、食べられるものをちょっとずつ摂ってる」
「………。ああそうか、それが茶か」
「……学校に着いたら食べようと思って、ちゃんとお弁当持ってきてるんだよ」
 ただ、それに口を付けるかどうかは別だ。そんなユツのやりようを見越しているかのように厳しい視線が返る。
「それで?」
「…病院に行ったからって治るものでもないし、気を付けてるよ僕だって」
「診てもらいに行けなんて言ってない。由都は不思議じゃないのか、怖いと思わないのか。立っているのも辛いくせにそれにまで無頓着で。それをおかしいと思えよ、そうでなければお前は」
「…ぼうっとしてる間にこんなの治っちゃうよ」
 真っ直ぐに差してくる太陽の光が眩しくてユツはちょうど相手から顔を逸らすように日を避けた。怒りを向けられる理由が良く分からない。ここのところこの幼なじみが不機嫌なのは気が付いていたが、今日は特に機嫌が悪い理由も全く分からなかった。向けられる怒気が煩わしく、視線を地面に落とす。
 日向に晒された肌がじりじりと灼け、掴まれたままの腕に汗が滲む。ただそれは相手の手の汗で、ユツのものではなかった。肌に熱さを感じてはいてもユツの体は冷気をまとっているかのように冷たい。食事の量が激減した為か軽い貧血が起きていて、体温が下がっていた。そのせいかユツは少し苛々としやすい。食事が少なくても栄養を摂っていることを示せば幼なじみは満足なのかもしれないが、いちいちそう見せなくてはいけないのかと思うとうんざりする。不機嫌になったユツに気付いたように、腕を掴んだ幼なじみの手に更に力が籠もる。その痛みに、ユツは完璧に腹を立てた。
「もう行くから」
「由都、自分がこの町に来た時のことを知っているか」
「離してよ、もう行く」
「知っているのか」
 強い調子で彼は返す。答えるまでは離さないつもりなのだろう。こんな時にこんな場所で自分の生まれを聞きたがる幼なじみはユツの理解を超えている。怒りを通して呆れかえり、ユツは投げやりに口を開いた。



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