3.5章-4-





 事務所のソファで由岐人はぼーっと時計を見上げていた。時間は10時を少し回った、店としてはかき入れ時のその時間。それなのに由岐人は今一人事務所でいる。なぜならば、気持ちが落ち着かなくて仕事が手につかなくて、咲斗から事務所に入っていろと言われてしまったのだ。
 あんな風に怒られたのは久しぶりかもしれない。だから、気持ちを切り替えてちゃんとしなきゃいけないと思うのに、どうしても追い払えない違うことが由岐人の心の中を占めていた。
 頭に浮かぶのは、バックミラーに写る姿。
 その顔。
 やるせない、抱えるには重い気持ち。
 とめどなく浮かんでは消えていくそれらが頭の中をぐるぐる回って、他の事に気を配れない。
 カチャっと扉が開く音にさえ気づかなかった。
「由岐人」
「・・・」
「ゆーきーと」
 ――――あ、呼ばれた・・・?
 随分鈍い反応だった。それでもまだ、声を返すには数秒かかっていて。
「由岐人!」
「ああ・・・、咲斗」
 やっと思考が戻って来て、顔を上げて見てみるとそこには兄である咲斗。
「どうした?らしくもない」
 別に怒っているわけでもない口調にどこかホッとしながら、由岐人は視線を巡らせた。
「ごめん」
 それでも、どうにも反応は鈍い。
「どうした?何かあったのか?」
 咲斗は由岐人の向かいに腰を下ろして、由岐人を見つめる。その瞳は少し心配そうでもあり、兄としてどこか嬉しそうでもあった。
「何って、言うほどでもないけど・・・」
「けど?」
 由岐人は視線を戻して咲斗を見つめる。自分と同じ顔、同じ仕事のいわば分身の様な存在。そのはずなのに、その瞳は穏やかで顔つきには自分よりも随分と余裕があるように見えた。
 いつも、いつも、迷惑をかけた相手。母も、父すらも自分が奪ってしまった。その上、身を切る様な辛い思いまでさせた。
 それでも、傍にいてくれた。
「うん・・・」
 そして、その中で最愛の人を手に入れた。
 同じ時に同じ場所で同じ人から生まれたのに、随分違う道を歩いたと思う。
「ん?」
 この兄ならどう思うのだろうかと、由岐人はふと聞いてみたくなった。
「あのさ」
「ああ」
「・・・もしも、さ、響と出会うのがもう少し遅くて」
「うん」
「大学生とかになってたりしてたら、どうしてた?」
 自分よりも強い人だから、どうするのか少し聞いてみたかったのだろう。
「どうするもなにも。今と変わらないだろう?もし全然違う知り合い方をして、その時響が大学生だったとしたら、もちろん違う攻め方をしたかもしれないけれど。でもそれは過程が違うだけで結果は同じだろう。俺にとって響は必要な人だからね。掻っ攫って来るだけだ」
「ふーん・・・」
 その存在を見つけられなくて焦れていた時や、監禁してなお上手くいかなくてイライラした時を忘れた様な余裕のある口ぶりに、由岐人は思わず口を尖らした。
 ちょっとずるい、そう思う。
「なんだよ?」
「別に・・・」
 ちょっと拗ねた声に、咲斗は忍び笑いを漏らす。
「剛が大学生なのがマズイのか?」
「っ、剛は別に関係ない」
 なくはない、というよりむしろ大有りだけれど、由岐人はそう言ったつもりはない。咲斗から見ると、ばればれなんだとしても。
「そうか?」
「・・・・・・・・・、ただ・・・・・・」
 由岐人がむぎゅっとクッションを強く抱きしめる。
「ただ?」
 ―――――住む世界が違うのかなぁー・・・って
 昼間の風景。
 溶け合わない自分達。
 場違いな、存在。
 馴染めない空間。見知らぬ空気。
 味わえなかった普通。
 そんな物が全て、由岐人にそう言っている気がした。
「ううん、・・・なんでもないっ」
 けれどきっと咲斗は、そんな事も関係ないと笑って言うだろうと由岐人は思った。きっとそんな事に悩まないだろうと。だって咲斗には、自分の様な、囚われる過去も無いから。
 罪があるのは、自分だけ。
 ――――やっぱり、その違いは大きいかな・・・当然だけど。
「・・・っ」
 視線を感じて顔を上げると、嫌になるくらい真っ直ぐに咲斗が見ていて、思わず由岐人はその視線から逃れたくてクッションに顔を埋めた。
 その視線に、わけも無く涙が込み上げてくるのは何故だろう。
 由岐人はそれを誤魔化したくて、話を変えようとして慌ててしゃべったその言葉は、あまり良いチョイスではなかった。 
「そういえばあいつ、今夜クラブに行ってるかも。人が働いてるのにさっ」
 と言うよりはむしろ、気になっていることをそのまま口にしてしまった気がする。
「クラブ?」
「うん。そう。誘われてたんだ。――――Lに」
「行くって?」
「いや、一応断ってたけど。・・・どうかな」
 行ったかもしれない。
 怒ってたし。腹たって行っちゃうって事は、結構ありなんだと思う。
「じゃぁ家に電話してみろよ。そうしたらわかるだろう?」
「・・・っ・・・」
 あっさり言う咲斗に、由岐人の顔は不満気に歪む。だってそれはなんだかちょっと、じゃないか?どうして僕がそんな事、由岐人の顔にはそう書いてある。
 こんなにも、気にしているくせに。
 その時扉がノックされて高崎が顔を覗かせた。
「すいません、お願いします」
 客が来たらしい。
「了解――――由岐人、さっさと電話してすっきりして出て来い。いいな?店は今忙しいんだ」
 咲斗は怒った風でもなく笑いを含んだ声でそう言い残すと、ソファに座って難しい顔をしたままの由岐人を置き去りに行ってしまった。
 その扉を、思わず恨めしげな瞳で由岐人は睨んだ。




「あっ・・・、剛」
『由岐人!?』
 由岐人は悩んだ挙句、結局家に電話した。もちろん携帯じゃなくて、家電に。
「あ、いたんだ」
 なんでこんなにそっけなくなってしまうのだろう。
『いたけど?』
 呼び出し音5回目で出た声に、由岐人はバカみたいに心臓がバクバクしていたくせに。そんな言い方しかしないから、剛の声もちょっとムっとした物に変わってしまう。
「あのさ、11時からのニュース録画しておいてくれない?」
『ニュース?』
「うん、ちょっと見たいのがあって」
『わかった』
「それだけだから、じゃぁ」
『えっ、おいっ』
 さっさと切ろうとする由岐人に、思わず剛が焦った声を上げる。剛にしてみれば、昼のあんな別れ方の後だけに、もっと違う言葉を期待したのかもしれない。
 それともただ、声をもう少し聞いていたいと思っただけなのかもしれない。
「なに?」
 けれど、それが分かっているのか分かっていないのか。とにかく由岐人はそっけない。
『なに・・・ってその、そう。今日は忙しいか?』
「うん。だからもう、行かなきゃいけなんだ。じゃぁ」
『え、由岐―――』
 最後、声の途中で由岐人は電話を切ってしまった。けれどそのそっけなさとは正反対に、由岐人はそのままその場にヘタレ込んでしまった。受話器を握り締めたまま。
 ――――なんだ、家にいたんだ・・・。そっか・・・。
「ばか、みたいだ・・・」
 こんな、電話をかけるだけでドキドキして。女子高生じゃあるまいしと、自分でツッコミたくなってしまう。
 けれど、前の時。彼はどこで何をしているのか確かめようも無かった。由岐人自身もまだ子供で、彼を盲目的に信じる事しか出来なくて、ただ失くしたくなくて色んな事を我慢していた。不安なんか見ないようにしていたけれど。
 今は違う。
 毎日そこにいて傍にいて。何をしているのか生活のリズムさえも知り合う関係。言いたい事があれば言えばいいし、言われる事もある。
 ただ、近すぎて距離のとり方が分からない。踏み込まれることにまだ躊躇いがあって、踏み込むことがまだ怖い。これ以上好きになるのも、これ以上心が依存していく事も、まだ怖い。
 本当にこのまま、幸せになっていいのだろうか?そんな言葉はいつも頭をもたげてくる。
 好きだと思っていて、いいのだろうか?こんな自分が。
 ――――あの人や、母は許してくれるのだろうか?
 剛はそれで、幸せになれるのだろうか?
 ふと頭に過ぎった、昼間感じた違和感。今からフロアに出て自分が稼ぐ世界と、昼間見た世界はかけ離れすぎていて。
 何もかもに、自信が持てない。
「――――仕事、しよ・・・」
 ぽつりと無意識に言葉を吐き出して。由岐人はフロアへと降りていった。

 考えることを放棄するためには、どれくらいのお酒が必要だろうか?






 真夜中3時を回った時刻。由岐人はシン・・・と静まり返る室内で録画されていたニュースをとりあえず再生していた。別に見たかった特集などあるはずも無い。ただなんとなく、再生してそれをソファにだらりと寝そべりながら眺めていた。
 ――――眠い・・・
 フロアに出ていた時間は短くて、酒もそんなに飲まなかったはずなのに何故か気だるい、悪酔いしたような気分が由岐人にのしかかっていた。それはスーツを脱ぐのも億劫なほどで、かろうじで脱いだ上着は椅子の背もたれに掛けられているが、外したネクタイはその辺に転がっているだろう。
 どんどん閉じられていく瞼の先に、最後に見たのはスポーツキャスターの笑顔だった。何がそんなに楽しくて、そう思った直後、由岐人の瞼は完全に閉じられて、手にしたリモコンが床へとから滑り落ちた。

 それから、20分ほどたっただろうか。

「・・・由岐人?」
 小さな声とともにリビングダイニングの扉が開いて、剛の顔が覗いた。ふと目が覚めて時計を見たら、由岐人が帰っていなければいけない時間。それなのに横にいない事に不審に思った剛はその姿を探しに起きて来たのだ。
「あれ?」
 テーブルの椅子の背もたれにはジャケットが置いてある。しかし、物音がしない。視線をめぐらすと、ザァーっと音をたてているテレビ。
 剛はとりあえずテレビを止めようと近づいていくと。
「由岐人・・・っ」
 足音をなるたけ立てないように近づくと、ソファに横になっている由岐人が視界に現れた。もしかして寝てしまっているのかと近づいて、声をかけようと見つめたその先。
 スッと頬を伝い落ちる一筋の涙。
 ――――え・・・?
 何の涙なのかどんな理由なのか。何も分からないけれど、思わず抱きしめようと伸ばした手は、由岐人が寝ているのだと思い直して。なんとかそっと触れるだけにした。そっと、涙の痕を拭う。
「由岐人」
 そして、そっと振り動かす。
「由岐人。服、皺になるぞ」
「っ・・・、あ・・・?――――つよし?」
 うっすら開けた瞳はまだどこか頼りなく、剛を見上げる。
「こんな所で寝てたら風邪引くぜ」
「ああ・・・、僕、寝てたんだね」
 由岐人は軽く頭を振って身体を起こした。その顔がわずかばかり青く見えるのは、照明の加減なのか夢の所為なのか。ただ剛はその思いを口にする事はしなかった。
 いや、出来なかった。
「疲れたんだろ。シャワー浴びて来いよ。で、さっさと寝ようぜ」
「うん、そー・・・する」
 剛の言葉に由岐人は軽く頷くと、少し心もとない足取りで立ちあがった。
「大丈夫か?」
 顔を近づけた時に感じた酒臭さと、その足取りに思わず剛が言う。
「んー、へーき」
 あまり平気そうでない口調で言うと、差し出した剛の手を笑って首を振って拒絶して、浴室へと向かって行った。その背中を、剛はなんとも言えない顔で見送って、ため息をついてぺたりと床に座った。
「・・・なんだかなぁー・・・」
 ――――わかんねぇー・・・
 急に不機嫌になって帰って行った昼間。そして一人ソファでうたた寝した挙句泣いて。それを引き止めることも、抱きしめることも、理由を問うことも出来ない自分。
 一体自分は、何のためにここにいるのだろうと自問してしまう。
 幸せになろうと言った。俺が幸せにしてやる、と。けれどあの日から結局二人の距離は何一つ、たった1ミリさえも近づいていない気がするのは剛だけだろうか。
 ――――時々、どこにいるのかわかんなくなるよ・・・
 見えない心の中が、不安を煽る。僅かな隙間に住み付くようにそれは燻って、どんどん歪を広げていくのだろうか。
「・・・はぁ」
 剛は頭をソファに乗せて、天井を仰ぎ見る。
 ――――俺ではダメなんだろうか――――?

 その問いを自分に投げかけるのは、一体これで何度目だっただろうか。








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