庭一面を覆った芝生の上を、白い大きな犬が駆け回る。 差し掛けられた日傘の下から、少年が飼い犬の名を呼んだ。犬は素早く主人の元に戻り、長い毛を梳くように撫でられて、嬉しげに尾を振る。 犬と戯れる少年を、屋敷の中から男が呼んだ。 「佐哉。お昼にしよう。アメジもお戻り」 男は庭に面した一階のテラスに姿を見せ、愛しげに少年を見る。独特な威圧感を持つ男だった。品のある顔立ちは優しげだが、その物腰には隙が無く、眼差しは磨ぎ澄まされ、やわらかい雰囲気を漂わせながらも近寄りがたい。 「父さま!」 少年はぱあっと顔を微笑ませ、大きく頷く。 少年の笑みに、男の鋭い雰囲気は甘く和らいでいた。 佐哉の家は、要人の護衛、暗殺、または諜報活動を生業としている。秘密裏での活動を主とし、裏社会でその名を知らないものはない。桐東、といえば、針1本で記憶まで操ると恐れられる、一族だった。 佐哉の父親は、桐東の当主。佐哉は、その父親の溺愛する末息子だった。 「寄宿舎?」 昼食を終え、クッションの山の中で微睡んでいた佐哉は、耳慣れない父親の言葉に首を傾げた。佐哉は、殆ど屋敷から出たことがない。病弱を理由に、父親である和城が決して傍から離そうとしなかったためだ。当然、学校にも行った事がなかった。 「そう。手続きは済ませてきたからね、来週には寄宿舎の方にお入り」 「…………」 反抗的な眼差しを返す佐哉に、和城は優しく微笑む。透き通るような白い肌の頬に手を乗せ、和城は佐哉のやわらかな黒髪を愛しげに梳いた。 「佐哉。その学校はとても素敵だよ。…そう、精神的肉体的な死傷さえ負わさなければ、何をしても良くて」 「急にどうして?僕、何かした」 髪を梳く手から逃れるように身を捩り、佐哉は込み上げる不安を堪えるように、唇を噛む。父に嫌われたのではないかという恐怖が、佐哉を苦しめていた。 佐哉はクッションの1つを抱きしめ、自らの殻に閉じ込もるかのように体を小さく丸める。その背を、和城の手が優しく撫でた。 「佐哉。別に、父さんが佐哉を嫌ったり、いじめようと思って、言っているんじゃないよ」 「嘘つき。嘘つき嘘つき。父さまはいつだって、本当は僕のことなんて、どうでもいいと思ってるんだ」 「佐哉」 肩を掴まれ、無理に振り向かされた佐哉は、涙目のままきつく父親を睨む。 佐哉には、父親が全てだった。歳の離れた兄弟からも、母親からも、離されて育ち、佐哉のまわりにいたのは、父親に選別された僅かな人間だけ。 父親が、佐哉の全て。 父親に、嫌われては、生きていけない。父親の意に染まないことをすると、拒絶という最もきつい仕打ちで、佐哉は父の絶対を覚えこまされている。 父親から怒りを買った時、常に向けられていた優しい眼差しも、愛情にあふれた手も、失う。まるで佐哉などいないかのように振る舞われ、一切の興味を持たれなくなる。父親しかいない世界で育った佐哉が、父親から拒絶されれることは、その存在の死を意味するようなことだった。 こめかみに落ちる佐哉の涙を、和城の指先が拭う。頬に片手をあてられ、佐哉は父親の微笑みを真正面から受けた。 「佐哉は父さんの宝だよ。どうでも良いわけがないじゃないか」 「…………」 「佐哉」 髪を撫でられ、顔が近づく。唇を重ねられ、和城の首筋に腕を回しながら、佐哉は閉じた瞳から涙を一筋こぼした。 父親である和城。たった1人のその相手が、 佐哉は好きで、好きでたまらない。 けれども、同じくらい、恐かった。 決して敵にならない者として育てられた佐哉は、父親の愛情で生きる生きものだった。 「僕が死ぬときは、父さまに嫌われたとき」 シガーケースの中から細い針を1本抜き、佐哉は数メートル離れた壁の絵に、手首を小さく振って針を投げる。 点描された絵の端から、1つの点をあけた等間隔に針が突き刺さっていた。動きもしない相手に、そのくらいは造作もない。退屈なときにする、佐哉の暇潰しだ。 「それが、変わることはあると思う?」 「わたくしには、答えられません」 「そ、っか」 更にもう1本を投げて、佐哉はソファの上に横たわる。その傍らで、柔和な顔立ちの青年が佐哉を優しく見つめた。青年は、佐哉の世話をする育児向けの人形だった。見た目は人にそっくりでも、体の中は、人に造られ、制御される、機械。判断しきれないことは、決して口にしない。 「体が痛い」 佐哉は布の上に頬を擦り寄せ、体を縮める。無理な姿勢をとらされた関節が、痛かった。 痛いのは嫌いだ。 苦しいのも、気持ち良すぎるのも。 突然言われた、寄宿舎の話。あまりの急さと強引さに受け入れられないでいた佐哉を、和城は甘く戒めた。 そのことを思い出して、佐哉はぎゅっと手を握る。脳裏を描くものに、足の先が甘く痺れた。胸の音が、大きく耳を打つ。 いやだった。 やめてほしかった。 でも、安堵していた。 与えられるぬくもりを、拒めなかった。 背筋が震える。ぬめる感触が、首筋を這う。息の熱さに、目が潤んでいく。 埋め込まれていく感触は、何度されても慣れない。ただ。同時に充たされていく。泣き叫んでも、欲しくなる。 「泣かないで」 あたたかい指先が頬に触れ、佐哉は顔を上げた。穏やかな眼差しが、佐哉を見下ろす。 嗚咽を噛み殺しながら、佐哉は相手に縋り付いた。 「好きなんだ。結局はいつも好きなんだ。僕は自分の中の好きに、逆らえないんだよ。僕は父さまに、逆らえやしないんだ…!」 好きを打ち消すぐらいの嫌いが佐哉を充たさない限り、佐哉は、父親に逆らえきれはしない。 そしてそんな嫌いは、どうあがいても、佐哉の中にはなかった。 瑞々しい緑の上を、犬が駆ける。 アメジ、と呼んで、光の中によく映える美貌の持ち主が、芝生の上にすっきりと伸びた形の良い足を歩ませた。裸足の足に、細い葉が心地良く触れる。 少年の着た白いシャツが、風に揺れた。明るい陽射しに目を細めながら、飛び込んできた飼い犬の耳元を撫でる。アメシストのような紫の瞳が、少年を見つめて輝いた。 犬と戯れる佐哉を遠目に、テラスの上で、男が幾つかの資料に目を通す。木のイスに深く腰掛け、足を組んだまま手渡される紙の上にサインを刻んだ。 「…和城様。そろそろ佐哉様をお戻しいたしましょうか。あのまま駆け回っておいででは、具合を悪くされましょう」 「ん。ああ、いい。好きにさせなさい」 傍らのテーブルの頬杖をつき、和城が笑む。体が弱い佐哉は、些細なことで熱を出す。だが、今は佐哉の好きなようにさせるつもりだった。 犬と共に駆け回る佐哉の姿は、そのまま時を止めてしまいたいほど美しい。繊細な顔立ちに、凜とした眼差し。透き通るような白い肌、すらりと伸びた手足に、しなやかな動き。 うなじに残る紅い痕を目に留めながら、和城は手もとの資料を傍の男に渡した。 「こんな契約は破棄だ。すぐに遣っている者を戻すように」 「はい、…こちらは?」 「これはいい。この系列が出しているお菓子を、佐哉が気に入っている」 「承知いたしました」 佐哉の楽しげな笑い声が、遠くに響く。 仰向けになった顔をアメジに舐められ、佐哉はこそばゆそうに笑っていた。アメジは佐哉を庇護する者として認識しているのか、無茶なじゃれつき方は決してしない。 書類を片づけた男が、和城にフルーツジュースを出す。佐哉がコーヒーや紅茶の香りを嫌うため、和城は果実のジューズを好んで飲むようになっていた。 桃色の液体を一口含み、和城は佐哉を愛しげに眺める。和城の視線に気づいた佐哉は、和城を見て満面の笑みをうかばせると、跳ねるような足取りでテラスの前に駆け寄った。 「父さま!アメジに水浴びさせていい?アメジ毛が長いから、暑そう」 「いいよ、でも、薬を飲んでからね。少し熱が出始めてるだろう?」 「……、ん」 テラスの中から錠剤を受け取った佐哉は、和城のジュースを渡してもらい、素早く薬を飲み込む。そのまますぐに駆け出そうとする佐哉を、和城は腕を取って止めた。 「?なに」 「答えを聞いていなかったね。父さんの用意した学校に、佐哉は行く?行かない?」 一瞬の逡巡と、動揺を見せた佐哉は、掴まれた腕を振り解き、素早く駆け出しながら小さく応える。 「行く。でも、いやいや」 我を全て捨てるわけではない佐哉の主張に笑みながら、和城は頷く。 いやいやで構わなかった。 存分にわがままも言っても良かった。 抵抗があってこそ更に愛しい。 佐哉は和城が摘んだ、愛しくも愛らしい、花。 水まき用のホースから、霧状の水が空に向かって放たれる。 小さな虹の下でアメジと一緒になって遊ぶ少年の姿を、和城は愛しげな目で見つめた。 佐哉は花。 和城なしでは生きられない、摘まれた花だった。 終わり
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