「王子と温かい森の花」



- 4 -

[back]  [home]  [menu]  [next]



 見上げるほど高い崖の上から白い飛沫を上げて水が落ちていく。
 それは森の狭間にある大きな滝だった。滝壺から流れる川は浅く、水底が陽に照って灰色の小石が見える。千背橋は町中を流れる川の源流で下を辿っても滝に行き着くことはない。更に上流を目指せば滝があったが、少なくともごく細い流れのもので滝と呼ぶのもおこがましい。ただそういうことを知らなくてもここが住み慣れた町でないことは分かることだった。川の左右を挟んだ森はどこへ続くのか延々と深い緑が広がっている。それを形作る木々は樹齢の長ささえすぐには計れないような巨木で、苔むした幹は融ろけたような黒みと輝きを持っている。それはこの世にあるものだとさえとても思えない景色だった。横たわっていた川原から呆然と辺りを見渡していたユツはその手を引いて立たせ、服の汚れを払い、怪我がないことを確かめ安堵したような笑みを見せるセゼを睨み付けた。
「セゼ、ここはどこ。駅に一緒に向かってくれるんじゃなかったの」
「…少し、思い出しているようだね。懐かしい」
「何が」
「ここでも瀬々さんだったら、訂正を入れないととは思ってた。良かった、顔色も少しましになった」
「…ここ何処だって訊いているんだけど。こんなところ僕は知らない。元の道まで案内してくれなくちゃ帰れもしない」
 苛立ちながら言い放ったユツにセゼは強く首を横に振る。
「知っているはずだ、ユツはこの森で生まれたのだから。今も僕はその日のことを良く覚えている。忘れることなんて出来ないよ。王子の生まれた日は、素晴らしい日だったから」
「……、生まれた?この森で?王子?」
 訝しむユツの頬に手を寄せ、愛しそうにセゼが目を細める。その眼差しに覚えがあるような気がして、ユツは身動いだ。咄嗟にセゼから体を離した。何かが体に嵌っていくよう満たしていくような感覚に気分が悪くなる。込み上げる不安感に訳も分からずユツは後退った。
「ユツ」
「何だか良く分からないけど、善弘さんが心配するから帰る」
「…向こうへは、門番に門を開けて貰うか、歪みに紛れる他、行くことは出来ない。今までユツがいた世界は本来、この世界の住民には馴染めない場所なんだよ。何もかもが違うから」
「違わない、…そんなことない、だってさっきまでいて」
 言われた言葉に抗って首を振るユツに困ったように眉を寄せたセゼは考え込むように口を閉ざし、唐突に後ろを振り返った。ユツの手を取り、森の先をじっと見る。緊迫したその顔にのまれて同じように森を見たユツの先で、ひょい、と人が現れた。何もない場所から小さな段差を飛び降りたような仕草で男が一人、宙を割って現れる。その顔にセゼの緊張は解けたが逆にユツは体を強張らせた。
「今、どこから、出た?」
「よう、久しいなユツ」
 片手を上げて笑う。若い男だ。少なくとも十代でセゼと近い歳だろうが、黒に近い茶で全身をまとめ上着の前を幾つもの革ひもで交差させてとめ、緻密な刺繍が目立たない色で入れられた布地は皺一つなくぴんとしている。目つきは鋭く、動きも機敏で隙がない。一目で気圧され動けないユツの呟きに答える者がないまま、全く見覚えのない男がすぐ近くまで寄る。男はユツの前で愛好を崩した。
「大きくなったなあ、相変わらず可愛らしい」
「ロウ、もっとましな現れ方をしてほしい」
「いつ帰るんだか連絡寄越さないからだろ。慌てて来たんじゃないか」
「下手に知られたら…、大体どうしてここが?」
「まあ、そこはそれ。同居人があれだから」
 男の答えに納得したように肯き、溜め息を吐いてセゼはユツに微笑みかけた。
「ユツ、ロウは森の守護を司る森衛士の一人なんだよ、王子の配下だから心配しなくても大丈夫。こき使ってあげなね」
「の前に、それじゃまずいだろう」
 骨張ったロウの手が腕を掴む。抗う前に放られ、ユツは訳も分からず水の中に手をついた。川に投げられたのだ、ということに気付いたのは水に背中から沈んで手足をばたつかせたのを、渋い顔をしたセゼに引き上げて貰ってからだった。
「まだ力が使えないのに、無茶をする」
「痛くなかったろうが?王子、水の衝撃なんてなかっただろう?」
「驚かせないでと言ってるんだよ、まだ帰ってきたばかりでここに馴染んでもいないのに」
 文句を言うセゼをまあまあと言って宥め、ロウはユツの前に立った。ロウを責めるにしてはセゼのしたことにもユツは充分驚かされている。ロウもセゼも大して変わらない。だがロウがこの次にしたことに、さすがのユツも絶句した。ロウはユツの服に手をかけると、まるで濡れた紙を破るような容易さでユツの服を裂いたのだ。森衛士というものが何かは理解できなくても屈強な体つきから、強いだろうこと分かる。だが、服を引き裂いて破り剥ぐそれは、そういった膂力などの強さとは全く別のものだろう。何が起きているのか分からず唖然として立ちつくすのを幸いとばかりに全ての服を剥がした男はその布きれをまとめてセゼに放る。セゼは受け取ったそれを宙に放り投げ、布は目の前からかき消える。ユツはもうそれには驚かなかった。人が何もない宙から現れるのだから、何もない宙に物を消す程度、有り得る。細切れになった布を放ったのと同じ様な手つきでどこからともなく大きな布を取り出したセゼは、それでユツを頭からすっぽりと包んだ。
「風邪をひくといけないし、あがろう」
「……好きで入ったんじゃないけど」
「怒るなって、やばいんだ。服にはあっちの匂いが染み込んでいるから」
「あっちって何、…制服だったのに、折角買って貰ったのに」
「まあまあ…それは、おいおいに」
 苦笑った男は森を振り返ってユツを自分の背に押しやる。何かから庇うようなその動きは急で、抗議の声をあげようとしたユツをセゼが横から抱き込んだ。
「…いい子だから、静かに」
「森衛士と徴持ちがお揃いらしいが、…そんな小さな子に何をしている?」
 森の中から白いものがぼんやりと見え、それからそれが白い端麗な服を着た男だということが分かる。形はロウの着ている物と似ていた。だが、ロウのそれよりも怜悧で美麗だ。青年というよりは少年に近いその男はロウの後ろにいるユツを見つめ、服を着ていないことに気付いて眉を顰めた。



- 4 -

[back]  [home]  [menu]  [next]