「王子と温かい森の花」



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 慣れた足取りの割には物珍しそうな顔で、セゼは周りを見渡しながら少し前を歩いていく。家紋を嵌め込むなどの意匠を凝らした瓦屋根を見上げて嬉しそうに感想を述べたりなどする姿はまるで外国からの旅行者のようだった。
「きれいな町だね」
「きれい?」
「緑も多くて」
「田舎なんだよ」
「風がやわらかで、建物の背もそう高くない」
 ユツには見飽きた景色でそう言われても良く分からない。少なくとも地元民ではないらしいセゼの言葉にふうんと生返事を返すのが精々だ。そんなユツに不満げな様子を見せるわけでなく、セゼはにこにこと肯く。
「僕はね、ずっとここに来てみたかった」
「あー、瀬々さん蛍観光?」
 最近この街に蛍を見にやって来る者が増えている。口伝てにたくさん見られる、と広まっているらしいのだ。だがセゼは首を振る、そうではないようだった。怪訝な顔でユツはセゼを見たが、セゼはそれには答えずふわりと笑う。
 凝ったふうもない古いアスファルトの道は、所々ひび割れて下から雑草が覗いている。狭い範囲に詰めて建てられた家に左右を挟まれたその細い道からは神社の木々や里山の天辺が見え隠れして、どことなくひんやりとした風が流れてきていた。緑が多いと言えば確かにそうだろう。前から来た車を避けてセゼは車道側に立つ。
「でも、…こんなに暑いところだとは知らなかったな」
「暑いのには僕も参ってる、あんまり暑いときは水を浴びるといいよ」
「水を?そうやって涼んでいるの?」
「家の隣が竹林だから、余所よりは涼しいらしいけど。我慢できないから」
「そうだね、…」
 騒がしい音を立てて過ぎたトラックに、セゼの声が掻き消える。大したことは言っていないのだろう。言い直すことはなく、セゼは過ぎていく車を眺めた。
「…大きな車だね」
 道の狭さの割に大型の車が通るのは抜け道になっているからだ。ユツの髪についた埃を指先でつまんで取り、セゼは困惑したふうに眉を寄せる。危ない道だとでも思ったのだろうがそれを口にすることはなく、元のように少し前の位置を行く。似たような態度を幼なじみも取ることがあり、道の危険さに不満を抱いたことは聞かないでも感じられた。
「ユツ、学校は楽しい?」
「学校?」
「友達とかで遊びに行ったりするの」
 見た目よりもずっと大人びた、と言うよりも世代間のずれた問いにユツは目を見開く。数年前までの義務教育がまるでなかったことのように振る舞うセゼにユツはほんの少し呆れてみせる。どう見てもセゼは少し上、せいぜいが2つ上の幼なじみと同じぐらいの歳に見えた。
「瀬々さんって、もしかしてずっと年上?」
「歳?いいや?…どうして?」
「親戚のお兄さんみたいなこと言ってるよ、それか懸命に子どもと関わりを持ちたい不慣れな親みたいな。自分のことを考えてみれば分かるのに、まるで知らないことを聞くみたいに聞く」
 セゼは肯くわけでも否定するわけでもなく楽しげに笑って、手ぶらの手をユツの前にかざして見せた。思いがけない行動に、ユツはセゼの顔をそっと窺う。
「…なに?」
「見える?」
「…?」
「指先、爪の上」
「…何か描いてある…、花?」
「森の文様だよ、輝の徴ともいう」
 描いたようにも、痣のようにも見える美しい螺旋が左右全ての爪の上にあった。それはセゼのすらりと細い指先を薄水色に染めて、硝子細工を見るようだ。
「見てどう思う」
「奇麗」
「ユツにもあるんだよ」
「ないよ」
 即答した。改めて自分の手を見るまでもない。自分の指先にそのような美しい文様がないことはユツが一番良く知っている。
「そんなにきっぱり言わなくても。気付かないうちにあるとか」
 セゼが余りに残念そうで、ユツは苦笑した。嘘にもならないような他愛のなさに気が抜けて、軽い調子で手をかざしてみせる。
「だって、ほら、ないから」
「うん、形の良い指先だけが見える」
「瀬々さんのそれは自分で描いたの?」
「そうじゃない、これは徴だから。…ユツにも本当にね、あるんだよ。指でも、額でもなく、その体、背に、一面」
 セゼに見せる為、上げた手のひらを掴まれ引き寄せられる。ユツは息を呑んだ。セゼの肩の向こうに川が見えた。いつの間に来たのか橋の上にいた。清ながらも激しい水の流れは、見覚えがある。狭い谷の上に渡された古い橋は町の外れにある山のもの。千背橋だ。突然のことに驚いてユツは言われたことに耳を傾ける余裕もなく、辺りを見渡した。何度見てもどう見ても、つい少し前までいた道ではなかった。
「…どうして、ここは駅とは逆の」
「何も分からないことが徴の一つでもあるんだと思う。だけれど、もういいんだ」
「…もういいって、」
 訊ねたユツの手を取ったまま、セゼが欄干の上に足をかけた。そのままユツの体を掬いあげ危なげない様子で立ちあがる。たった一歩で向こうは川だ。迅い流れは落ちればただでは済まないことが見て取れる。橋の思いがけない高さに体を強張らせたユツにセゼはただ抱え込んだ腕の力を込めた。
「目を瞑って、酔うといけないから」
 止める間もない。ユツの体を抱えたセゼの体が倒れる。川面を見据え、棒を倒すように真っ直ぐ傾いだセゼはユツもろとも、頭から落ちていく。欄干から足が離れた瞬間咄嗟に目を瞑り、ユツは叫び声一つあげることなく落下に従う。そのすぐ後に全身を打った重たい衝撃にそれが水なのか違うなにかなのか知ることなくユツは意識を失った。何が起きているのか理解することなど到底出来なかった。



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