「知ってるよ、千背橋の下でぼんやりしてた」 「それはそう教えられたんだろう。覚えているのか」 今から十二年前、ユツはこの町の外れにある古びた橋の下で善弘に発見された。当時、二、三歳ぐらいだったユツは善弘に訊かれて名前だけは口にしたもののそれ以外のこと、なぜそこにいるのかもそれまでどんな親の元でどんな生活をしていたか、どう訊かれても答えることはなかった。まるで覚えていなかったからだ。それは今もそうでユツは発見されてから数ヶ月後からの記憶からしか思い出すことが出来ない。今更急に何を訊くのかと訝しがりながら、取られた腕を放そうと抗う。幼なじみの手はぴくりとも動かなかった。ユツは腹立ち紛れに冷たく言い返す。 「…覚えてないよ。小さかったからね」 「不思議に思わないのか。幾ら小さくても名前以外口に出来ないなんて」 「善弘さんは、川で溺れたときにショックで忘れてしまったんだろうって」 発見されたとき、ユツはずぶ濡れだった。川に流され、奇跡的に橋のたもとに流れ着いたのだろうと言われている。幼い子どもがそのせいで名前以外を忘れたと思うのは自然だろう。流される前に嫌なことがあったのだろうと想像するものもいたが、どちらにせよ覚えていないのだからユツには何でも良かった。 「なぜ捜す親が出なかったのだろうとは思わないのか」 「善弘さんは、何か事情があったのだろうって」 「会いたいとも、思わないのか」 「会いたいって、誰に?どうして?きっちゃん、あんまりうるさいと言いつけるから、善弘さんに」 「大事なことなんだぞ、由都。どうしてそれが分からない」 冗談めかして受け流そうとしたのを腕を引っ張られ、引き寄せられて真上から見据えられる。ユツは向けられる怒りに困惑して、幼なじみの顔をためらいがちに見つめた。怒りで歪んだ顔には玉になった汗がうかんでいて、今にも滴り落ちそうだ。ユツと違って制服のない学校に通っているのだからもっと涼しい格好も出来るはずが、薄手とは言え長袖のシャツを好むので暑いのだろう。そんな幼なじみの融通が利かないところ呆れ、つい相手の怒りも忘れてそれを口にしてしまう。 「…半袖にしないから」 思わず洩れた呟きにカッとした幼なじみの手が振り上げられる。ユツは目も瞑らず、ただびっくりして自分を叩こうとしているその手を見上げた。これまで一度も手を上げられたことはない。ああした物言いはしょっちゅう言っているから、相手も慣れている。不機嫌になることはあっても、せいぜい怒鳴る程度だ。幼なじみの様子が相当におかしいのだと悟って、さすがにユツも不安になる。手を上げたもののいつまでたっても振り下ろさない幼なじみの方へ恐る恐る手を伸ばしたユツだが、ぐいと後ろへ引き離す腕に遮られ首を傾げながら後ろを振り返った。 「……、?」 「君は怪我をさせる気なの」 「…………」 「きさま…」 「分からない?離れて、…それとも、触れるなと言おうか?」 「由都、」 「離れて」 「…由都、俺はこいつらに借りがある。だからそれを果たす。だが俺はお前の幼なじみだ。何があってもそれは変わらない、それだけは覚えておいてくれ」 「…ん、うん?」 現れた男を凄まじい顔で睨み付けた幼なじみがついと背を向けて道を行く。ユツは首を傾げて、戸惑いながら幼なじみの向かう方向に思うより先に口が出た。 「きっちゃん、きっちゃんの学校はあっちだよ、どこ行くの」 「怪我はない?怖い目にあったね。すっかり血の気が引いて…」 「…………」 「彼は少しそっとしておいておあげね、その方がきっといいよ。ね、ユツ」 「…あなた誰?」 男は風に流されて目にかかるユツの前髪を慎重に除けると、貧血の為に微かに青ざめた頬を心配そうに両手で包む。ユツは学校のある方とは逆さまの道に行ってしまった幼なじみを追いかけるのは諦めて、目の前の男を睨み付けた。突然背後から現れ、手を振り上げた相手から引き離すように両腕で抱き込んだ男はユツを見下ろして眦を下げた。 端麗な男だった。抱き込んだときの力の強さの割には華奢で、柔和な空気を持っている。そう歳も遠くないふうだったが大人びていて、ユツがどう拵えても持てそうもないような品の良さや智慧の香がそっと薫る。不穏なものを感じさせない男だったがしていることは普通とも言えない。警戒を見せるユツに男は自分の挙動不審を悟ったのか、詫びるような声音で口を開いた。 「僕は君を知ってるよ、ユツ、だよね」 「きっちゃんが呼んでたもの。名前ぐらいじゃ知っているとは言わないよ、あなたは誰?」 「セゼ」 「瀬々さん?」 「あたらずも遠からず」 「瀬々さんはきっちゃんの知り合いなの?」 セゼは目を細め、少しためらいを見せてから緩く肯く。幼なじみが相手を知っているような様子で話していたので、ユツも男をまるきり不審者としては扱っていなかった。 「ユツと彼の間ぐらいにはね。…そう、彼はいつもあんな?すぐに手を上げたり」 「しないよ、今日は別」 セゼの声の端にひやりとするような怒りを感じて、否定する。ただそれ以上何かを付け加えることはしなかった。人に話せるほど、ユツは幼なじみのことを知っているわけではない。むしろ、知らないことの方がずっと多かった。そういうことに興味がわかないせいか、例え何か教えられてもすぐ忘れてしまう。ユツの応えに納得したのか小さく肯いて、セゼがユツの手を取った。 「さっきだけなら、それでいい。…歩いて行くんだよね」 「うん」 「駅まで行って電車に乗ると」 「うん」 肯いたユツの前をセゼが歩き出す。 ユツの学校はバスに乗れば乗り換えすることもなく学校前に着くが、家から駅、駅から学校までの幾分かを歩くことで電車を利用することも出来る。調子が良くないときは電車を利用することが多かった。多少歩いても、出来るだけ乗り物酔いは避けて通りたい。バスよりも電車の方が酔いは弱かった。手を引かれるまま歩き出したユツは一度だけ幼なじみが去った方を振り返り、後は抗うことなくセゼに従った。セゼは駅までの道を良く知っているようだった。 |