日が沈みはじめた暗がりに、橙色の灯りが並ぶ。 薄暗さをほんの少し照らし出す街の光は、いつもと違ったにぎわいの中にあった。 コンペティション本番。 基本的にはお祭りの一部だから、この会場まで来る街の人も、観光で訪れたついでな感じの人もどこか浮ついているような、楽しみではちきれそうな。そんな感じがする。 そういった空気がここだけじゃなくて街中に広がっているっていうのが、やっぱりお祭り独特のものだろう。 会場には生徒たちを知る顔ぶれも大勢来ているから、誰かが姿を見せるたびににぎやかさが満ちる。 「レン」 「……先生」 「あれ、ひとり?」 廊下に並べられた椅子にぽつんと座っているオレを見て、フリーデン先生が首を傾げた。 「ニーノたちならちょっとそこまで。……わ、そのベストすごいですね」 赤い生地のはしっこに花の刺繍がしてあって、民族衣装をベースにしているんだろう。黒や青の縫い取りがなかなか凝っていて、派手と言えばそうなんだけど白いシャツとのおさまりがいい。 「アミルがくれたんだ。……いつものシャツしかないって言ったら、あ、アミル」 「トマス、また途中でいなくなって。みんな困るんですから」 困ると言いながらもとてもほがらかだ。顔もすごく楽しそう。 間近に見るのは最初の紹介以来だろうか。アミルカーレ・アミ先生はすっきりとそつないサマージャケット姿で、すぐそばまで近づくと香水らしい爽やかないい匂いがする。 そうか。フリーデン先生が言うアミルはアミ先生のことか。 「アミ。トーマス。勝手に抜け出すんじゃない。わたしがうまく言っておいたからよかったものの」 「トーマスじゃないよ、チム。トマス」 「その言葉返すぞ。チムじゃないチムールだ、このめんどうくさがりが」 アミ先生の後を追いかけるように姿を見せたチムール・ポーリン先生は、目つきの鋭さははじめて見たときとまったく変わらず、黒シャツと黒いスラックスという組み合わせに迫力というのか威圧感が上乗せされている。 はじめに並んでいるのを見たときは3人とも距離があるというか、あくまで同僚って感じの素っ気なさがあったように思うんだけど、どうやら先生たち仲が良いらしい。 「息抜きしたかったんだよ。レンの顔も見たかったし」 「レン? ああ、君か」 応じるフリーデン先生はまったく動じてないけど、眉間にはじめからあったしわを更に険しくした顔で見下ろされると、少しトオ兄に似ているかも。 顔立ちも、雰囲気も。なにもかも違うんだけどさ。うんともぐった奥底に、やわらかなものがあるような。 立ちあがって小さく会釈すると、つまらなさそうに鼻を鳴らされる。 ポーリン先生のやわらかさはなかなかぶ厚く丈夫な覆いの向こうにあるらしい。 「この阿呆に付き合えるのは阿呆しかいない。それもとびきりのだ」 「そうですねえ。さすがの僕でも全員出したいからって、この選曲はないですね。応募曲でレッスンを受け、それでコンペに出るのが通例ですし」 「通例であって規定ではないし、許可も取れた」 「だからって、設置にも手間がかかるというのに。厄介のかたまりだまったく」 不機嫌そうにポーリン先生がため息を吐く。 ステージ設営側の苦労と時間配分を考え、最後の演奏にオレたちをまわしたのがポーリン先生らしい。 もともと各グループの半数、ないしは3分の2がコンペ本選に出られることになっていたけど、オレたちは全員本選に出ることになった。 「レンとニーノがモーツァルトの2台のピアノのためのソナタ。セレスティノとヴィクトルはラフマニノフの2台のピアノのための組曲。すごく考えた」 「その考える方向性がおかしいと言っているのだ」 「まあ、トマスらしい」 オレは第一楽章だけ、セレスティノたちもタランテラだけなんだけど。 コンペでこれを持ってくるのが、確かに何と言うかみんなで、え? ってなるというかさ。 正直今だって、ニーノと一緒にこの曲で出ていいのだろうかと悩んでしまう。デュオでの参加はダメってわけじゃないらしいけど、そもそもオレとじゃ、技術的な差でニーノは足を引っ張られてしまうし、周りの人にとっても寝耳に水な話で。 そもそもオレとニーノって合わないのだ。それはもうおもしろいぐらいに。 そこなんでそう弾いちゃうのとか、でっぱろうとしたらひっこみすぎるというか、息を合わせるだけなら、セレスティノとかヴィクトルとかのほうが合わせやすいぐらいだ。 でも先生からは組み合わせは絶対に変えないと言われてて、こちらとしても、意地でも合わせたい気持ちが出てくるしで。 セレスティノとヴィクトルもなあ。技術的にはつりあっているはずなんだけど、オレとニーノ以上にしょっちゅう音の中でけんかだ。実際に言い合っているときより、ぽんぽん滑りよく暴れ回っている。 ちなみに先生の部屋から続いたところにある防音室に2台のピアノがあって、レッスンのときはそこを使っていた。リビングにあるグランドピアノは4人でかわるがわる、というか、つねにじゃっかん押し合いへし合い使った。 うまくいかないレッスンで、へとへとに疲れて。そうしたら目の前にピアノある、ストレス発散に弾かずにはいられなくなる。 こればっかりは先生もあきれてたけど。そろもそろってピアノの息抜きにピアノで遊ぶから。 「良き先例となるか、悪しき前例となるか。どうせ何も考えてはないのだろうが」 「すごくおもしろいんだよ。この4人のデュオだよ」 「良い機会であることは確かなのかもしれないですね。彼らがこうしてそろうのは今だけでしょうし」 「ここに来られるのは1度きりだ」 フリーデン先生の言葉が辺りに広がって、静かに消えていく。 そうだ。1度きりのことなのだ。 ニーノたちと弾くのも、こうして先生たちの話を聞くのも。 似たようなことなら、もしかしたらまたあるかもしれないけど。少しずつ違った、そのときのこと、になるわけだから。 そう思うと、不安と楽しさが半分ずつ渦を巻いて、手や足をとにかく動かしておきたいような気持ちになる。 「レン、待たせた?」 「ニーノ。遅い」 ぎりぎりなんだから。 そう言うとニーノは、ちょっとつんと澄ました顔になる。いいじゃないお菓子のひとつやふたつ、って顔だ。 まったくもう。って言いかけたのに、おそらくそんなセリフは言い飽きているだろう声がかぶさる。 「ニーノはいつもこうだ。緊張するとお菓子を持って消える」 「だからっていちいち探しに行かなくてもいいだろう」 少しお怒り気味のヴィクトルに、セレスティノが続く。 ぶつぶつ続くヴィクトルの話のほうが面倒くさいと言わんばかりだ。ばっさり断ち切った。 「元気だねえ」 オレは先生の顔を見てちょっと笑みをこぼす。 「楽しんで。4人ともね」 はい、とオレは大きく笑い返した。 「行ってきます、先生」 土を踏む足音がゆっくりと近づいて、顔を上げた。草木の中に花ひらいたばかりのバラの匂いが立ちのぼる。 「ひいおじいさま」 わずかな段差を踏み越えやすいように腕を伸ばすとしっかりと握られた。 「よく似合う」 「ありがとうございます」 少しかしこまって、腰を折る。 フランス革命前のロココ・スタイルらしい、膝丈で広がりのある裾にジレと呼ばれるベスト、キュロットに絹の靴下。 カフスにも釦のひとつひとつにも花刺繍がほどこされて、袖口からは繊細なレースがのぞくから、今朝からどこにもひっかけないようにと動きのひとつひとつがオレにとっての大冒険なんだけど。 淡い真珠色の上衣は陽射しの中で華やかに輝いて、思わずかたまってたら、父さんにぐるんぐるんと振りまわされて緊張感も台無しだ。それで確かにこわばりはとけたけど、張り切っていつもより多く回してくれなくてもいい。 「かつらもかぶりました」 古い時代を模しているなら、かつらもあれだ。ぐるぐるの巻き髪に違いないと思ってたんだけど。 実際つけられたら、カールもなければふくらみもない。耳下ぐらいでそろえられたおかっぱだ。 ただし色合いはほんの白さがにじむような淡い金色をしていて、あきらかに本物ではないんだけど違和感もない。最近のかつらってすごいなあって引っ張ったり飛びはねたりしてたら、まだ支度は終わってませんって止められた。念入りにつけ直されたおかげで、今は何をしてても落ちたり、ずれそうにない。 ひいおじいさまのお城でひらかれることになったパーティは、仮装パーティだった。 今朝はメイドさんたちの耳がうさぎにかわっていたり、庭師のおじさんはねじりはちまきにはっぴ姿だったりする。それがまた格好良くて朝から目が忙しい。 ドクターパーサはおおはりきりで怪獣姿だし。それもトカゲみたいな体にぎざぎざのとさかついた怪獣だ。 着ぐるみというのが正しいかも知れない。 パーサの旦那さんも来ていて、宇宙に行ってた。……宇宙飛行士が着るみたいな、背中に生命維持装置を背負った白いヘルメット姿なのだ。 夫婦揃って暑そうなものだから大丈夫かと聞くと、そろって、さっ、とペットボトルを掲げて見せられた。暑さも織り込み済みの仮装らしい。 パーティの主催者であるひいおじいさまは、深い焦げ茶のモーニングコートにシルクハットをかぶっている。よく見ると裾の下からはふっさりとした長い尾に銀色の三角耳。狼男だ。 「そうそうに剣を放り出した三銃士がいたようだが」 「サマースクールで一緒だった3人です」 誰がアトスでアラミスでポルトスなのかはこの際、聞かないでおいた。決闘でもはじめられたら困る。 こちらのほうで用意しておいた衣装から好きなものをと言って選んでもらったら、そろいもそろって同じようなのを見つけてくるんだもんなあ。 「ピアノの前に座るのに、邪魔だったみたいで」 彼らは銃も剣も使わずに、鍵盤で挑み合う。と、言ったらなんだか格好良いけど、座るのに邪魔って理由であっけなく剣を放り出す剣士なんて、困りものだろう。 「良い演奏だったと聞いた」 おじいさまの声に、あのひとときがよみがえる。 出番を知らせる声とともに、オレとニーノは舞台袖から中央へと歩み出た。 ニーノは羽でも生えているようなかろやかな足取りで、観客席に向かっての一礼にもまったくよどみない。 お互い身につけている白いシャツに、ささやかなフリルがついていた。ニーノは黒、オレは茶色のリボン。そこに青や赤い糸を使って小さな花が縫い取られている。 せっかくだからお揃いにしたら、とナギ姉がつけてくれたものだ。新しいものを探すより、手直しした方が早いから。 けっこう目立つ色合いだったけど、クラシカルな色と模様せいか、意外なほどおさまりいいし見映えもする。 縫い目をほどいて余分なところを切り取らないといけないから、オレも手伝ってたら、ヴィクトルが飛び上がって。今することじゃない、怪我したらどうするんだと。まあ今回に限ってはそれもそうかと無難そうなところだけしか関わってないんだけど。 ニーノがわりあいレースとか好きみたいで、いやそれ、オレとのお揃いなんだよね…? っていう、代物になりそうだったものだから、任せきりにしづらくてさ。あんまり時間がなくてむしろ助かった。 フリルの縫いつけかたを変えているから、ニーノのシャツのほうが幾らか華やかだ。 真向かう形で並べられた2台のピアノ。それぞれの前に座って、すっと息を吐いた。 傍らには譜めくりをするために、ニーノの隣にはセレスティノ。オレの隣にはヴィクトルがさりげなく現れて控えた。出番が近いお互いの演奏の譜面をめくりあうなんてとんでもなさに、秀さん辺りなら大受けしただろう。 ごくごく当たり前にレッスン受けていたらたぶんなし。こういうのはやらないし、しない。 ただオレたちに限って言えば時間も足りないし、遊んでいたらこれがやりやすいって気付いたので、まあなんとかなるだろうと見切り発車だった。 「レン」 ニーノのまなざしに、静けさが差す。 目の前にぽつんとあらわれた扉を、オレは引きあけた。 はじまりの一音とともに足を踏み出す。 体中に音が染み込んで駆け巡り、通り抜けていく。嬉しさが尾を広げるように、体がふわりと地上を離れるように、音の重なりがからみあい、くるりとまわるように響いていく。 こんなに楽しい気持ちがあるのかと思うぐらいに胸がはずんで、高鳴りが満ちる。何もないところへ道がつき、ニーノが弾んでオレが追いかける。 シャツが張りつくほどに汗が吹き上げて、でも笑い出しそうだ。 熱っぽさが続くように頬が火照り、けれどびっくりすぐらいに体が軽い。 拍手がまるで肌を打つように降り注ぐ。いつのまに舞台袖に来ていたナギ姉たちに急かされるまま着がえてペットボトルに口をつけた。 「すごく楽しそうだな」 「うん、ヴィクトルは甘い味」 「意味が分からん」 譜めくりを終えたヴィクトルも、いつも通りの白いスーツに着替えていた。堂々とした佇まいで唇の端をつりあげ、オレを見ろす。 「見ていろ」 「うん。見てるね」 「うんじゃないでしょ。ヴィックのめくりをするのボクだよ」 「レン、行こう」 セレスティノは全身黒ずくめで、白と黒の2人は想像以上に舞台映えする。 彼らの影にまぎれるようにオレとニーノもついていき、それぞれの椅子に座った。 オレがセレスティノにつき、ヴィクトルにニーノがつく。さっきとは逆さま。 たかが譜めくりだけど、されど譜めくりだ。 はっきり言って弾くより疲れるんじゃって思うぐらい。目も合わせない2人が剣の切っ先をはねあうように飛び出していくのを追いかけていかなくちゃならないし、つくりあげられていく世界の先を見たくてたまらなくなる。 セレスティノもヴィクトルも。 烈しさをものともしない顔で旋律をうねらせ、少しでも気を抜いたら、足もとをからめて転びそうなのにそうならない。そろってやわらかにまわっていく。 すごくて、本当にすごくて。 冷静に体が動いてそばで役目をこなせているのが不思議に思えるぐらい、鳴り響く音が全身を満たす。 彼らが疾走する。前へ行く。 その後ろにつきながら、みるみる変わっていく風景に息をのむ。 祭りの夜を彩る音楽家たちに華やかでにぎやかな歓声が惜しみなく向けられて、あっというまにコンペは幕を閉じた。 「この上なく素晴らしい夜だったと、また語られた」 「本当は、選外だったみたいなんですけど」 想定していなかったデュオでの参加だ。採点がむずかしく、点数的には伸びなかった。 それでもセレスティノとヴィクトルは審査員特別賞を。オレとニーノは、観客席からの投票が1番多く、街角賞なるものをもらえた。 嬉しかった。こんなに嬉しいことがあるんだと思った。 「直前まで出るつもりもなくて。迷惑もかけて……」 オレ、情けなさでいっぱいだった。 コンペに出るってことをちゃんと考えてもなかった。出ても、出なくてもニーノたちに迷惑かけるって思いもせず。 けれど賞をもらえたことは、聞いて楽しかったと言ってもらったようで。それが嬉しくて。 それでべそをかきかけてたら、ニーノにはにらまれるし、セレスティノにはあきれられたけど。 これからが忙しい、って。そう言われたとおり、それから街の人から演奏してほしいだとか、ごはんを一緒にどうかという話が山ほど来たのには正直驚いた。 どうも気に入った演奏家がいたら家に招くのが通例らしい。成績上位者に声がかかりやすいのは分かるんだけど、選外だろうが気に入られさえすればけっこう呼ばれるのだという。 「レーヌ。このままここに残るか」 ひいおじいさまの声が、すっと静けさを射貫く。オレは動きを止めた。 コンペが終わった後に、いくつかの学校や、人から声をかけてもらった。これから先も学んでみないかって。 もっと弾きたいって、思ったら。もっと、って、思うなら。 新しい曲をつくっていく、その先に足先を伸ばしたいなら。オレにはいろいろなものが足りず、それを埋めていく方法は、たぶん。 ひいおじいさまのまなざしはいつも通りの穏やかさを含み、オレの跳ね上がった鼓動まで見透かすように、ただじっとオレを待つ。 「たくさん嬉しいこととか、思い出がいっぱいできました」 「思い出のみか?」 「……いいえ」 懐かしむにはまだ早く、それは今も揺れ続けている。 「もっと穏やかな音に乗ってみたいと思ってたんですけど」 ひいおじいさまは小さく肩を揺らして笑った。 低く、しわがれた声がバラの中へと吸い込まれていく。 「花の彩りは一瞬でも、思い返せばどの日々の中にも豊かなよろこびを匂わせられる」 招いてくれて、ここへ呼んでくれて。 ひいおじいさまたちと会えて。 ただそれだけのことだったはずが、たくさんの勇気を引っ張り出すはめになるのだとは思わなかった。 いつまでもとどまりたくて、このまま止まってしまってもかまわない。そう思うのと同じだけ、風にふくらむ香りを追うように手足が伸びる。 足もとの石畳に、こつんと杖の音が鳴った。 「花の先へ」 「はい」 進む杖の音に耳を澄ましながら胸いっぱいにバラの匂いを吸い込み、オレはひいおじいさまに合わせて、ゆっくりと花園の向こうへと足を向けた。 END
|