3.5章-6-





「お疲れ様」
 夜中の2時半すぎ。今日の営業時間も終わって最後の客も帰ったその後で、事務所に戻った由岐人に咲斗が声をかけた。
「うん、お疲れ様」
 由岐人はそれに笑顔で答えて、ソファに座り込むと、咲斗がカフェ・オレを差し出した。
「ありがと」
 暖かくて程よく甘いそれは、酔った頭と疲れた身体にゆっくりと浸透して。由岐人はホッと大きな息を吐き出した。
「今日はなんか調子良かったな?」
 咲斗はデスクに座ってノートパソコンに目をやりながら由岐人に言う。
「・・・そう?」
 いつもと同じだと思うけど?そう言って由岐人は肩を竦めた。室内には、咲斗のノートパソコンを操作する音が微かに聞こえている。他店舗から送られてくる今日の売り上げを確認しているのだろう。
「どう?」
「ああ、上々かな」
 まだまだ不景気の残るこのご時勢で、二人の仕事は順調に進んでいるようだ。
「ところで――――何か、あったか?」
 世間話をするかの様に、軽い調子で聞かれた言葉の意味を、由岐人は一瞬見失った。
「・・・え?」
 何が?と素で問い返してしまった由岐人に咲斗が苦笑を浮かべる。
「何か、あったんじゃないのか?」
「どうして?」
 何かってどういう意味?と由岐人は首を傾げる。その顔は、心底咲斗の問いかけの意味を理解していないような気がした。そんな由岐人に、咲斗は困った顔を浮かべて静にノートパソコンを閉じた。
「なんとなく。由岐人がそういうテンションの時って、なんかあった時だから」
「そういうテンションって」
 ――――どういうテンション?
「笑顔が張り付いてる」
「・・・僕、笑ってる?」
 ――――そんな自覚、無かったけど。
「メチャメチャ笑顔だぞ」
 苦笑交じりの咲斗の言葉に、由岐人はきょとんとした瞳を向け思わず自分の頬に触れる。
 ――――そうか・・・そうなんだ。僕はちゃんと笑えてるんだ・・・・・・
 ってことは、別に全然どうって事ないんだな。別に、アイツが、他の女の子とデートしていようが遊んでいようが、腕を組んでいちゃついていようが。僕は、全然平気なんだ・・・・・・。なーんだ、そうか。・・・・・・そうなんだ。
「松島様も、由岐人上機嫌ねぇってビックリなさってたし」
 ――――僕は、平気なんだ・・・
「・・・今日、松島様来てた?」
「来てた。由岐人が席に付いてただろうが」
 ――――そうか?・・・そうだったっけ?
 ダメだ、全然憶えていない。そもそも、同伴して来たのが誰だっけ・・・・・・ああそうだ、中井様だ。それで一緒に軽く食事して・・・・・・・・・・・・・・・
「由岐人?」
 そこで。
 ――――痛い。なに、これ・・・・・・
「由岐人!?」
 食事して――――それで・・・・・・
「え?・・・あ、何?」
 痛い。
「本当に、何があった?」
 真っ直ぐに刺さる咲斗の視線。それを由岐人は、急に見えにくくなった視界の先に捕らえていた。 
 ――――なんでこんな、見えにくいんだろう・・・?何が、こんなに痛い?
 まるでそれは急に近視にでもなったかのように、視線の先が霞んで、まるで心臓の病でも持ったかのように胸が痛い。
「同伴の時、何かあったのか?」
 ―――――いやだ・・・知らない・・・・・・
「なん、で?」
「昨日まで普通だった。今日の昼間も、普通だった。それなのに、出勤してみたら普通じゃなかった」
 痛い。
「そうなれば、何かあったのは同伴の時しかないだろう?」
 咲斗の言葉に、由岐人は返す言葉も見つからない。いつからこんなにも、心を隠すことが下手になったのだろう。
 そう、あった。同伴の最後。
 衝撃的に、苦しい光景を見たんだ。
 道路の向こうに。
 それは本当に、綺麗な1枚の絵。
 足元が、崩れ去った瞬間。
 きっと僕じゃない。あの絵に似合うのは、剛に似合うのは・・・僕じゃない。
「由岐人・・・」
 痛い。痛い。痛い。
「――――剛は、」
 大学の友人なのか、それともコンパなのかサークルの飲み会なのかは知らない。いや、サークルには入ってるとは聞いてないからそれは違うか。
「ああ」
 いや、本当は入ってて僕には黙っているだけなのかも知れない。もう、何がなんだかわかんない。
「大学生、だから」
 ただ僕に分かるのは、きっとあの光景は大学生の普通。日常なんだろうという事だけ。
「・・・・・・」
 道路を隔てただけの距離なのに。そこにはまったく違う風景があった。向こうはきっと居酒屋かなんかで飲んで、これからカラオケにでも向かう途中だったのかもしれない。
「僕はさ、・・・」
 こっちは高級イタリアレストランで食事して、10万ほどの食事代をご馳走になって、その上店までエスコートして400万のお支払いだ。きっと誰も、僕と、道路向こうの剛が知り合いだなんて思いもしないに違いない。
「ホストで、年上で」
 交わらない風景。
「しかも、男で」
 それがショックだった。
「由岐人」
 突きつけられた気がした。
「僕は男しかダメだけど、・・・剛は違う」
 住む世界が違うんだ、と―――――
「きっと、本当は・・・」
 彼にはもっと真っ当な、明るい道が待っているんだと。
「僕が・・・」
 僕がそこに翳を落とそうとしている。
「由岐人、泣くな」
 ――――泣く・・・?
 向こうのデスクに座っていたはずの咲斗が、いつの間にか由岐人の横に座って。その頭を優しく引き寄せた。
「泣く相手が、違うだろう?」
 肩口に顔を埋める由岐人に、咲斗は呟く。けれど、由岐人はその言葉を否定するかのように首を横に振った。
「今ならまだ・・・」
 今ならまだ引き返せる。我慢出来る。きっと誤魔化せる。この2ヶ月が夢で、僕はやっぱり一人なんだとちゃんと自分に言い聞かせる事が出来るから。
 そうやって、生きていける気がする。
「ちゃんと帰って、話をしなさい」
 優しい声で諭す様に言う。けれどやっぱり由岐人は首を横に振って、声を殺して涙を流し続けていた。
 だって、僕が壊れてしまっても。
 あんなに真っ当な剛を、巻き込んでいいはずがないから―――――
 返してあげなきゃ。
 "普通"の中に。
 それしか、剛にしてあげられる事は無いよ。





 結局、帰りたくないからホテルにでも泊まるという由岐人を咲斗は説得しきれず。じゃあ響に電話して、ホテルにも電話してやるからちょっと待っててと言って、一人廊下に出た。
 携帯からのコールは1回で、相手は出た。
『もしもし』
「今から10分で迎えに来い」
 声は、さっきとは打って変わって地の底から這い出たような、怒りを押し殺せない殺気だった声。
『え!?咲斗?』
「少しでも遅れたら、ぶん殴る」
『え・・・おい―――』
 咲斗はそれだけ言って、電話をブチっと切ってしまった。
 ホテルなんか最初からとるつもりは無い。頭は怒りで血管がブチ切れそうになっていた。それでも剛に電話を掛けたのは、由岐人が剛を望んでいると分かっていたからだ。
 剛にしか、任せられないと知ってしまっているから。
「大体にして、見る目が無いんだ・・・」
 それはきっと、由岐人の男の見る目が無い、という事だろう。咲斗にすれば、さっきからの由岐人の説明では一体何があったのか、まったく要領を得なくて分からない。ただ、それが剛絡みである事だけは間違いが無い。その上由岐人が泣いたとあっては、間違いなく剛に非があるのだと疑うことなく確信していた。
「だいたい、由岐人を泣かすだけでも許しがたい・・・」
 いらだたしげに眉を潜め、手にした携帯をコツコツと指で叩く。どれくらいそうしていたのか、剛を迎えるために裏口に出ていた咲斗の前に、響の原付が止まった。
「咲斗っ」
 乗っているのは当然剛。
 それでなくても腹が立っている咲斗に対し、響の原付で現れるのは火に油を注ぐようなもの。
「一体何――――ガッ!!!」
 鈍い音と共に、剛の体が後ろに吹っ飛んだ。ドサっと身体の落ちる音。物の見事に剛の身体は地面へと転がった。
「こっから入って、奥の階段を上がったところに事務所がある。由岐人はそこにいる」
 声は、氷よりも冷えて。その瞳には視線だけで相手を殺してしまいそうなほどの殺気。
「何があったか知らないが、ちゃんと落とし前はつけてくれ。お前がどう思っていようと――――あいつはまだお前が好きなんだよ。不本意だが」
 殴られた剛は、負けじと咲斗を睨み返していたが。ここで睨みあっていたところで仕方が無い。第一、剛には後ろ暗い思いがあった。手加減などほとんどなく殴られた頬はすでに赤く色が変わり、口の中には鉄の不味い味が充満していたが、それに文句をつけられるほどの立場でも無い事は、わかっていた。
 剛は黙って立ち上がると、咲斗の横を通り抜けドアノブに手を掛けた。
「連絡くれて、さんきゅ」
 そういい残すと、由岐人の元へ一目散に駆け出した。









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