「andante -唄う花-」



- 51 -

[back]  [home]  [menu]  [next]



「蓮、こっちよ」
「わ、ナギ姉?」
 ひらひらふられた手のひらに引き寄せられるようにして近づくと、明るい色合いのワンピースがひるがえる。
 大きな花の模様があざやかで、陽射しの中によく合っていた。
 うまく予定が合うようだったら、街で行われているお祭りを見たいって言ってたけど。
 こんなふうに笑っている顔を見られると、なんだかほっとしてしまう。ナギ姉は色んなところにけっこう身軽に行くのが好きなんだけど、なかなかそうはいかないこともあるから。
 レッスンが行われているときは入ってこられなかった保護者たちが迎え入れられたから、パラソルが並ぶ芝生の上にはにぎやかに話し込む姿をいくつも見つけることが出来た。
「いつ来たの?」
「昨日」
 街を歩いて、たっぷり祭り気分を楽しんできたらしい。
 そこらじゅうの通りで演奏会が行われている。それが面白かったと言うナギ姉に頷いた。
 歌とか、楽器とか。いたるところから響いてくるのだ。
 なにしろ野外で、どこにでもある街中で。音もまぜこぜになっちゃうんだけど、みんなおかまいなし。むしろ飛び込んできた旋律をよしきたとばかりに拾い上げて遊ぶ。
「トオ兄たちも一緒?」
「ええ、たまにはと思って」
 兄妹たちだけでおでかけなんて、すごくめずらしい。
 いったいどんなふうだったのだろうと思うとすごく気になったけど、少し離れたところに並ぶトオ兄とカオ兄は、オレと目が合うとそろって穏やかな顔になった。きっといつもどおり、過ごせたんだろう。
 けれどそんなトオ兄の手の中にビデオカメラらしきものがある。
 ここぞというときはかかさず持ってくる。もちろんトオ兄判断の、ここぞ、だ。オレとしてはまったくよく分からないときにも装備済みなので、わりとしょっちゅう持ち歩いているのかもしれない。
「……ねえ、トオ兄。カメラ新しくした?」
「昨日、熱心に試し撮りしてた」
 こっちは撮られてもとてもじゃないけど見きれないので、見たことがないままになっている映像がいっぱいだ。
 カオ兄は、そんなにたくさん撮って見る暇あるんだろうか。
「好きだねえ……、トオ兄」
「今日が本番でしょう」
「そうなの?」
「そうよ。せっかくの蓮の発表会だから、はりきってる」
 発表会? オレの?
 昨日のナギ姉たちとのおでかけのほうがすごくレアで、特別であるのは間違いないと思うんだけども。
 オレとしては試し撮りしたという昨日のが見たいような。
「もしかしてコンペのことなら、……」
 言いかけたところで、背中にびゅんと突き刺さるみたいな視線を感じた。
 ん? と思って振り返れば、さっきまで一緒だった顔ぶれが向こうから走ってくるのが見える。
「レンっ」 
「話がある」
「まだ首が痛いぞ、車が小さすぎるっ」
 ニーノとセレスティノが一緒に素早くオレの腕をつかみ、ヴィクトルは首を押さえながら加わってすごい勢いで歩き出す。
 首は大丈夫か……、と口を挟む暇もない。
「あら、蓮。いってらっしゃい」
「うん、い、……いってきま、す?」
 手を振るナギ姉に手を振り返しながら、オレいったいどこへ行くんだか分からないんだけども。
 むしろこんなまるきり連れさらわれるみたいな感じなのにナギ姉はちっとも動じてないのはさすがというか、ほとんど抱え上げられるようなかたちで運ばれているので周りの視線がすごい。
 オレ歩ける。歩けるよ。
 この勢いはもはや走っている早さだから、ついていけないかもだけど。それを思えばこのままなのがいちばんいいだろうか。
 これだけ息が合った行動している3人なんて、もしかしてはじめて見るかもしれない。そんなに長い付き合いじゃないわりにお互いに色んな姿を見た気がするので、なんだかとても新鮮だ。
 オレの仕切りで座る場所を決めることになった帰りの車も、たいへんな騒ぎだった。
 セレスティノとヴィクトルはどちらも助手席に座れず、仲良く後部座席で縮こまることになったんだけど、セレスティノの長い足は行き場を見失うし、ヴィクトルは天井に頭をぶつけるし、ヘルメットのかわりにしたらとニーノが鞄からタオルを出したら一緒にスナック菓子も散らばるわで。
 助手席にはニーノが、2人の真ん中にオレが座ることになったけれど、あみだくじで良かったのか悪かったのか。
 このまま車がばらばらになってもおかしくないんじゃと思うぐらいのにぎやかさの中で、フリーデン先生はひたすら無言でアクセルを踏んでいた。
 少しずつスピードが速くなっていたから、早く着きたかったに違いない。
「とりあえず座って」
 連れて行かれたのはレッスン室のひとつで、おそらくはある程度の人数が集まって使うためのだろう。自分たちの他には誰もいないがらんとした部屋の中に、ニーノたちが手際よく椅子を並べる。
「レン、どういうことだ」
「……どういうことって」
 腰を落ち着けると、真っ先にヴィクトルが口を開く。意味が分からず戸惑うと、どうしたもこうしたもないっ、と返される。
 オレのまわりをぐるっと囲むような形で並んだ3人の顔を見た。うまく状況を飲み込めないまま顔をあげると真上から見下ろされる。
 首筋まで染まった赤さは怒りだと分かった。ヴィクトルは今にもオレの襟首をつかみそうな近さまで体を寄せる。
「ヴィック」
 短く口をひらいたのはニーノだ。
 ただ名を呼ばれただけだけど、ヴィクトルは喉もとまででかかっていた言葉を飲み込んだのが分かる。そうして動きをとめたかと思うと、大きく息を吐いて椅子に腰かけた。
「……ニーノ?」
 巻き気味の茶色の髪はふんわりとして、マシュマロみたいにやわらかそうな白い頬を包む。
 いつもと変わらない。砂糖菓子の匂いがしそうなニーノ。
 けれど、草むらから鋭いまなざしがのぞいたときのような、危うい、息がつまるような感じがする。
「ねえ、レン」
 チョコレートを含んだみたいな甘くとろけた視線に、オレはびくりと肩を揺らす。
「トマス・フリーデンが受け持つクラスって、やだよね」
「…………」
「問題児の掃きだめ」
「つぶれていい林檎」
「不運のくじ引き」
「ニーノ、それじゃレンに通じないだろう。ぼんやりしてるんだから」
 立て続けに告げられた言葉に首を傾げていると、ヴィクトルからため息と同情のこもった目を向けられた。
 確かに謎めいているけど。
 そろって言われれば、オレだって考えるわけで。
「そう……言われてた?」
 オレの問いかけにセレスティノが頷いてくれる。
「ここじゃ、知らないやつはいないぐらいだな」
 トマス・フリーデン先生が受け持った生徒には不幸が起こるとか。
 あるいは扱いに困る顔ぶれを押しつけられているんだとか。
 このサマースクールは1回限りしか参加できない。そういう条件があるから、今までがどうだったかを実際に知っている人は来ていないのだけども、そういった噂があるらしかった。
 誰が担当するかでレッスン方法が異なる。それはあらかじめ知らされている。
 とはいえ、ごはんとか、洗濯とか、とにかくそういうのを自分たちでやりながら、森外れの建物で過ごすなんて、事前説明とは大いに違うだろう。
 改めて考えてみればずいぶんとおかしいし、レッスン以外の時間であれば顔を合わせる距離で過ごすはずが、姿が見えなくなったとなれば誰だっておかしいと思う。
 そんなオレたちについて、他の参加者が何かしらのことを言いはじめてもおかしくない。
 ヴィクトルだってはじめだいぶ不満げだったわけだから、これまでフリーデン先生が受け持ったなかで、早々に見切りをつけた人だっていたかもしれない。
 幸いというかヴィクトルは途中からどうでも良くなったみたいだけど、そういうことが積み重なって良くない噂になっている可能性は考えられる。
「まあ……ちょっと、風変わりなところがある先生かもだけど。教えてもらえて、オレは良かったし」
「たかが噂だし、放っておけばいいって? まあ、それもそうではあるけどね。足を引っ張るぶん、沈められる覚悟があるってことだとボクは思うし? それはどうかと思うと言ってあげるほど興味も抱けないけど」
 ぼんやり聞いてたらいっそ心地よいぐらいのやさしい声で紡がれる棘だ。
 可愛くて甘やかで、けれど手にふれれば細かな尖りがあるのを知るような。そんなところがあるニーノがオレはけっこう好きだけど、今は少し怖かった。
 もういい。って言いそうになるオレにニーノはそうはさせないとばかりににこやかなまなざしを向ける。
「ねえ、レン。トマス・フリーデンが、あるいはボクたちがどうであれ。噂の中にほんの少し本当のことが混ざれば、それは真実として受け入れられるよね。違うと訴えるのはものすごーく面倒で大変なのに、広まるのはとっても簡単」
「…………」
「彼が受け持つ参加者ってね、コンペの棄権率が高いらしいよ。レッスン途中でいなくなってしまったり、それどころかピアノをやめちゃう人もいる。不幸が移る、なんて言う人もいるみたい」
「……そんなの」
 もしそれが、先生が自分の将来がかかったコンクールを棄権したことをいうなら。その理由も知っていて言っているなら。
 それは違うと思うと、言いたい。
 そう思うのにそれが口に出来なかった。その理由をニーノが言い当てる。
「レン。コンペ棄権するんだよね? トマス・フリーデンの噂は本当だ」
 確かにオレは出るつもりがなかった。それを先生には言ってある。
 体がこわばった。
 もともと参加は義務ではないから、個人の考えとして、出る出ないを決めたって問題なんてない。
 そう告げれば済むことだけど。喉に何かがつまったように、形にならない声がかすかにもれる。
「ああ、もしかして。コンペへの正式な参加枠は2つしかないから、辞退してくれるの? レンはピアニスト志望じゃないから譲ってくれるんだ」
 体調が万全じゃないからなんて言い訳は、ニーノには通じないだろう。
 そんなのいつもだ。そこそこ平気、がオレにとっての普段通りだから。わずかな間だけど一緒に過ごしていたニーノたち3人には、弾けるか、弾けないぐらい具合が悪いのか、その見わけがたぶん薄々つく。
 たかがサマースクールのコンペでも。
 そこそこ記録として意味を持つものだというのは知っていた。そうでなければたぶんセレスティノたちは参加してないし、ミケーレが薦めてくれるだけの理由がそこにあるんだと思う。
 でもそうやって突きつけられたら、セレスティノや、ヴィクトルやニーノを。ばかにした振る舞いをしている気持ちになる。オレが辞退しなければ枠はない、って言っているようなものだ。
 体がかすかにふるえた。
「きちんとした音楽教育を受けたこともないぽっと出に負ける気なんてしないけどね。それってすごくありがたいな。楽できて嬉しい」
「…………」
「でも不思議。おもしろいぐらい腹が立つ」
「……ニーノ」
「言っておくけど。今回のフリーデン組の一番の問題児、レンだよ」
「えっ。オレ?」
 ヴィクトルじゃなくて、と喉もとまででかかったけど飲みこんだ。
 でもついそっちに目をやってしまったものだから、セレスティノがうつむく。いやここ笑うとこじゃないから、すっごく我慢しているみたいだけどかみ殺せてないから。
 幸いヴィクトル本人はこのやりとりに気付かなかったらしい。
 よく見ればすぐそばに、大きな蛾が飛んでいた。
 どこからともなく現れ出た蛾を恐ろしげに見下ろしているヴィクトルは、全身をこわばらせている。ニーノがしかたなさそうなため息を吐き、食べ終えた菓子袋を使って手早く窓から逃がす。
 わずかな間が開いて、ニーノは息を吐いた。
 渦巻いていた毒を手放すように、ゆったりと椅子にもたれかかる。
「まったく。調子崩れるったらない」
「その、……」
 ここでむやみに謝ったりしたら、逆効果だろうか。
 悩むオレに、ニーノはやや唇をとがらせ不満そうな目を向けてくる。
「淡く光る真珠みたいにきれいで、可愛くて、マエストロ・アルベルティの推薦枠で申し込んできた一般校出身。フランス語堪能、貴族とも縁あるらしい謎めいた東洋人」
「……いや、ええと。なんか、ええと?」
 おおまかな事実は合っている気がするんだけどもものすごく過大広告というかそれで大間違いになっているというか。
 それは……、どこのどなたさまだろう……。
 頭がついていなくてぼんやりしていると、なぜかそばからため息が重なる。
「起きたらこの顔が並ぶ幸せともお別れなんだな……」
「ニーノとレンが一緒に寝息をたてているのを見たら、すべてがどうでも良くなりそうだった。とりあえず拝んでおいたぞ」
 いや、どうでも良くならないで。あと拝まないでほしい。何の御利益もない。
 レッスン中はわりとみんなどうかしてたとはいえ、そろそろ正気に返らないといけないというか。でも少しその気持ち分かる。
「ニーノは確かに天使みたいに見える。お菓子の国から来たみたいな」
「レン、鏡は見たほうがいい」
 いや、見てるよ。見てるからセレスティノ。
 一時期すごくがんばってた前髪活用法なんてびっくりするぐらい鏡を見て、形にしてておしゃれって大変だなあって思ってた。毎朝顔も洗ってる。
「一緒にいたんだから、同じ鏡を見てた」
「何言ってるの。あのね、レン。鏡はただ見るだけじゃダメだよ。かわいいとか、きれいっていうのは、使うものだよ。ちゃんと考えて」
 オレの鏡を見てた主張は、ニーノから鼻であしらわれる。
 そうは言っても、鏡にあるのは見慣れた自分の顔だ。変化といえば寝起きに髪の毛がたてがみみたいに跳ねていたりすることとか?
 複雑な気持ちになりながらも、オレは意を決したように顔を上げる。
「オレ、その、ひとつだけ言っておきたいけど。平凡さにかけては自信ある。謎めいたなんていっそ光栄なぐらい」
「貴族は否定しない?」
「……それはここでのオレにくっつけてもしかたない」
「お金に物言わせてやってきた、なんて思ってないよ。毎回ヴィックの服を悩ましげな顔で見てたもん。いっそ着ていなければ汚れない、とかいつか言い出すんじゃないかと思ってた。金銭感覚はヴィックよりよっぽどある」
「なぜだ。この美しい白さが嫌なのか。輝かしい白だぞっ」
「……いや、その…洗濯が…」
 ヴィクトルのおしゃれに対して思うところがあるわけじゃない。むしろ似合っていると思う。
 でも、より汚れが目立ちにくくて洗いやすいものを選ぶタイプもいるわけでその。ぜんぶ手洗いするか、いっそ洗わないかの2択はオレにはちょっとつらいって言うか。
 口ごもるオレにヴィクトルは想像以上にショックを受けた様子で自分の服とオレとを交互に見ている。
「あれ、また話がずれた」
「おおいにな」
 セレスティノが頷き返す。
 気付いていたなら引き留めてくれても、とは思うけど、たぶんどうでも良かったんだろう。興味がないことは手を出さないのがセレスティノだ。
「レン、どうして出ない?」
 セレスティノの興味は、そこに縫い止められている。
 真っ直ぐに向けられる問いは本当に不思議そうだった。
 分からないから尋ねている。ただそれだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
「参加を禁じられているわけではない、だろう?」
「されてない」
 セレスティノはひいおじいさまのことを知っているので、たぶんそういうことを考えたのだろう。
 ひいおじいさまは、ひいおじいさまであって。
 オレとはまるきり関係ないですなんてとっても言えないけど、でもやっぱりそれとこれとは違う話だ。
 少なくともオレ自身はここの大多数にとっては無名の、どこにでもいるひとりにすぎない。
 有名さで言えばむしろセレスティノたちのほうがずっと名前が知られていて、どうしてそんな3人の中に見知らぬ顔がいるんだ? って首を傾げられてはじめて誰だろうって思われる。
「なら、遠慮をしたのか。ほんとうに? 負けず嫌いのくせして…妙な気を使うやつだな。へんなことで寿命縮めるなよ」
「レ、レン。長生き大事だぞ? よく寝て食べて休んで適度にピアノだ最高だな」
「ヴィックは長生きしそうだよねえ」
「長生きの何が悪い。明日も明後日もピアノを弾けるようニーノも長生きしろ」
「ええー…」
「ええーじゃない。ともに大往生だ」
 唇を尖らせたニーノはいつ見ても可愛いけど、大往生かあと笑う口もとには少しだけ淡くやわらかさが満ち、視線を吸い寄せられる。
 ニーノもヴィクトルも、このままおじいちゃんになって、いつも2人でうるさいんだからとか、言われたりするのかな。
 そう思うと少しだけ気持ちがやわらぐ。
「……オレ、静かに暮らしていけるのがいちばんだと思って」
「静か?」
 ニーノはまじまじとオレを見ている。
 それってどういうの? と顔いっぱいに書いているのが見てとれて、オレはもごついた。
「……その、平和だなあっていう、感じの。いや、それが具体的にどういうのかと言われるとあれだけど、ええと、どういうのだろう」
「いや、レンに分からないものが分かったりはしないし。人によって違うでしょ」
「あー…うん」
「静かな暮らしがいいから、コンペにでないの?」
 それもなんだか違うけど、違わないともいうか。
 セレスティノは理解不能といった顔をうかべ、ニーノはあきれ顔だし、ヴィクトルはなぜかむずかしい顔で腕を組む。
 ほんの少し前なら。
 身のまわりのことがもう少しこぢんまりして、分かりやすかった。
 アパート近くの八百屋さんであまり見かけない野菜を買ってみたとか。それを夕ごはんに出してみたらあんまりおいしくできなかったけど、父さんはおかわりしたとか。
 そういうのがときどきあって、それなりに忙しくて、いつもどおりの繰り返しで。
 そういう今日や明日がなんとなく想像ついたんだけど。
 ここのところは、思ってもみないことがいっぱいだ。時々、オレはどこを歩いているのか訳が分からなくなる。
「思うのだが」
「うん」
「レンに当たり障りのない静かな日々なんてものは、たぶん無理だ」
 ヴィクトルが断言する。
 オレはたじろいだ。……無理、無理なのか?
「ど、どうして」
「レンだから。理由は聞かないでほしい。ただの勘だ」
 勘を理由に言い切られるとは思わなかったけど、ヴィクトルらしい気もする。
 そのせいか妙にすんなり響いて、オレは慌てた。
「いや、で、でもな。前向きで現実的に考えての話なんだけど。オレ、出なくてもかまわないだろ?」
 はじめに行われるのは予備選というか、観客なんてほとんど身内しかいない状態でのもので、そこで街の会場でひらかれるコンペ本選への参加者を決める。
 そもそもオレは、セレスティノたち3人に全然追いつけてない。技術とか、知識も練習量もまるきり。
 出たほうがおもしろいよ、ってフリーデン先生には言われたんだけどさ。
 オレにとってはコンペに挑む、っていうのは考えてもいなかったことで、端っから対象外というか、はんちゅう外なのだ。
 そういうことを言おうとしたけれど、考えれば考えるほど情けないようなしょぼくれた気持ちになった。
 レッスンを受けているときは色んな気持ちがふくらんで、楽しかった。今もずっとその続きにいたのに、オレ、自分でそれをふいにしていってる。
「レン……あのな…」
 セレスティノが何かを言いかけ、その口を閉ざす。
 いつのまにかうつむけていた顔をあげると、いきなりそれは来た。
「は…ぶ…」
 ぎゅうぎゅうに頬をつぶされた。力いっぱいにニーノの手のひらで両頬をつぶされる。
 そのまま膝の上に乗りかかられ、体重をうまく支えきれずに傾いた体をセレスティノとヴィクトルに、ぱしっと受け止められた。おかげで床にすべりおちるのだけはまぬがれ、そのまま頬が形を変える。
「その可愛い顔はなんなの? 飾り?」
「……うぶ…あ…」
 ごめんニーノ。
 顔は顔みたいな飾りというかオレの顔であるそれは、いま人体の限界に挑戦していることだけは分かるんだけど。
 どうしてオレの顔、そんなことになっているんだか、ちっともというかさっぱりというか。
「枠が2つならちょうどいい。あのもじゃ頭の挑戦、受けて立てばいいだけじゃない」
 も、もじゃ頭……。
 それってフリーデン先生の、ことだよ、な。でも。
 ニーノの言葉に思い当たることはある。ずっと一緒にレッスンを受けてきたから、分かるけれど。
 でもそれは。ニーノが選ぶはずがないことだ。ニーノの得にならない。第一無謀だ。
「待った、ニーノ。そんな、む、むちゃ」
「噂話の内容なんてどうでもいいよ。レンは知らなかった、ってことが分かったし。でももう知って、その上でボクやもじゃ頭をコケにする振る舞いにレンが乗っかるってことが嫌」
「コケにするとか、お、オレは」
「そんなつもりはないとかはどうでもいいし、これはボクの好き嫌いの話だよ」
 きっぱりだ。ものすごくはっきり言った。
 あまりに潔くて、あ…そうなんだ、と頷いてしまってからはっと我に返る。
「ニーノが嫌なのは分かったけど、……」
 オレにだって。
 オレなりの言い分がある。……気がしますので。ええと。
 一生懸命頭を動かしたいんだけどそこか動かないかわりに頬が最大限ののびのびもにゅもにゅ、ぐいぐいと七変化だ。
「ねえ。レン」
「ふ、ふい?」
 このままオレの頬はおもちの工芸品みたいなことになりそう。
 意識が遠のきかけたところで、頬から手のひらがするりと外れる。
 開放された頬に両手を当てて無事を確かめていると、笑みもにこやかさもない穏やかな顔が向けられた。
「レンは選ぶの。ボクたちを軽んじるほうを?」
「違う」
「ならどうして」
「ニーノ。オレ足引っ張るだけだから。それこそ、そっちを選んだら」
「レンがやらないって決めたなら、ボクたちが口出すようなことじゃないのかもしれないけど」
 小さく肩を落とし、うつむいたニーノは見たことがないぐらい落ち込みをのぞかせる。
 わずかに眼差しを落としたニーノが見ていられなくて、気持ちがざわついた。
 オレはそんな顔をニーノにさせたいわけじゃない。けれど、どうしたらいいのか分からない。
 そもそもオレは、どうしたいんだろうか。
 言葉が出ないままのオレに、ニーノがふたたび顔を上げる。
「レンはボクよりずっと賢いし、気づかいも出来て、責任感もあって。そんなレンに拒まれるなんて、自信失っちゃいそう」
「そんなこと、ニーノはすごいし、かっこよいし」
「そう? ボク、レンと弾きたいだけなのに……。レンは違うの」
 ニーノの問いかけに思うより先に首を横に振る。
「弾きたい。でも、……オレ、足りなすぎるから」
 言ってみてから、やりたい気持ちがオレにもあるんだって気付く。
 そう思った自分に驚いた。オレ、弾きたい……?
 ニーノもあまりにさらっとこぼれでたオレの言葉に驚いたように瞬き、不思議そうに首をかしげる。
「……やってみたいの? ボクとじゃ、いやとかじゃなくて?」
「そんなことは思ってない。問題があるのは、ただオレのほうで」
「なーんだ、そうか。それなら平気でしょ。かんたん」
「え。いや…かんたん……」
「レーンー。弾くか、弾かないか。そのどちらか以外はないよ」
 お砂糖でつくられた国の天使はにこやかに微笑む。
 オレの目は無意識に、レッスン室に置かれたピアノをとらえる。
 ここでニーノの話に首を振って、離れたら。そうしたら、あのピアノが遠ざかる。そんな気がする。
 新しい曲をふくらませることも、生み出すことも、響かせることも。
 音のそばから引き離されたら、手にしてきたものすべてがこぼれおちていく。何もかも飲み込む大きな穴が顔をのぞかせる恐ろしさが体を貫いた。
 背筋がぶるっとふるえた。
 弾くか。弾かないかなんて。
 そんなの。
「うん。レンならそうだよね」
「夢うつつにでも弾こうとするやつに、弾かないって選択肢はないな」
 ふらふらとピアノ前の椅子を陣取ったオレに苦笑いがふりそそぐ。
 色々言い訳したい気もするけど、立ちあがって明け渡す気にもならないからどうしようもない。
「夢うつつに弾く必要などない。寝て起きればいいのだからなっ。場所なら用意しておいたぞ、ほら」
「……?」
 それ、ヴィクトルのスーツケースだよな。
 部屋の隅にあるなあとは思ってたんだけど。
 いったい何を運んできたのかと思ってのぞきこむと、ぼふんと布のかたまりが広がった。
 オレひとりぐらいなら入れそうだとは思っていたけど、布団がまるごと入ったのか……これ。
 さあ、このとびきりのベッドを使え、良きに休めとすすめて、ヴィクトルはいつにもまして輝いている。思いついてしまった素晴らしいことを披露できて嬉しいらしい。
 オレのまわりにセレスティノやニーノも飛び込んできて、思った以上にふかふかとした寝心地なのを確かめては笑っている。
 彼らもニーノの案に乗っかるつもりなんだと気付いた。オレはほんの少しだけ口もとをゆるませ、浅く息を吸う。そうしてから、かたく引き結んだ。
 腹をくくったあとはとにかくすすむしかない。迷っているひまなどなかった。



- 51 -

[back]  [home]  [menu]  [next]