「andante -唄う花-」



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 いつものように過ぎるはずだった。
 2月に入ってから寒さに拍車がかかり、布団を抜け出してストーブをつけるまでが億劫だった。
 なんとか夜明け前に起き出して、前の日の晩に仕込んでおいた食材を使って手早く朝食とお弁当をこしえらえる。
 台所兼居間と和室と洋室が1室ずつ。狭くて古いアパートだけど、最初にきちっと考えて建てられたせいか使い勝手が良くて、オレは気に入っている。居間と部屋を区切る襖に手をかけて、思い切りよく引いた。
「親父、朝飯」
「お。おぉ…わかった…」
 返事をしてから顔を見せるまで間があくのはいつものことで、その隙をぬって洗濯機をまわし、テレビをつけて、自分の分だけ炊飯器からご飯をよそう。
「いただきます」
 先に食べ始めていると、親父はようやくのご起床だ。
「おはよ」
「はよ。親父、オレ今日遅いから」
「おおー…」
 みそ汁とご飯をよそって親父に渡してから、あいた鍋を流し台に移す。
「…ん、なんでだ?」
 寝起きのせいか反応は鈍いのに、そういうことはしっかり確認してくるのが親父の親父たるゆえんだろう。
 どこへ行くとかこういう用事があるとか、まあ、父子ふたりの生活だし、オレもそういうことは確認する。食事の支度のこととかあるので。
「前にも言っただろ。図書の整理を手伝うって」
「ふむ」
 無精髭と寝間着代わりのよれたTシャツで中年男のむさ苦しさが倍増だ。
 ご飯をかき込み出すとお互い無言になる。
 平日の朝だというのにテレビの中から流れてくるのは賑やかな声と騒がしい音楽で、ああ朝だなあなんて思ってしまうのは、オレも眠いからかもしれない。
 決まった流れで似たような話題を繰り返すテレビを横目に、晩ご飯の献立なんかを考えながら、そういえば今日の親父は早く帰ってくるはずだと思い出した。親父の帰りは遅かったり早かったりバラツキがあるので、普段は学生のオレが家事を取り仕切っている。安くてうまいごはんが理想だけど、今夜はなにがいいかなあ。
 画面もろくに見ずに余所事を考えていたら、速報を知らせる電子音が聞こえてきて、なんとなく流れていくテロップに目を留めた。


 ─────本日未明、世儀吉春氏(せぎ・よしはる=SEGIグループ社長)都内病院にて死去。40歳。


 ずいぶん若いんだな、というのが最初の感想。よほどの有名人でもなければ大抵こういった訃報は見たことさえ忘れてしまう。
 画面からテロップが消えるのを待ち構えていたように、電話が鳴った。
 席が近いオレが立ち上がりかけたところで親父が素早く動く。電話を取るのはオレの方が多いのに、珍しいこともあるものだと思いながら、ほうれん草のおひたしを口に運んだ。どうせ仕事の話だろうと思う。親父はいつもけっこう忙しくしているくせに、携帯電話をあまり使いたがらない。
 中学卒業間近の2月ともなれば、授業なんてやっているようないないようなだし、なるべく早く図書室へ行って、蔵書整理を済ませて、それで帰りに本屋に寄りたい。晩ご飯は冷凍庫の作り置きをいかせばなんとかなるだろう。そんなことを考えていたオレは、電話を切った親父が想像以上に固い顔をしているのに驚いて箸を止めた。
「蓮(れん)」
「ん?」
「学校は休め」
「…ただでさえ人数足りないのにオレが休んだらまずいことになるって」
 くじ引きで決まった蔵書整理だけど、けっこう真面目に働いていた図書委員としては出ずに済ませられるはずはなくて、出るべきというか出ないと相当やばい。司書の先生がひとりで蔵書整理とかになりそうな予感がする。
「弟が死んだ」
「…………」
 親父の弟ってことはオレの叔父さん?
 オレが小さい頃に亡くなった母さんの親戚とは今も親しく付き合っているけど、親父は今まで1度だって自分の親とか家族について口にしたことがない。
「………生きてたんだ」
 今亡くなったと聞いたのにそれはないけど、それが正直なところだった。
 天涯孤独の身の上でもおかしくないぐらい、親兄弟の話を口にしない親父に育てられたオレとしては、もはやそれはいないもので、薄情かもしれないけど悲しみも実感もない。
 喪服がない、制服でいい、なんて話をしているうちに迎えのハイヤーがやってきて、あっというまに車に乗せられる。それで連れて行かれたのは案外近い場所だったけど、高い塀に囲まれた広い敷地と白壁に黒瓦の屋根が美しいお屋敷は目をあけたまま夢を見ているんじゃないかと思うぐらい、立派な日本家屋だった。





 故世儀吉春氏は世界有数の大企業SEGIグループの社長で、ゆくゆくは総帥の座が約束された世儀家直系の優秀な人だったのだという。オレの親父は跡を継ぐため急きょ呼び出されたってことらしい。
 長男である親父が今まで家から離れていて、姓も別のものを名乗っていたのは亡きオレの母とのラブロマンスが関係している。今尚現役のグループ総帥、オレから見れば祖父にあたる人が父さんたちの結婚を認めなかったらしい。
 で、勘当。その為に親父は自分の母親の旧姓を使っていたようだ。
 今回はその人が呼び戻せとのたまったので、親父は冴えない中年男から一夜にしてSEGIグループ社長だった。
「蓮様。まだ時間には余裕があるかと思いますが…。もうお出に?」
「はいっ、オレ自転車のろいんでこのぐらいに出ないと。あと、蓮て呼び捨てしてもらってぜんぜんかまわないので、その、オレには身に余るっていうか…行ってきまーす」
 心配そうな顔で車庫の外まで見送りに出てくれたのは朝からきっちり三つ揃えのスーツを着込んだ世儀家筆頭執事の名尾(なお)さんだ。三世代の世儀家当主に仕えてウン十年。灰色がかった白髪が格好いい初老の男性である。
 去り間際に手を振ると、少し恥ずかしげに手を振り返してくれた。若輩者なオレ相手でも真摯な態度で向き合ってくれる良い人だ。
 オレは親父のことがあってすでに決まっていた公立校進学を取りやめ、おじいさまに勧められた私立校を受験した。ひとつだけ、なんて危うい橋は渡らず、他にも幾つか選んでおいたので、どれかに引っかかってくれると良いなー、な感じだったんだけど、幸いにも第一志望、音浜学院の合格通知をもらえた。
 ここは中高一貫の男子校なのだけど、代々世儀家の人間が卒業しているのだという、筋金入りのお坊ちゃん校だ。
 自転車をこいでようやくってな感じに辿り着いた、どどーんとそびえ立つ鋼の門を見上げて、オレは少々途方に暮れた。
 早めに出てきたのにのろのろ走っているうちに時間を食い、ちょっと遅かったかもしれないけど、開け放たれているはずの門が閉まっている。肩でしていた息を整えながら、オレは脇にある守衛室に目をやった。
「あのー…」
 もしかしたら、防犯とかの都合でふだんから門は閉まっているのかもしれない。そう思って守衛室を覗き込んだけど、外からじゃ中が見づらい窓のつくりになっていて声が届いたのかも良く分からない。
「すみません、誰かいませんかー…」
 入学式に遅刻するのはたぶんきっとまずい、と今更ながら焦ってくる。
 ちょっと危機感を持ってつよめに扉を叩くとようやく待ち望んでいた反応があった。
 ほっとしたオレに警備服姿の男性はにこりともしない厳めしい表情で扉の窓を引き開いた。
「オレ、今日からここの学院に入学するんですけど、…どこから入れば良いでしょうか?」
「学生証、持ってる?」
「はい!」
 入学手続き後に送られてきたカードを渡すと、何かの機械に通している。名前と生年月日を訊ねられて答えると、ようやくかすかな音を立てて黒い門が開いた。昨今どこも物騒だから、これぐらいのセキュリティは当たり前なんだろう。
 ひと一人分が通れるぐらいを開けてもらって、自転車を押して入ると、向こう側にはあの警備員の男性が待ち構えている。
「新入生くん」
「はい」
「悪いことは言わないがね、ちゃんと車に乗って来てもらわないと門は開かない仕組みになっているんだよ。その自転車も置く場所がないから、こちらで預からせていただくからね」
「………え」
 車で通学が必須!? マジで!?
 じゃ、車がない家は? エコに気をつけて公共交通機関を利用するとかは!?
 驚いて色々と突っ込んだオレに少し申し訳なさそうにしながらも、きっぱり断言された。
 車を持っていないとか使えない日とかはハイヤーなどを利用して、むろんそれらも含めて利用する車は事前に連絡、あるいは登録しておいたところじゃないと校門は通れず、車通学がダメなら学内にある寮に入るのだという。
 ありえない。
「毎年ひとりはいるんだよね。外部生の子にとっちゃこの学院はびっくりすることばかりだろうけど、ここではこれが普通だから、諦めておくれよ」
 手際よく警備室の中に自転車を運び入れて、自転車の後ろにくくりつけていた鞄をハイと渡された。
 小学生とか、あるいは中学生ぐらいまでの女の子なら、それはありかなって思うけど、男子高校生に対して送迎必須なんて…。
 口をあんぐりあけたままのオレがよほど心配になったのか、警備員のおっちゃんは新入生が集まっているのだという講堂へ案内してくれることになった。
 おっちゃんは話してみると意外に気さくでお喋り好きだった。
 学内の建物はすべて有名な建築家が携わったものだとか、旧館の裏手にある温室に珍しい品種の植物があるとか、中庭にある池には人面魚がいるとか、為になる話から与太話までおもしろおかしく話してくれる。
 はじめに抱いていた取っつきにくさなんてまるでない。
 10分も歩けば、オレとおっちゃんは打ち解けまくりである。
「なあ、おっちゃん。オレやっていけるかなぁ。心配になってきた」
「はは、そりゃたいへんだ。あんまり説得力がないけどねえ」
「そお?」
「学生証」
 思わせぶりにオレのつま先から天辺までを眺め回すおっちゃんに、オレもにやっと笑みを返す。気合い入れてきたからさ。ちゃんと見てもらえると嬉しい。
 制服と靴と鞄は指定のものだからそのままだけど、視界を邪魔する長ったらしい前髪に立たせたというより寝癖だろうという感じのボサボサ頭。度数はやたら低いけどごつさにかけては自慢の黒めがね。
 顔のつくりなんてまるで分からないというオレの格好は、まるきり地味で冴えない男。
「ウチの家訓なんだ。地味男は地球を救う」
「はは、なんだそりゃ」
 豪快に笑い飛ばしてくれたおっちゃんとのお喋りはそこまでで、講堂の前に立つ教師らしい男は遅刻ぎりぎりでやってきたオレを見つけると少し怒ったような顔で姓名を聞き出し、講堂の中に押し込んだ。
 一番端の目立たない席に着席したのと同時に開会を告げるアナウンスが流れてびびる。そんなに遅れてないと思ったけど、かなり危機的状況だったらしい。
「これより音浜学院高等部の入学式を執り行います。はじめに校歌斉唱。歌うのはコーラス部の皆さん、指揮は五木先生です。五木先生、よろしくお願いいたします」
 思いの外きれいなメロディラインの校歌を聞きながら、オレはうとうととしてしまったらしい。気がつくと小一時間ほど過ぎていた。しまったと反省したけれど、幸いというか何というかまだ式は終わっていなかった。



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