「ねえ、父上。わたしはどこか、へんでしょうか?」 広々とした寝台に埋もれるように体を伏せたすず雪の背を見下ろして、羽づまは本読むためにかけていた眼鏡を外した。 星映たち三人は仮花から花主になり、今のすず雪はみつばちとして何ら問題もない。 審議そのものは、あらかじめ根回ししていたようで、型どおりのやりとりだけで済み、すず雪としては気が抜けてしまうぐらいだった。取り引きそのものには瑛千のところでつかまえた男を使ったらしいとは気づいたものの、詳細は知らないほうがいいだろうと兄たちから言われている。 「これはまた突然だね。どうしてそう?」 「それは、その…瑛千が……」 すず雪は瑛千を罪人としては届け出なかった。 彼は蜂主としては優れている。行きすぎるところあるとはいえ、あの熱意をつぶしてしまうのも、放っておくのも、もったいない。 それにこう哉のこともあるから、目の届くところにいてほしかった。 みつばちには必ず、その力が薄まる日が来る。その理由や、時期はまだ良く分かっておらず、みつばちをつくる、ということに取り組んできた瑛千はその点、珠守たちより詳しい。瑛千という男は厄介でもあるが、みつばちにとって有益なものをもたらしてもくれるのではと、そんな予感もある。 すず雪としては、自身の私邸にあたる香津木家の離れに瑛千を住まわせ、しばらく監督責任も負うつもりでいたのだが、捕まえないことには頷いてくれた星映たちもこれには同意してくれず、巡り巡って、みつばちとしてのつとめを終えた者たちが住む宮の一室があてがわれることになった。 ジッヘルのことがあって、そこに住む何人かと手紙のやりとりを続けていたというのもあり、彼らは自分たちにも興味を示す瑛千がおもしろく思えたらしい。それならここで預かってみたいと申し出があって、瑛千とこう哉はそこで過ごしている。 こう哉は、瑛千が必要としている限りはともにどこへ行ってもいいと考えているようだった。ただし火事のあとに用意してもらった家だけは変わらず支払いを続けていて、まめに掃除にも行っているらしい。 あや嶋はたいそうあきれていたが、無事に過ごしてくれるなら、と、今のところは口を出さないつもりでいるようだった。 「父上、わたしはどうしたらよかったのでしょうか。顔も見たくないと瑛千を遠ざけないわたしは、どこかへん?」 羽づまは寝台の覆いを夜風が揺らすのを穏やかな眼差しで追い、すず雪の髪が小さく巻き上がるのをおさえるようにゆっくり撫でる。 幼い頃にしていたように我が子の隣にもぐり込んで、眠りを呼び寄せるようにまだ細さが残る背で手のひらを数回、ぽんぽんと規則正しくはずませながら、そうだねえと呟く。 「会えばまわりは渋い顔をする。けれど、なかなか面白い男であるのは確かだ」 二人きりでは会ってくれるなと言うので、羽づまは珠守と花主を必ず一人はつけて、瑛千と話す。それは今も前も変わらない。 すず雪はそれにならって、会いに行くときは誰かに頼むようにしているのだが、谷津江などは見るからに不満げだった。あの男のことを早く嫌いになれ、と無茶を言う。 「あの男にとってはね、みつばちっていうのは面白くてたまらない生きものなんだよ」 「わたしたちを、生きもの、として分けて考えているのですか。瑛千自身とだって、それほど大きくは変わらないはずでしょうに」 「大抵の人にはつまらなくみえるありふれた事柄だって、詳しく調べてみたいと思う者はいるものさ」 だからといって、いちいちその好奇心に付き合ってやる義理はなし。羽づまは時々その体を調べさせてやってはいたが、玖おんと同じように身を任せるつもりは端からない。 すず雪は相づちを返しながら、自分を見つめる瑛千の熱っぽいまなざしを思い出す。 あの日、あの時に。体がつぶれてしまそうに多くの魔法を飲みこんで、すず雪はたぶんふつうでなかった。助けられるのがもう少し遅かったら、すず雪は瑛千の魔法もすべて飲み干そうとしたのではないかと思える。 そうなったら、どうなっていたのか。すず雪は今でも分からないし、瑛千はその先をまた見せてほしいと言う。 「ちょっとのことなら付き合っても良いかと思える。別に嫌いな相手でもないからね。それは何もおかしなことではないだろう」 「父上。それはわたしも、そう思えるんですけれど、でも好きなのかっていうと、やっぱり違うんです。……花主のそばにいるのと、違う」 「瑛千は蜂主だよ。同じであるはずがない」 「それが意味を持つのですか。なんの契約もしていなくっても?」 「肌が触れ合う距離に近づけば、おのずと違いがでるものさ。わたしたちは、ひとりひとりがみずからの巣のあるじ。好みの花を行き交いはするけれど、そこに蜂主みたいなまとめ役は必要ないし、好きや嫌いなんてものは感覚的なことだからね。わりと単純な話だよ」 好きなら好きだし、嫌いなら嫌いで、その秤は人によって持っているものが違うし、そのときどきでも傾きが違う。 瑛千はたまたますず雪にとっても、羽づまにとっても、嫌いな相手ではなかった。ただそれだけで、花主といるように過ごしたいかと言えばまた別。 「瑛千もそんなふうなことを言っていました。……生まれつきのみつばちは、いわば女王蜂だと」 蜂主の手を借りなくても、みずから巣をつくりあげ、世界を築く。 瑛千は住みやすい巣を提供してくれる。たまにはそこにいてもいいと思えるし、面白いとも思う。けれどそこで満足できればといえばそうではない。 「花果院で言われただろう? 選びとることに意味があるのだと」 「それは、……花主を決めるときのものでしょうか? わたしの気持ちがだいじなんだという」 「わたしや、すず雪みたいなみつばちはね。とてもわがままで、好みにうるさくって、気に入ったもの以外はどうだってよくって、魔法使いなんて端からばりばりって食べて、飽きたらぽいしたってぜんぜん平気なものでねえ」 「あのう。父上? それじゃあんまりにも悪食では?」 そこはふつう、その振る舞いそのものを良くないことだと眉をひそめそうなものだが、すず雪にそういった感覚はない。 悪食扱いされたのでは食べられてしまった魔法使いも浮かばれなさそうだが、案外喜んで飛び込んできそうにも思えるから不思議なものだった。 それではたぶんお腹を壊します、と真面目な顔になるすず雪の頭を撫でて羽づまは微笑む。 「まわりがどう思おうがね、すず雪の巣をつくるのは、誰でもないすず雪だけだから。瑛千は花主ではない、だから欲しくはない。けれど、いらなくもない。ただその事実だけを飲みこんでればかまわないんじゃないかと思うんだよ」 すず雪は父をじっと見つめて、小さな息を吐く。 「わたしには、なんだかそれはとってもむずかしくって……」 「それは、すず雪がもう少し歳を重ねたら分かることかもしれないけれど、分からなくたって何かが大きく変わったりはしない。……だいじにしたいと思えることを、だいじにしたらいいのさ」 そんなものなのだろうかとすず雪は思って、やわらかな枕に頬をむぎゅりとうずめる。 ほんの少し甘いような香りがすうっと広がって、心地いい。もしかしたら父の蜜はこんなふうに薫るのかもしれないと考えると、自分はどうなのだろうと気になったが、手のひらをかいでみてもちっとも分からない。 すず雪の行動に苦笑を見せながら、羽づまはもうお眠りと声をかける。 「明日は早いのだから」 「はい。……あの、父上」 少しだけ言葉に迷ったが、すず雪はおやすみなさいとだけ呟いて、大人しく目をつぶった。 夜が明けるにつれ、男たちがひとつずつ灯籠に灯された火を消していく。 魔法を使えば一瞬で済むが、少なくともこの街ではそんなものは見かけない。 少し前のにぎわいが嘘のような静けさだった。 薄く朝もやが満ちた道は白くぼやけて、たどりなれたはずの風景をどこか遠くする。 客用の表門はぴたりと閉じていて、悩みながら裏へとまわった。立て付けが悪くなっていて、こつがないと開けられなくなっていることをいいことに鍵を直していない裏門がそこにある。そっと押してみれば、なんなくひらいてわずかにあきれた。 それでも、中に足を踏み出すのはためらわれた。 戸惑う背を押すように、聞き慣れた音が耳を打つ。葉先に残った朝露が跳ねるようなまばらで小さな音は、近づくごとにはっきりとした響きを見せて、何度思ったか分からないぐらいの喜びと苦さとが胸を満たす。 到底追いつけない。けれど手を伸ばさずにはいられない巧みさに息がつまった。 「……いつまでそこにいるつもりだい」 中庭で立ち尽くしていれば、あきれたような声がかかる。 はっとしたすず雪は履き物を脱いで揃え置き、ゆっくりと戸に指をかけた。 「師匠」 「お茶。熱いのがいい」 はいと頷いて、手ぬぐいで指を拭い。ついでにそのまま火鉢にかけた鉄瓶をとって、手際よくお茶の支度をととのえる。 まんじゅうがあると言い出すので菓子棚をのぞいて出せば、中身のあんこが思っていたのと違ったようでしぶい顔をうかべ、もうひとつの棚をのぞけと言う。兄弟子のひとりがちまちまためこんだお菓子がそこにあり、言われるままそれを出す。 「後でにいさんにもらったって言いませんと」 「かわりにこっちのまんじゅうをつめておけばいいだろ。増えるんだから問題ない」 「たぶん大ありです」 そのことで何度口げんかになったか覚えてないとでも言うのだろうか。 弟子と師匠とはいえ、付き合いも長いし、そろって意外に食い意地がはっているわで、こと甘味になるとうるさい二人だ。どちらも大人げないのひと言で他の弟子たちは放っておく気まんまんだが、一番下のすず雪はいつだって巻き込まれて、長い列に並ばないといけない菓子屋に走らされる。 「すず雪」 香はるはすず雪がいれた茶に大きく息を吹きつけ、ゆっくりとすすった。 すず雪は顔を上げ、その場に座り直す。 「髪が伸びたねえ……意外に似合うじゃないか」 たっぷり手をかけられ艶を含んだ髪はからまりあうことなく、するりと頬をすべって首筋をわずかにのぞかせる。 細く頼りない薄い肩は髪の色に合わせた藍色の着物に覆われて、仕立てられたばかりらしい真新しさはあるが、しっくりと馴染んでいた。 この年頃の少年にしては小柄で、けれど貧相というのとも少し違う。鳴り方として座敷にあがるにはちょうどいい目立たなさと、そこそこ小綺麗な顔立ちはほんの少し見ないうちに、やわらかなつぼみのような彩りをにじませはじめているようだ。 もうしばらくもすれば、座敷に呼びたがる者が増えはじめるに違いない。華妓たちは自分たちを邪魔しないがなんとなく場が和んでいいと言うだろうし、客はちょっとしたときに視線が吸い寄せられて、その笑みがふんわり胸に残る。 すず雪が少しずつ形づくってきた鳴り方としての在りようだ。もの覚えは悪くないが、そのせいもあって情ではなく理論でたどろうとするから、芸事にはあまり向かない。そう思えたが、いつかはできるだろうとのんきで、気づけばもう何年も同じ水にいる。 「ここへすんなり戻れるとでも思ってるんなら、大間違いさね」 「師匠。わたしは、……」 「どこの誰になったんだい。まさかまだ花主とやらが決まってないってわけじゃないだろう」 すず雪があげた三人の名に、香はるはあきれをにじませた息をこぼす。 「おまえねえ……、なんでよりにもよって、そういう面倒くさそうなのを引くんだい」 「えっ、と……その、なんとなくというか、……」 「その辺の顎で転がせるようなのにしとけばいいものを。しつっこさの権化みたいなもんだよ。ああいう手合いはにこにこ笑ったまま、じぶんのもんだって名前をはりたがるじゃないか」 「なんだかずいぶん妙な実感がこもっているように思うんですけれども…師匠……」 「長く生きてりゃ、色々あるんだよ」 体を起こしたすず雪は香はるを見上げ、その傍らに置かれた三弦琴に目をとめた。 紅みを帯びた木の棹は使い込まれた艶がある。音を響かせる胴回りには香はるの腕に惚れ込んだ職人がいれたという、もはや執念と言えるだけの緻密さで彫り込まれた天女が舞い遊ぶのが見てとれた。 香はるはこれをふだんの座敷には使わない。それをつくらせたという贔屓の客がいて、そのときに持ってゆくとは聞いていたが、すず雪はそこへ同行をゆるされたことがないので実際のところは良く知らない。 長く生きてきたと言う香はるは、まだまだこれからだって先は長いはずだが。それでもすず雪よりはずっと多くのものを積み重ねてきているのだろう。 「師匠。……わたしは、みつばちで。花主は必要ですが、誰でもかまわないわけじゃ、ありません。鳴り方として過ごしてきたことも含めて、みつばちとしていられる花主と会えたんだと思っています」 すず雪がいつまでみつばちでいられるかは分からない。 瑛千は当分平気だと言って、もっとさわらせてくれたらきちんと確かめられるかもとねだり、久夜から相当にらまれていたものの、少なくとも今のすず雪が彼らを花主に選んだみつばちであることだけは確かだ。 みつばちとしての身が早く過ぎてしまえばいいと望んでいるのか、そうなるのは怖いと感じているのか。たぶんどちらもなのではないかと思う。すず雪はまだ、浅いといってもいい道しか歩いていないかもしれないが、今はこの先を花主とともに行けたらいいと感じている。 「彼らを花主として持つみつばちとしても。師匠から芸を学んだ鳴り方としても、過ごしてゆきたいと考えています」 「みつばちの鳴り方なんてもんが通じるものか。どっちも半端になるだけだろが」 投げつけられた鋭いまなざしに、すず雪はぎゅっと手のひらをにぎる。 そう言われたら言葉もない。けれど、真っ直ぐに顔を上げた。 「端っから半端もんです。それでも胸を張ってゆきたいんです。師匠、お願いします。どうかわたしを……いちっから、ここへ弟子入りさせてください」 たたんだ膝の前に指先をそろえ、深く体を伏せる。 頭がくらみそうなほど息が狭まった。 指先から白く血の気が抜ける。香はるがだめだと言えば、どんなに望もうがすず雪はここで鳴り方にはなれない。師匠との繋がりと縁とがここで身を立てていく唯一のものだからだ。 たとえ破門されても鳴り方として積み重ねてきた芸が失われるわけではなかったが、一人前の証として香はるにあつらえてもらった垂れ紋は一生身につけられなくなる。 とんだわがままだとは分かっていた。 香はるがすず雪という厄介ごとを背負い込む義理はまったくない。そもそもみつばちとして生まれ、そう育てられてきたすず雪が花主を持ったにも関わらず、まるでそれを放り出すように飛び込んでくることを良く思うはずがなかった。 どっちつかずで、あやふやで。結局、周りに迷惑ばかりかけてぐずぐずになっていくのだと、香はるなら眉をひそめる。 「すず雪よ。いつからそんな大口たたけるようになったんだい」 「…………」 「ばか言うんじゃないよ。んなめんどう、誰が引き受けると思ってるやら」 香はるは大きなため息をひとつ吐く。 うんざりさをこれほど感じることはないぐらいの、たっぷりとした余韻が部屋を満たす。すず雪はびくりと肩を揺らし、震えそうになる唇をかたく結んだ。 「おまえさんをここまで育てるのにどんだけ手間かかったか、分かってるかい」 「…………」 「思い出せないんなら言ってやるがね。指先をちょっと切っただけで途方に暮れた顔するわ、客に知らず知らずのうちに酒飲まされて香りをだだもれさせて、谷津江が捨て身の色気作戦をしたりねえ。まったくいつだって大騒ぎさね」 愛らしく笑みをつくった谷津江が客に媚を売りはじめたときには、さすがのすず雪も目を丸くした。これは誰だとぼうぜんとしたおかげで正気付き、その場はなんとか事無きを得た覚えがある。 騒ぎの大半は谷津江が引き起こしたものだが、言われてみればすず雪だってけっこうあるのは間違いない。色々と思い出すと頬がかっかと熱くなって恥ずかしさと居たたまれなさで身が縮む。 「毎日そんなで、これからまたイチから教える余裕なんぞあるもんか。このまませいぜいがんばってもらわなけりゃ、わりにあわないったらない」 香はるは大きな音を立てて茶をすすり込む。 そうしてからいかにもつまらなさそうに、ふんと鼻を鳴らした。 「そろそろ朝飯の支度をはじめる頃だ。とっとと行って手伝ってきな」 「……え? と…」 「なんだい。まさかちょっとした外仕事をしてるあいだに、台所の場所を忘れたとか言い出すつもりかい」 すず雪は無言で首を振り、うつむいたまま瞬きを繰り返す。かけられた言葉がじわりとしみこんで、ぼやけそうになる視界を振り払う。 そのまま立ち上がりかけたすず雪に、待ちなと香はるが鋭く言葉を差した。 「そういや、うちの弟子は師匠に帰宅の挨拶もできないうっかり者だったろうかね」 すず雪は香はるの顔を見上げて、いいえと精一杯の声で応えた。弱々しいぐらいの小ささだったが、それ以上は震えてしまって出せそうになかった。 若い頃の華やかさはないが、歳を重ねても人を惹きつけていく美しさを残す。香はるの顔を静かに見上げて、すず雪は居住まいを正した。いつ見てもぴんと伸びた背筋と凛とした空気が香はるの周りに瑞々しさをつくり、すず雪はいつもそこに香はるのつよさを感じ取るような気がする。 すず雪は香はるに目をとめてから、深く一礼した。 「……師匠。ただいま戻りました」 「ああ、おかえり」 いつもと変わらない声音で応じた香はるに見送られ、すず雪は落ち着いた足取りで席を立つ。 朝食の支度をはじめていた兄弟子たちに頭を下げ、決まったところにかけられたままの前掛けをとると、そのまま普段通り台所に立った。 |