空の色を融かして(サンプル)






   「それはごはんではなく、おやつです」



 青く晴れ渡った空から、花びらが降ってくる。
 ああ、またこの季節が訪れたのかと。
 ゆるやかに小さな薄紅色が視界を通り過ぎて、見慣れた石床や壁を染めていく。
「毎回、掃除が大変です」
 いつも通りの無愛想な顔で、わざとらしくため息を吐いてみせるのがおかしい。
 そう言いながら、片付けた花びらの中でもきれいなものを、籠に入れて飾っておいてくれるのだ。それを見つけて、これなんかとびきり可愛い形だ、と言えば、ほんの少し口もとをつりあげる。
 静かでやさしいひとときは、ときおり多くのことを記憶にのぼらせて胸をざわつかせた。それはとても居心地の悪いものでもあったけれど、こうやって花が降る頃になると、少しだけ嬉しい。
《もっとたくさん降ればいい》
 大きく枝を張ったその姿を思い描けるように。
 ふたたびつぼみが芽吹くその日まで、時を重ねていく喜びをしらせてくれるように。
 この花びらが降ると、明日がふわりと色づけされていくようで。
 そのことが嬉しかった。


* * *


 空はどんよりと曇って、いつもどおり街を薄暗く浮かび上がらせる。
 行き交う人々の足取りで砂埃が立つから、通りに面した窓は朝の、それもうんと早くにあけるに限った。
「でもちっと、風がやわらかくなったよなあ」
 緑を増やしていったその人はサノメの皇子というらしい。
 誰が悪いとか、何が起きているのかとか。いったい本当のところはどうなのか男には分からないことが多い。
 それでも少しずつ緑が増えだして、街行く人の顔にも少しやわらぎが増えてきたのは分かる。
 まだ不安の影はそこかしこでちらついているとはいえ、ここは小さな街だし、街道にほどよく近いのもあって余所から人が流れてきやすく、小さなことにはあまりこだわらない。
 だから男も、緑が増えていくっていうのはいいもんだなあと、そんなことをぼんやりと思う程度だ。
「さて、やってみっかあ」
 気合いを入れるように伸びをして、男は薄い黄色を帯びた乳白色のかたまりを丸い器から取り出す。
 あらかじめ適当な大きさ切り分け寝かせていたから、それをひとつずつ丁寧にこねてたまっていた空気を抜く。そのまま台の上に粉を振って平らにのばし型の中へ慎重にたたみいれた。
 できあがった分から火を入れておいたかまどに並べていくが、焼き上がりまでは気が抜けない。なにしろ細かな調整は利かない家庭用のかまどだから、ぼんやりしていると焦がしてしまう。
「ん、んー」
 このぐらいだろうというころを見計らって取り出す。焼き色は悪くない。
 中まで火は通っているし、型からもうまくはずれてくれたから、崩れもない。
 あら熱をとるために窓辺に並べながら、試しにかけらのひとつを口にほうりこんで首をひねる。
「なんか違うような気がするんだよなあ」
 何かが足りない気はするのだが、それが分からない。
 使ったばかりのかまどまわりを手早く片づけながら、ああでもないこうでもないと口の中に残った味を追う。幼なじみはよくあきないものだと笑うが、それでもできあがった試作品たちは残らず食べてくれるのがありがたかった。
 なにしろこれは誰も完成品を知らない食べもので、まだあまりおいしいとは言えない。
《これは……、花か?》
「え?」
 どこからともなく声がしたような気がして顔を上げる。
 男は目を丸くした。
 ありふれた早朝の街並みの中に、ぽうっと光が射すようだ。
 淡い金の糸で縁取りされた薄布がまばゆく朝陽を跳ね返し、その場に光をこもらせる。頭から薄布をかぶって顔を隠した、おそらくは青年が目の前に立っていた。
 彼が身にまとう服もこの辺りでは見ないぐらいあでやかだ。つややかな光沢を放つ布地に銀の糸で丁寧に縁模様を縫いとられた白い衣はとても上等そうで、まるで湖で羽を広げる大きな鳥を見るような美しさに目を奪われる。
 まるで金色の鳥のようなひとだ。
 布の端からほんの少しのぞいた髪も、光の色をしているように見えた。
「あ…えっと。これ、これは花なんですけど、パン、って言う食べものでして。家にあった古い本に作り方が載っていてですね。サノメの皇子様ってご存じです? 最近この街の近くも通ってくださったみたいで、それでなんか、この食べものの材料になる草がはえてくれまして…! 俺、それでここずっとこれつくってるんです」
《……ふん》
 聞かれてもいないのに、勢い込んで話してしまう。
 彼は少しだけおもしろくなさそうに鼻を鳴らしてから、じっと、窓辺に並べたパンを見下ろした。
《これは枯れない花か》
「そりゃあ、食べものですんで」
 わりとすぐ傷むんですけどね、と言って男は苦笑う。
 黄金色に焼き上げたパンはどれも花の形をしていた。
 緑を増やして、世界を救ってくれるのかもしれないサノメの皇子。
彼の姿は残念ながら見ることはできなかったけれど、きれいなひとだとか、いや、すごく可愛いとか、肝が据わった方なんだとか、そういううわさ話だけならたくさんあふれていて。
 彼が残していってくれた緑や花は見るたびにどこかほわりと胸にあたたかいものを寄せてくれるから、それはどんなことよりもはっきりと、知らないそのひとへ、ありがたいというのか、嬉しいというのか、そういうやわらかなものを抱かせた。
 その思いを形にしたくて、この食べものを作りたいと思ったとき花にしようと思った。新しく芽生えた緑の中からこの食べものは生まれたし、できることならもっと多くの場所に広がっていってくれたら嬉しい。
 花はやがて種をつけ、新しい花を広げていく。
 せめて食卓の上から、花が広がってもいいじゃないかと思うのだ。周りからは夢見がちなと笑われたが、そう思ってしまったのだからしかたない。
「よろしければおひとついかがですか。まだ試作段階なんで、味は正直、あんまりなんですけど」
 育ちの良さそうなひとだから、こういった街の食べものは口にしないかもしれない。
 こんな得体が知れない食べものじゃ余計にためらわれるだろう。
 でもなんとなく感想を聞いてみたかった。
(こんなに興味深そうに眺めてくれるひとなんか、他になかったし)
 ひとつ摘んでそうっと差し出す。
 しばらくそうしてじっと男の手元をにらむように見つめている彼を前に、そうだ、と思いつく。
「あれでしたら包みます…、ん、で!?」
 薄布が小さくかきわけられたと思ったら、ぱくんとかじられた。
 まさか、さしだした指先に直接口を近づけられるとは思わなくて、それが妙に艶っぽくて心臓が跳ね上がる。
 ほんの一瞬しか見えなかったけれどもすごい美形だった! と男は後で何度も思い返して興奮気味に語ったが今はそれどころではない。
(落ち着け、落ち着くんだ。ただ食べてもらっただけだ。小さくほんのちょびっとかじられただけだ。この手のひらから直に、小鳥がついばむようにつつましくだな、なんでこんなに胸が飛び出しそうなんだ俺…!)
《かたい…》
「そっ、それは確かに」
 小さくかじられた跡が残るパンと青年を交互に見て半ばぼうぜんとしていた意識がすっと戻ってくる。
 仕上がったパンのかたさはずっと気にしていたことだった。なるべく長持ちするものと考えていればそうなってしまうのだが、本当はもう少しやわらかくしたい。
《水分が足りていない》
「えっ」
《あとこねも足りていない。よわい》
 男はぽかりと口をあけて手元に残されたパンを見下ろす。
 水分。それにこね方…。
 焼き加減だとばかり思っていたので、目から鱗だった。
「あ、ありがとうございます。すぐやって…みま…、あれ」
 なんてすごいことを教えてもらったのだろう。
 これからすぐ取りかかりたいと顔を上げたところで、男はきょろきょろを周囲に視線を巡らせたが、青年の姿はどこにも見えない。
(足音ひとつさせないなんて、本当に飛んでいったんじゃなかろうか)
 凛と佇む大きな鳥のようなひとだったものなあと思って、男は残された花のパンに目を落とす。
 新しい生地の作り方が頭の中に幾つもうかんできて止まらず、試してみたくてたまらなくなる。
 男はその日から生地の研究に打ち込み始めた。




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